第9話 一臣さんに甘える
「いたたた」
さっきまで、声を上げずに耐えられたのに、声を抑えることもできなくなってきた。
「大丈夫?弥生ちゃん」
祖母が腰をさすってくれる。
「だ、大丈夫」
本当は辛い。でも、祖母に甘えてしまうのは気が引ける。
交代で喜多見さんが私の腰をさすってくれた。でも、やっぱり申し訳なくて痛くて辛いのに、
「ごめんなさい、すみません」
と痛がりながらも謝ってしまう。
「大丈夫ですよ。わたくしのことは気になさらないで」
そういうわけにはいきません。もう2時間以上腰をさすってもらってる。いくら祖母と交代したとしても、二人ともずっと腰をかがめたまま。絶対に腰を痛めちゃうよ。
「あの、今、何時ですか?」
「6時半ですよ。何かお食べになりますか?」
「いいえ。私、なんとか一人で大丈夫なので、ご飯食べてきてください」
「そんなわけにはいきません」
「そうよ、弥生ちゃん。夕飯抜くくらい大丈夫です。それに、おにぎりを持ってきたから、あとで喜多見さんと食べますよ。そんな心配しないでもいいのよ、弥生ちゃん」
「はい、ごめんなさい」
「謝らなくても大丈夫ですよ、弥生様」
そう言ってくれても、申し訳ないよ。このあとどのくらい陣痛が続くんだろう。その間ずっとつき合わせたら、おばあ様や喜多見さんのほうが体がまいっちゃわないかな。
また陣痛が来てそれに必死で耐えた。でも、痛いと声が出てしまった。
そんなこんなを繰り返しながらも、何度も私は時間を聞いた。何度聞いても6時台、おかしい。時間がたつのがなんでこんなに遅いの?
一臣さん。一臣さ~~~ん!!
「弥生!」
え?!
ガラリとドアが開き、一臣さんが息を切らしながら入ってきた。
私の心の叫びが聞こえたの?
「一臣おぼっちゃま」
「ああ、喜多見さん、あ!弥生のおばあ様もいらしたんですね」
そう言いながら一臣さんは病室に入ってくると、すぐに私の隣に来て、
「大丈夫か?」
と頭を撫でてくれた。
「一臣さ~~ん」
「ん?どうした?」
思わずうるうるっときた。そして、一臣さんの手を取ってほっぺにすりすり。
「なんだよ、甘えてるのか?」
そう言うと一臣さんは、おでこにチュっとキスしてくれた。
「陣痛は?」
「今、ひいたところです。でも、そろそろまた来る…」
「まだまだ、かかりそうなのか?」
一臣さんの質問に喜多見さんが、
「まだかかると思いますよ」
と答えた。
「そうか。じゃあ、喜多見さんとおばあ様は休んでください。今までずっとついていてくれたんですよね」
「そうね。じゃあ、一臣さんに頼んで外のベンチでおにぎりでも食べてこようかしら」
「一臣お坊ちゃまはお夕飯は?」
「車の中で適当に食べてきたから大丈夫だ。今、樋口が軽く食べられるようなものも買いに行ってる」
「そうですか。では、ちょっと休んできます。すぐそこにいるので、何かありましたらお呼びくださいね」
「はい」
喜多見さんとおばあ様が廊下に出て行った。それを確認してから私は一臣さんの腕にしがみついた。
「大丈夫か?弥生」
「う~~~~~、ダメです。痛いです~~~~」
「陣痛きたのか?」
「はい」
ああ、でも、一臣さんの顔を見ただけで安心した。陣痛は痛いのに、気持ちが全然違う。
「どこだ?お腹をさするほうがいいのか?」
「腰が痛いです~~」
「腰だな?」
一臣さんは腰をさすってくれた。
一臣さんの手、あったかい。
「いたたたた」
「そんなに痛いのか?」
「痛いです~~~~~~~」
ふえ~~んと一臣さんにしがみついた。
一臣さんはただただ、腰をさすってくれた。
「よしよし」
一臣さんが優しい。いつものことだけど、めちゃくちゃ優しい。だからつい、もっと甘えたくなっちゃう。
すうっと陣痛が引いた。
「一臣さん、仕事は?」
「まだあったが、細川女史に頼んできた」
「え?そうなんですか?」
「プロジェクト関係の仕事は、メンバーに頼んだ。みんな赤ちゃんが生まれるって言ったら、早く奥さんのところに行ってくださいと言ってたぞ」
そうなんだ。なんだか恥ずかしい。
「なにしろ、副社長は奥さんにぞっこんだの、甘甘だの、そんな噂が流れているようだからな」
「ええ?」
そうなの?うっわ~~。恥ずかしい!
