第9話 あの3人組の変化
寮での生活にもすっかり慣れ、一臣さんに手抜きをしていいと言われてから気持ちが楽になり、やる気が上がっていた。そんな私を見て、
「弥生、最近は弥生らしくなったな」
と一臣さんがそう声をかけてきた。
朝、一臣さんは洗濯物を干し終え、ベランダから部屋に入ってきた時だった。
「あ!洗濯物ありがとうございます!」
「いや。俺も随分と慣れてきただろ。干すのが前の半分の時間で出来るようになった」
「ですよね!それも綺麗に干してくれてて、助かります」
「ふん!弥生も朝、慌てていたのが最近は余裕だな。今、鼻歌歌いながら弁当作っていただろ」
「ごめんなさい」
そうだよね。余裕があるなら洗濯物も干さなきゃだよね。いつも一臣さんにお願いして申し訳ない。
「ははは。弥生が朝から楽しそうで、壱も嬉しそうだ。な?壱」
プレイマットでおもちゃを振り回している壱弥を抱っこして、一臣さんは笑った。ああ、朝から一臣さんもご機嫌だ。
「すみません。洗濯物明日から干します」
「いや、俺がする。けっこう充実感があるんだ。晴れている日なんか、気持ちいいしな」
え?そうなの?!ちょっとびっくり。嫌嫌しているわけじゃなかったんだ。
「なんでそんなにびっくりしてるんだ」
「あ、えっと。まさか、一臣さんが洗濯物を干すのを楽しんでいるなんて思わなくって。面倒くさがり屋だし」
「確かに面倒くさかったが、最近はコツも覚えたし、それなりに楽しんでいるから安心しろ。俺が出来ることなら手伝ってやるから。お前も仕事張り切ってるしな。託児所のプロジェクトも順調みたいだな」
「そうなんです!皆さんの気持ちも徐々にわかるようになってきて、話が進むって言うか、どんどんアイデアも出てきて、きっと素晴らしい託児所になります」
「そうしてくれないと困る。なにしろ、大事な壱を任せるんだからな」
「ですよね。自分の子どもを預けても心配のない、安心できる託児所つくります!」
「ほんと、元気になったな」
そう言うと一臣さんは、壱弥を抱っこしたまま、私にチュッとキスをした。それを見ていた壱弥が一臣さんのほっぺにキスをしている。
「壱、お前のよだれが思い切り俺の顔に…」
そう一臣さんは眉をしかめた。だけど、嬉しさのほうが勝ったらしく、
「お前も可愛いな!」
と、壱弥のほっぺにキスしまくった。
「やばいなあ」
は~~~。長い息を吐いた一臣さんに、
「何がですか?」
と聞いてみると、思い切りにやけながら、
「家族3人の生活が満たされてて、他に何もいらなくなるくらい幸せだなって思ってな」
と呟いた。
「一臣さん!」
「目、潤んだぞ、弥生。ああ、弥生もそう感じていたか」
「私も幸せです。でも、そんなふうに思ってくれたことが嬉しくて」
じわ~~~~~。泣けてくる。
「あ、だけど、仕事も頑張らないと。機械金属プロジェクトも、絶対に成功させないとならないし」
「わかってる」
キリッと一臣さんは表情を変えた。
でも、今日もまた車の中でも一臣さんの顔はしまりがなく、会社に着くまでは私と壱弥にデレデレになっていた。っていう私も一臣さんに思い切り甘えているんだけど。
そうそう。結局日野さんやモアナさんは、朝一緒に車に乗ることを断り、タクシーを使うようになった。さすがに一臣さんと一緒の車は緊張するらしい。
機械金属プロジェクトのほうも順調で、実際に成果を上げ始めた。山之内さんもやり手で、決断力から行動力からとにかくすごい。杉田さんはよく、社に持ち帰って検討しますとか言うけど、
「いつまでに答えが出ますか?いつから動けますか?早急にお願いしたいんですけど」
と、一臣さんが何か言う前に、山之内さんがそう杉田さんに質問攻めをする。あの杉田さんが、山之内さんにはたじたじになる。
一臣さんはそんな山之内さんを評価しているし、
「仕事が速い人間はやりやすくていいな。みんなも山之内を見習え」
とまで言うほどだ。
「やりにくいなあ、彼女は」
会議のあと、トイレから出ると前を歩いている3人の声が聞こえてきた。3人と言うのは、緒方電気、緒方機械、緒方金属の例の3人組だ。
「ああ、山之内さんですか。確かに仕事が出来る人間かもしれないが、話していても本心が見えないというか、裏がありそうで怖い女性ですね」
「うん。やけに一臣氏は気に入っているけどな」
子安さんの言葉に杉田さんが答えた。
突然3人は立ち止まった。それから周りを見回した。私と隣にいた矢部さんは、慌てて柱の陰に隠れた。
「山之内さんは、一臣氏に気があるね。だから、仕事を頑張ってアピールしているんじゃないのか」
「前々からの知り合いだったみたいだし、一臣氏もまんざらでもないんじゃないですか」
「見た目派手ではあるが、一臣氏も女遊びが派手だったんだろ?ああいう女性が好きそうだよな」
「そういう意味では弥生さんは、一臣氏の好みではないってことですかね」
ギク。なんで、そんな話をしだしたわけ?
