第6話 一臣さんの心情
もうすぐ妊娠9ヶ月目に入る。さすがに一臣さんは、出かけるときに連れて行ってくれなくなった。それどころか、
「そろそろいつ陣痛がきてもおかしくない時期だな」
と、会社に行くのも今週までとなった。
寂しいなあ。また、お屋敷で過ごさないとならないのか。
「予定日に仕事が入らなければいいんだがなあ」
ぼそっと一臣さんがつぶやいた。
今まで、産婦人科に1度だけついてきてくれた。エコーで心臓の音を聞き、お腹の赤ちゃんの様子も見た一臣さんは、
「実感わかないもんだな」
と、帰りの車の中でぼやいていた。
「母親のほうが先に実感わくでしょうね。お腹の中に赤ちゃんがいて、動いたりするわけですし」
等々力さんがそう言うと、一臣さんは私のお腹を触った。
「たまに、足の裏とかもわかるようになったよな」
「はい」
「でも、生まれてこの目で見ないと実感わかないよな」
「そうですね」
樋口さんも淡々と相槌を打った。
私だけが、そういうもの?と寂しくなった。お腹の中の赤ちゃんが、元気に心臓動かしてる!とか感動しないものなの?
なんだか、温度差があるのが寂しいなあ。それに、お義父様や、お義母様は早々と赤ちゃんグッズを買ってきたり、実家の祖父や祖母、父も送ってくれたりしているけれど、一臣さんはあんまり興味ないようだ。
休みの日に、赤ちゃんのものを一緒に見に行っても、私だけがハイになっちゃったし。
大丈夫かな。かわいがってくれるのかな。
う。ちょっと不安。
いや、大丈夫だよ、弥生。だって、一臣さんは大事に思っている人は、とことん大事にする人じゃない。
その週の金曜、14階の秘書課に行き、産休に入ることを告げた。
「無事、元気な赤ちゃんが生まれること祈っています」
みんながそう言ってくれて、嬉しかった。
翌日の土曜、一臣さんと祐さんのサロンに行った。
「弥生ちゃん、いらっしゃい」
祐さんが優しく出迎えてくれた。
「髪を洗うのは大変よね。霧吹きでぬらしながら切りましょうか」
「ああ、祐さん、髪は家で洗ってきたから大丈夫だぞ」
そんな私と祐さんの会話を聞き、優雅にソファに腰掛け雑誌を読みながらコーヒーを飲んでいた一臣さんがそう言った。
「あら…、まさか、一臣君が髪洗ってあげてるの?」
「ああ、そうだ。それが何か?洗い足りていないのか?」
「え?!冗談で聞いたんだけど、本当に洗ってあげてるわけ!?びっくり!そんなに弥生ちゃん、溺愛されてるんだ!」
きゃ~~~~。祐さん、そういうこと言わないで。照れる。
「溺愛?そのくらい普通するだろ」
しれっと一臣さんがそう言うと、周りにいるスタッフさんも目を丸くして一臣さんを見た。
「なんだよ」
「まあ、そこまでしてあげる旦那もいるだろうけど…」
くすくすと祐さんが笑って、
「弥生ちゃんも大変ねえ」
と私の髪をとかしながらそう囁いた。
「え?大変って?」
「一臣君の溺愛っぷり。目に入れても痛くないくらい可愛がってるみたいだけど、それ、窮屈じゃない?」
「…?えっと、全然そんなことないです…」
「あ、そうなの?そっか。弥生ちゃんは束縛されるの好きなんだ」
「どうかな?だけど、束縛って感じたことも無いですけど」
「へえ。そうなんだ。でも、あれだけ女性に淡白だった一臣君が、これほど独占欲あるとは驚きよね」
「祐さん、無駄口たたいてないで、さっさと終わらせろよな。弥生も今、大変なんだから」
「ああ、はいはい。ごめんなさいね」
一臣さんの言葉に、また祐さんは笑った。
「一臣君、ほんと、よかったわね」
私の髪を切り終わり、今度は一臣さんの番。一臣さんが椅子に座ると、突然そう言って祐さんが真剣な表情をした。
「何が?」
「弥生ちゃんがフィアンセでよ」
「フィアンセじゃない。もう結婚して奥さんだ」
「そうそう。だから~~、政略結婚の相手が弥生ちゃんでよかったって話よ」
「……」
一臣さん、無言で鏡に映った祐さんを睨んだけど…。何で睨んだのかな。
「一臣君、アメリカから帰ってきてから、ずっとおかしかったし。婚約してからは次々に女とっかえひっかえ付き合ってみたり。心配していたんだからね」
「祐さんに心配される筋合いは無い」
「あら、ひどい。ユリカのことだって、心配していたのよ」
「は~~。またユリカの話か?」
「だって、ユリカと別れてからおかしくなっちゃったでしょ」
「祐さんの思い違いだ」
