第10話 産院にて
翌朝、早くからなんだか胸が張り出した。これが、「胸が張る」ってやつなのか!
まだ一臣さんは隣ですやすや寝てる。
「失礼します」
看護師さんがノックとともにドアを開けた。
「そろそろ立ち上がってみましょうか。赤ちゃんの授乳にも行ってみましょう」
「え?はい」
「んん?」
「あ、申し訳ありません。緒方様、起こしちゃいましたよね」
看護師さんがベッドのそばまで来て、慌てて一臣さんに謝った。っていうか、隣に寝てて、今絶対に驚いていたよね。
「……もう朝か?」
「まだ6時です」
私がそう言いながらそっとベッドから起き上がると、
「どこか行くのか?」
と一臣さんも起き上がりながら聞いてきた。
「赤ちゃんの授乳です」
「赤ん坊に会えるのか」
「あ、申し訳ないです。新生児室に入れるのはお母様だけでして」
「授乳の様子も見れないのか」
「はい。カーテンで見えないようにしますので」
「なんだ…。じゃあ、ここで待っているからな」
「はい、行ってきます」
かなりがっかりした様子の一臣さんを残し、病室を出た。
なんかふらつく。歩くのがやっとだ。なんでかな。
なんとか新生児室にたどり着き、おぎゃあおぎゃあ泣いている部屋に入った。ああ、顔を真っ赤にして泣いている赤ちゃんばっかり。
そんな中、何人かのお母さんが授乳に来ていて、私は看護師さんに促されたまま椅子に腰掛けた。
「今、緒方様の赤ちゃん連れてきますね」
うわあ。いよいよだ。
ドキドキドキ。
看護師さんの腕に抱かれた壱弥は、すっごく小さかった。そして私の腕に抱かせてくれたけど、ふにゃふにゃでどうしたらいいのやら。
「えっと」
「こうやって首を押さえて、おっぱいに吸い付かせて」
こわごわ言われたようにやってみた。わあ、おっぱい吸ってる!!なんかくすぐったい。
「お腹すいていたのね。いっぱい泣いたものねえ」
そうか。ママが来るまで顔を真っ赤にして泣いてたんだね。
「パパ似かな」
ぼそっとそう言うと、看護師さんが、
「そうですね。目元とか似ているかもしれないですね」
とそう言ってから、その場を去っていった。
ドキドキ。私もとうとうママになったんだ。
ああ、それにしても、一臣さんの子をこの手で抱っこしているなんて。
可愛いよ~~~~。
目元が一臣さんなのか。一臣さんに似た男の子になるのかな。じゃあ、きっとかっこいいね。
ドキドキの初授乳が済み、うとうとしている壱弥をもっと抱っこしていたかったけど、オムツを替えましょうねと看護師さんに言われ、教えてもらいながらオムツを替えた。
ほっそい足。すぐに折れそうなくらい。
手も足も小さいし、すっごく不思議。でも、そりゃそうだよね。つい数時間前まで私のお腹の中にいたんだもの。
壱弥をベビーベッドに寝かせ、新生児室を出た。病室に行く前の間、お腹をさすってみた。まだ、肉なんだか皮なんだかわかんないけど、だぼついている。でも、確実にもうこのお腹には壱弥はいない。
お腹をなでながら話しかけた。壱弥といつもどこに行くときも一緒で寂しくなかった。
そんなことと思いつつ、部屋を開けると一臣さんはすでに起きて着替えていた。
「弥生、どうだった?」
「壱弥、いっぱいおっぱい飲みました」
「そうか」
「小さくて折れそうなくらい足が細くて、くにゃくにゃしてて抱っこするのも怖いくらいで」
「そうだな。俺もそう思った」
「…もう、お腹の中にいないんですよね」
寂しくそう呟くと、
「でも、お腹から出てきたから抱っこできるし触れるし、泣き声も聞けるんだろ?」
と一臣さんは優しく私の頭をなでながらそう言った。
「はい」
「今は新生児室に入ってて会えないけど、退院したらずうっと一緒だ。しばらくの間はな」
「ですよね」
「それよりも今は、俺にべったりあまえていろ」
「は?」
「俺も今のうちしか弥生を独り占めにできないんだから」
そう言うと、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「はい」
私もぎゅうっと抱きついた。
8時。樋口さんが迎えに来て、一臣さんは上着を羽織り鞄を持った。
「いってらっしゃい」
「おう、いってくる。なるべく早くに帰るからな」
そんな会話をすると、
「ここがまるで家みたいですねえ」
と言いながら、樋口さんがくすくすと笑った。
「そうだ。俺にとっちゃ、弥生がいるところが俺のホームだからな」
「いいこと言いますねえ。今度の広報誌に使いますか」
「うるさい、樋口。行くぞ」
ちょっとテレながら一臣さんは部屋を出て行った。
一臣さんがいなくなり、一気に部屋が静かになると眠気がやってきた。そしてうとうとと寝てしまった。
だが、3時間して看護師さんが起こしに来て、また授乳の時間がやってきた。
それからずっと3時間毎、授乳の時間はやってくる。
出産の疲れが回復していないからなのか、けっこうハード。そんな中、
「弥生さん!」
とお義母様とお義父様がお見舞いに来てくれた。
「予定日より早くなったって聞いて慌てたわ」
「すみません、出張中なのに来て頂いて」
「いいのよ。1つパーティほっぽらかしたけど、たいしたことのないパーティだから」
え?よかったの?本当に。