「奥さんにするなら、僕でしたら断然弥生さんがいいですけどね」
え?戸部さん、そんなこと言ってくれるんだ。びっくり。
「弥生さんも仕事ができるし、何しろ一生懸命で健気な感じがいい。僕は、一臣氏、意外と弥生さんを気に入っていると思うけどね。政略結婚らしいけど、あんな可愛らしい奥さんだったら、嬉しいと思うなあ」
ええ?!子安さんまで、そんな嬉しいことを。
「確かに。山之内さんが奥さんって言うのは、心が休まらないな。本心が見えないし、一緒にいても疲れるだけだろう」
…そんなふうに男の人は思うんだ。綺麗だし、女らしさなら山之内さんのほうが上だし、私と比べたら雲泥の差があると思ったのに。
3人はまた、足を進めて廊下を歩き出し、そのままエレベーターホールへと向かっていった。私と矢部さんも、3人と距離を置いて歩き出した。
「前は弥生様のこと悪く言っていたのに、弥生様の良さをわかって、皆さん、考えを変えられたんですね」
小声で矢部さんは嬉しそうにそう言った。
私が返事をする間もなく、私たちは3人に追いつき、一緒にエレベーターホールに並んだ。
「お疲れ様でした」
私からぺこりとお辞儀をすると、3人もこちらを向き、
「あ、お疲れ様です」
と軽く頭を下げた。
「託児所プロジェクトも順調そうですね」
子安さんが声をかけてきた。
「はい!そうなんです。一臣さんに提示されていた期限までに、ばっちり間に合いそうで良かったです」
「そうですか。弥生様、張り切っていますもんね。その合間に機械金属のほうも、あれこれ資料を作ったり、見積書を作ったりと大変ですね」
今度は戸部さんだ。
「いえ!やりがいもあるし、早くに工場や子会社の人たちが、不安なく仕事をして欲しいから、そう思うと大変って気もしないんです。なんていうか、力が湧いてくるって言うか」
「弥生様の仕事に対しての意識は高いですね。出世だの、勝負だの、そういうことではなく、純粋に会社のため、人のために働いている」
「え?」
「それが、そのまま伝わってきますよ。裏表のない人なんですね。そういう方が社長夫人になられるのは、社のためにもいいことだと思います」
ええ?!