「う!また来た」
「陣痛か?」
「はい」
「よしよし」
そう言ってまた腰をさすってくれる。また一臣さんの腕にしがみつき、なんとか陣痛の痛みが去った。
「一臣さん」
「ん?」
「おばあ様や喜多見さんがいてくれたのは、心強かったんです」
「そうだろうな」
「でも、気兼ねするっていうか、甘えられないっていうか」
「お前、ずっと一人で頑張ってきたから、甘えるのが下手なんじゃないのか?」
そう言いながら頭を一臣さんが撫でた。
「でもでも、一臣さんがずっと甘えさせてくれていたから、私すっかり一臣さんの前では甘えん坊になりました」
「そうだな。じゃあ、俺が来てほっとしただろ?」
「はい」
「俺には遠慮なく甘えていいぞ」
ぎゅぎゅ。一臣さんの腕にまたしがみついた。
一臣さんが頭や頬を撫でてくれる。ああ、ほっとする。
トントン。
「弥生様、失礼します」
という声がして樋口さんが入ってきた。
「弥生様、いかがですか?」
「今は大丈夫です」
「一臣様、軽食を買ってきました」
「ああ、その辺に置いていってくれ」
「よろしければ、わたくしが弥生様についていますので、廊下でお食べになりますか?」
「いや、いい。弥生は俺がいないと不安らしいからな。樋口、俺はさっき車で軽く食べたが、お前食べてないだろ。何か食べてきていいぞ」
「では、弥生様、お産頑張って下さい」
「はい」
う。きた。陣痛…。でも、なんとか樋口さんが病室から出て行くまでは痛みに耐えた。でも…。
「いった~~~~~~い」
樋口さんが出た途端、思い切り声に出てしまった。
「大丈夫か?」
「ダメです~~。いたたたたた」
「よしよし」
ああ、私って、思い切り一臣さんに甘えてる。一臣さん、呆れないかな。
「出産には立ち会えなくて悪いな」
「いいえ、いいんです」
「ちゃんと廊下で弥生のこと応援しているからな」
「はい」
立会いは無理だと言われた。あまり血に強いほうじゃないらしい。
「だから、分娩室に入るまでは甘えていいぞ。な?」
「はい」
そのあと、喜多見さんが来てもおばあ様が来ても、一臣さんは、
「俺がついていますから、休んでいてください」
と言って、ずうっと私のそばにいてくれた。
看護師さんが来て、いよいよ分娩室に行くことになった。
「頑張れ、弥生」
「はい。頑張ってきます」
そう言って一臣さんとぎゅっと手を握り合い、そのあと分娩室まで移動した。
痛い。陣痛はさっきよりもずっと痛くなってる。でも、いよいよ生むんだと思ったら、気持ちが引き締まった。
ここからは一人だ。
壱君、ママ頑張るからね。君も頑張って。
「緒方さん、頑張って」
「もう少しよ」
分娩室では一人だと思った。でも、ずっと先生も看護師さんや助産師さんが励ましてくれた。
そして…。
分娩室に入って1時間後、
「おぎゃ~~~~、おぎゃ~~~~!」
という元気な赤ちゃんの声が分娩室に響き渡った。
「元気な男の子ですよ」
体重を量ってくれ、
「3100グラムです」
と壱君を抱っこして、私の隣に看護師さんが連れてきてくれた。
小さい。可愛い。顔が真っ赤だ。
「壱君」
ああ!感動のご対面だ!!!
「パパにも会ってきましょうか。ね?」
「はい。お願いします」
看護師さんが壱君をまた抱っこして、分娩室を出て行った。
今頃一臣さん、壱君に会っているんだろうな。どうかな。パパになる自覚ないみたいだったけど、抱っこしたかな。
一臣さんがパパって、どうも想像つかないな。
「じゃあ、病室に行きましょうね」
体力使い果たしてぐったりの私を車椅子に乗せてくれて、分娩室を出た。
「弥生!」
「弥生ちゃん!」
一臣さんとおばあ様が、私のもとにすっ飛んできて、
「よくやったな」
「無事に生まれてよかったわね」
と喜んでくれた。
「弥生様」
その後ろから喜多見さんと樋口さんが、にこにこしながら私を見ている。って、あれれれ?