「弥生ちゃん、無事生まれてよかったね。赤ちゃんはどこだい?」
「新生児室にいると聞きましたよ」
お義父様の質問にお義母様が答えてくれた。
「そうか。じゃあ、さっそく」
そう言ってとっととお義父様は出て行ってしまった。
「病院食だけじゃ寂しいでしょう?大福なんだけどおっぱいの出がよくなるかもしれないから、食べてね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、赤ちゃん見に行ってから帰りますね。一臣はここに泊まるんですってね」
「はい」
「本当にあの子は弥生さんがいないとダメになっちゃったわねえ」
ちょっと呆れたようにため息をついてから、ふふふとお義母様は笑って病室を出て行った。
その日の夜、8時になっても一臣さんは来ない。
「まだかなあ」
ベッドに横になり、ひたすら待った。授乳はさっき済ませたばかり。1日中ぼんやりと寝てばかりいたから今は目がばっちり冴えている。
まだかな~~~、と天井を見つめていると、ガラっとドアが開き、
「弥生、帰ったぞ」
と一臣さんが少し疲れた顔を見せた。
「一臣さん!」
「ただいま、弥生」
私の顔を見ると一臣さんがなぜかにやけた。
「そうか、俺がいなくて寂しかったんだな」
ベッドの横に来て私の頭を撫でながらそう言うと、一臣さんは満足そうに上着を脱いだ。
「私、顔に出てました?寂しいって」
「ああ、思い切り」
またにやついた。っていうか嬉しそう。
「お仕事、どうですか?」
「心配するな。プロジェクトも順調だ。綱島もしっかりとやっているしな」
「もう一つのプロジェクトは?」
「ん?」
一臣さんはさっさとYシャツも脱ぎ、替えの下着を手に持っている。
「きゃ」
上半身裸の一臣さんに反応すると、
「なんだよ、まだ俺の裸見慣れていないとか言うなよな?」
とおでこをつっつかれてしまった。
「シャワー浴びてくる。そのあと仕事の話はするから」
そう言うとシャワールームへと一臣さんは消えていった。
「…だって、いつまでたっても麗しくってドキッとしちゃうんだもん」
ぼそっと呟き、ベッドから出て水をくみに行き、一臣さんのために炭酸水も用意した。
「ちょっとここ、二人だけの家みたいでいいなあ」
キッチンもあれば、お料理も作っちゃうのになあ。あなた、ご飯にする?お風呂にする?なんて聞いてみたりして。
ガチャリとドアが開き、一臣さんがバスローブ姿で髪をバスタオルで拭きながら出てきた。その光景は何回も見ているのに、また胸がときめいてしまう。
っていうより、胸がはってる?ああ、さっき授乳に行ったのにもう胸がはってきちゃってるなんて。
「どうした?」
「胸がはっちゃって。けっこう痛いんです」
「揉んでやろうか?」
「いいです」
「遠慮は要らないぞ」
「本当に大丈夫です。ちゃんと壱君にすってもらいます」
「くそ」
くそ?!
「しばらく弥生のおっぱいを独占されるのか、悔しいな」
え~~。子供に嫉妬?
一臣さんはむすっとしたまま炭酸水を飲んだ。
「で、壱弥は元気か?」
「はい。おっぱいもちゃんと飲んでくれるし、元気です」
「そうか。明日の朝はちょっと遅くても大丈夫だから、新生児室でも覗いてみるか」
そう言われ、ちょっと安心した。壱君のこと可愛くないのかなあ、なんてほんのちょっと思っちゃった。
それから一臣さんは、仕事のことについて話してくれた。
「今は海外事業部のほうが忙しくて、新しいブランドを立ち上げるプロジェクトには関わっていない。まあ、あそこは優秀なやつが集まっているから大丈夫だろ」
「龍二さんが関わっているんですよね?」
「ああ、でも、たまに顔を出す程度だと聞いたぞ」
「そうなんですね」
「そういえば、如月が来週日本に来るそうだ。合同会議に出席するからなんだが、壱弥の顔も見たいらしい。そのころには弥生も退院しているから、屋敷に来てもらうぞ」
「はい」
私は一臣さんの脱いだYシャツやネクタイ、スラックスを畳み、明日喜多見さんが来てくれるから紙袋に入れた。
「あ!言い忘れたが、それは勝手につけられただけだぞ。エレベーターで」
「え?何をですか?」
「気づかなかったのか」
「え?何がですか!?」
「いい。気づいていないんなら」
何?なんのこと?エレベーターって?
「つけられた?勝手に?」
何を?何を?何を?!
「あ~~、しまったな」
一臣さんが顔をしかめた。
「口紅だ」
「え?く、口紅?」
一瞬何を言われたかわからず、口をぽかんと開けてしまった。
「誰のですか?」
「金町だ」
「金町さんって、広報の…」
「ああ。新ブランドのプロジェクトのな」
なんで金町さんの口紅がYシャツに?えっと。なんで?
「エレベーターでって?」
「背中にだぞ」
「え?なんで、Yシャツだったんですか?」
「会議が終わって15階に行くところだったから、暑いし脱いでいたんだ」
「エレベーターで二人だったんですか?」
「ああ、樋口は先に15階に戻ったからな。金町は先に乗っていて途中で降りていった」
「……」
「そんな目で見るな。俺は話すこともないから背中を向けて無視していたら、いきなり背中に抱きついてきただけだ」
「抱きついてきた?!」
なんで?!