今、なんて言った?杉田さん。
ギュ。隣にいた矢部さんが、私の腕を思い切り掴んだ。びっくりして矢部さんを見ると、嬉しそうに頬を高揚させている。
「あ、あ、ありがとうございます。そんなふうに言ってもらえるなんて…。きょ、恐縮です」
「僕たちも頑張らないとならないですね」
「……。え、えっと。はい。これからもよろしくお願いします」
そう言って私は、ぺっこりと頭を下げた。90度どころか、頭が膝に着くくらいの勢いで。
「あ、そんなに頭下げないで下さい。こちらこそ、よろしくお願いします。では」
ちょうど下に向かうエレベーターが来て3人は乗り込むと、エレベーターのドアが閉まるまで、私たちに頭を下げていた。
そして、
「きゃあ。すごいことが起きましたね、弥生様!」
と、エレベーターのドアが完全に閉まりきると、隣にいた矢部さんが飛び上がった。いつもわりと冷静なのに、矢部さんがすごくはしゃいでいる。
「は、はい」
私は把握できず、その場に立ち竦んでしまった。
「おい、どうしたんだ?矢部。そんなに騒いで」
後ろから一臣さんの声がした。リーダーの綱島さんと山之内さんも一緒だ。会議室に残って何やら打ち合わせをしていたが終わったらしい。
「あ、申し訳ありません」
矢部さんは顔を赤くして頭を下げた。
「なんだ?何があった?」
「え、えっと。杉田さんに言われたことでびっくりして」
私が答えると、
「また嫌がらせか?」
と一臣さんは顔をしかめた。
「嫌がらせ?そんなの受けてるんですか?」
山之内さん、今のは心配してるわけじゃないよね。だって、口元がちょっと上がった。喜んでいるようにも見える。
「ふん!あいつらは弥生の良さを理解しないんだ」
「弥生様の良さ…ですか?まあ、一臣様。わたくしもまだ日が浅いものですから、ぜひ、弥生様の良さを教えてください」
「は?わからないのか?何度か会って、一緒に仕事もしていたらわかるだろ」
「……」
うわ。山之内さん無言。首を少しだけ傾け、口元を緩ませた。それ、わからないって表情?それとも何?わかりにくいよ。
「まあ、いい。それより、綱島、明日の件、しっかりと頼んだぞ」
「はい」
上に向かうエレベーターが来て、一臣さん、私、そして矢部さんは乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間、山之内さんが私をじろっと冷たい視線で見たのがわかった。怖い。
「で、どんな嫌がらせだ」
上の階へとエレベーターが上り始めると一臣さんが聞いてきた。
「違うんですよ、一臣様。杉田さんが弥生様を認めてすっごい褒めたので、それで私つい喜んじゃっていたんです」
そう嬉しそうに頬を染め、矢部さんが一臣さんに答えた。
「認めた?褒めた?あのおっさんがか?」
「そうなんです!社長夫人としてとてもいいって!弥生様の仕事に対する意識を褒めていました!」
「仕事に対する?」
「山之内さんは仕事が出来るけど、何を考えているかわからない。でも、弥生様は裏表がなく、伝わってくるってそう言っていました」
「ふん。こいつは単純にできているからな」
片眉をあげ、一臣さんは鼻で笑った。14階に着き、
「あ、わたくしはここで」
と矢部さんはエレベーターを降り、一臣さんはカードキーを挿し、15階にエレベーターは進んだ。
と同時に一臣さんは私にハグをしてきた。
「弥生、よかったな!」
「う、はい」
びっくりした。突然思い切り抱きつかれた。
「お前の良さをわかれば、誰でもお前を気に入る。それはわかっていた。でも、あいつらはお前の良さに気づけないくらいぼんくらな野郎だと思っていたが、ちゃんと伝わったんだな」
ぼんくらとか、ちょっとひどい。
「それにしては、嬉しそうじゃないな?」
私の顔を覗き込み一臣さんが言った。15階に着き、一臣さんのオフィスに向かいながら、一臣さんは私の腰を抱いた。
「嬉しいです。でも、びっくりしちゃって、良くわかんないって言うか」
私の返事に一臣さんは、眉間にしわを寄せた。
オフィスで仕事をしていた細川女史に出迎えられ、ああ、と軽く返事をしただけで一臣さんは私を急ぎ足で自分の部屋に連れ込んだ。
「あれ?そう言えば樋口さんは?」
「親父に呼ばれて、先に15階に戻った」
「そうなんですか」
「ああ、日野、昼食べに行っていいぞ」
壱弥をみていてくれた日野さんに、一臣さんはそう言うと、プレイマットでグルグル寝返りをうったり、おもちゃをガチャガチャいじくっている壱弥を嬉しそうに眺めた。そして、
「お前の良さをわかってもらえたんだ。素直に喜べ」
とこっちを振り返り、一臣さんは優しくそう言った。
「ですよね」
でも、社長夫人にふさわしいのかどうなのか、まだ自信がないのか、いきなり180度考えが変わってしまった杉田さんの言葉が信じられないのか、なかなか私は喜べなかった。