「弥生様、よかったです。無事にお生まれになって」
「樋口さん?!」
「赤ちゃんの産声が聞こえたあたりから、こいつ泣いているんだ」
え~~~~~?!!樋口さんが泣いちゃったの?でも、今も目が真っ赤。
「とっても可愛い赤ちゃんで…。お名前は壱弥様ですね」
「はい」
うるうるしている樋口さんを見ていると、私まで涙が…。すると、
「お母様も天国で喜んでいるわ、きっと」
とおばあさ様まで泣き出した。
「おばあ様…」
「無事に生まれたこと、お屋敷のみんなに報告しますね」
「はい」
喜多見さんまでが目尻をハンカチで拭きながら、携帯を取り出して廊下を歩いていった。
「病室にお連れします」
看護師さんがそう言いながら車椅子を押し出した。
「一臣さん、赤ちゃんは?」
「もう新生児室に行ったぞ」
「会いましたか?」
「ああ」
あれれ?それだけ?感動の対面じゃなかったのかな。
病室に着き、ベッドに横になった。どっと疲れが出てきて、
「は~~~~~」
と大きなため息をついてしまった。
「弥生、お疲れ。よく頑張ったな」
一臣さんがそう言って私の頭をなでてくれた。
「はい…」
なんだか返す言葉も、疲れ果てて出てこない。
「弥生ちゃん、大成にはさっき電話したから、もうすぐ来ると思いますよ。大成も孫の顔が早く見たいって言っていたから」
「お父様が?…あ、おばあ様、お疲れですよね?もう休んでください」
「大丈夫。ずっと長いすに座っていただけですし、大成が来たら一緒に赤ちゃんを見に行って帰ります」
「名前は壱弥です」
「壱弥君。いいお名前だわ」
一臣さんの言葉におばあ様も嬉しそうに笑った。
それから5分もかからないうちに父がおじい様とやってきた。
「弥生!生まれたんだって?」
「赤ちゃんはどこだ?」
ガラッとドアを開けると共に、二人ともうるさい。
「静かにしてくださいな。赤ちゃんは新生児室に居ますよ」
「なんだ。そうか」
かなり二人ともがっかりした様子。
「二人とも、弥生ちゃんにかけてあげる言葉は無いの?何時間も陣痛を耐えたのよ」
「弥生、よく頑張った。一臣君、男の子だってね。跡継ぎが生まれてよかったよかった」
「はい、ありがとうございます」
父の言葉に一臣さんは、静かにそう答えた。
「ん?社長や奥さんは?」
「二人とも出張中なんです」
「そうか。予定日よりも早かったしな。でも、一臣君は忙しい中やってきてくれたんだね」
「はい。出産には何とか間に合いました」
「もう赤ちゃんに会ったのかい?」
「はい。生まれてすぐに抱っこしました」
「それは羨ましい。可愛かったろう」
「はい」
「大成!見に行くぞ。ほら、お前も来い」
おじい様に引っ張られ、おばあ様も新生児室に行くらしい。
「弥生ちゃん、じゃあまたね。また明日にでも来るわね」
「はい、今日はありがとうございます」
「ゆっくり休むんだぞ、弥生。一臣君、弥生をよろしくな」
「はい」
お父様もそそくさと顔をにやつかせながら、病室を出て行った。
「喜多見さん、一回お屋敷に戻っていいぞ。樋口、等々力は屋敷に戻ったそうだから、お前が運転して一緒に戻ったらどうだ?」
「かしこまりました。では、スーツなどご用意して、明日の朝届けに参ります」
「ああ、頼む」
「え?明日の朝ってことは、一臣さんここに泊まるんですか?」
「当たり前だ。なんのためにこの部屋を頼んだと思っている」
うそ。
「緒方財閥専用の個室だ。ベッドももう一つ用意してもらった…が、多分お前の横で寝るぞ」
まじで?
それでベッドがもう一つあったんだ。この部屋、やけに広いし、テレビやら冷蔵庫やら、デスクとソファまで置いてあって豪華だと思った。
「シャワールームも完備してある。樋口、何着か着替えも頼む」
「かしこまりました」
「え?え?でも、食事とかは?」
「今夜は適当に樋口が買ってきたものを食べる。朝はコーヒーだけだし、明日の夕飯は多分、外で食ってくる」
「……明日からもお仕事忙しいんですよね?」
「ああ。どうせ屋敷に帰っても一人じゃ眠れないからな、ここで寝る」
そういうことか。
「お前も俺がいるほうが安心だろ?」
「はい」
「赤ん坊はずっと新生児室で見てもらうしな」
「あ、でも、パジャマとかないですよね?」
「いい。裸で寝る」
「そういうわけにも…」
「パンツの着替えとバスローブはオフィスから持ってきてあるぞ」
「……」
用意周到…。
「では、わたくしはこれで失礼します」
喜多見さんと樋口さんは帰っていった。
「さ~~~て。邪魔者は消えた」
一臣さんは私の寝ているベッドに座り、
「弥生、本当によく頑張ったな」
とまた頭をなでたり、チュっとキスをしてくれた。
「はい」
ふわん。一臣さんの優しい手に触れ、一気に気持ちが緩んでしまった。
「眠いのか?」
「はい」
「うん。寝ていいぞ。頑張ったもんな」
「一臣さんは?」
「シャワー浴びてくる。でも、寝るまでそばにいるぞ」
そう言って私が眠りに着くまで、一臣さんは私の頭を優しくなでてくれていた。