「そうね。本気で好きになった子は弥生ちゃんだけなのよね。だから、よかったわねって言ってるのよ。本気で好きになれる人と出会えたことも、そんな女性と結婚できたことも、そうそうないわよ、こんな奇跡」
「奇跡?」
「そうよ。溺愛しちゃうくらい、ほれ込んでいる相手と結婚できて、超ラッキーよね?」
ちらっと鏡に映っている私の顔を祐さんが見た。
「そうだな。ラッキーだろうな」
「あら。なんだか、テンション低くない?」
「別に、テンションあがる話でもないだろうが」
そう言いながらも、一臣さんが照れているのがわかる。耳とか、赤いし。わざと雑誌に集中していますって顔をしているけれど。
「ねえ、もう女の子か男の子かわかっているの?」
「はい。実はもう…」
私のほうを見ながら祐さんが聞いてきたので、私は頷いた。
「どっち?」
「男の子みたいなんです」
「あっら~~~、じゃあ、跡継ぎ決定ね。よかったじゃないよ、一臣君」
「そうだな」
「テンション低いわね。もっと喜んだらどう?」
祐さんがそう言っても、一臣さんは黙ったまま雑誌をめくっている。
男の子だってわかったのは、ちょうど一臣さんが検診に付き合ってくれた日だ。先生に、
「あ、男の子ですよ」
と教えてもらっても、一臣さんは特に何も言わず、
「元気そうでよかったな」
と帰りがけに言っていたくらいで…。
そのことがずっとひっかかっていた。でも聞けずにいた。
赤ちゃん、嬉しいんだよね?喜んでいるよね?
あんなに子作り頑張るって、張り切っていたんだし、赤ちゃん生まれてくるの、楽しみにしてくれてるよね?
家に帰り、夕飯の時間まで部屋で二人でのんびりすることにした。
「弥生、疲れただろ。ソファで休むか?」
「はい」
腰を抱きながら、一緒にソファまで行くと一臣さんも私の隣に腰をおろした。
私にはすごく優しいんだけど。
「あの、一臣さん」
「なんだ?」
「この子、名前、なんてつけます?」
「あれ?決めただろ」
「え!?いつ?」
「前に、樋口の提案で、イチヤだ」
あ、そういえば…。
「漢字は弥生にたくしたよな」
う、そうだった。
「で、どんな漢字にするんだ?」
「まだ、決めていないんです」
「なんだよ…。男だってわかったから、もう考えているのかと思っていたぞ」
「男の子でよかったと思いますか?」
「ん?そりゃ、跡取りができてよかっただろう」
でも、一臣さん、今も顔、笑っていないし…。
「女の子でも、男の子でも、俺はこの子を大事にする。ただ、男じゃなかったら、弥生が自分を責めたりしないか、それだけ気になってた」
「え?」
「気にしていただろ?」
「はい。だけど、一臣さんが気にするなって言ってくれていたから、少し楽になりました」
「そうか」
「女の子でも、大事に思ってくれたんですね?」
「当たり前だ。俺と弥生の子だ。大事じゃないわけ無いだろ?」
よかった~~。思い切りほっとしちゃった。
「みんな男の子でよかったですねって言うからさ、複雑だったんだ。もし、女の子だったら、みんななんて言うんだろうってさ。親父やおふくろまでががっかりしていたのかな」
「……」
「もし、そうだとしたら、生まれてくる子が可哀そうだし、俺と弥生だけでも、思いっきり大事に育てようとか、考えたりしてた。だけど、男の子だってわかったから、少しほっとした」
「ほっとした?」
「この子が、辛い思いをしないですんで…。でも、ほっとしている自分もなんだかな…。複雑だよな」
それで、あんまり喜んだりしなかったのかな。
「元気に生まれてくれたらそれでいい。っていうのは誰もが思うだろ?親ならさ。だけどもし、元気じゃなかったら?五体満足じゃなかったら?」
「え?」
「それでがっかりはしたくない。やっぱり、愛しい大事な存在には変わりないんだからな」
一臣さん?
うわ。泣きそう。今の言葉…。
「どんな子が生まれてきたとしても、俺は大事に育てるよ。な?弥生」
「はい。私もです」
むぎゅ~~。お腹が邪魔で思い切り抱きつけないから、腕にだけしがみついた。
「少しだけ、怖いんだけどな」
「……」
怖い?え?何が?
「弥生のことですらこんなに溺愛しているから、子供に対して俺はどんだけ溺愛しちゃうんだろうかって、今からそれが怖い」
「へ?」
「まだ、お腹の子を見ても実感はわかないんだけどな。だけど、この腕に抱いたらやばいんだろうなあ」
「……」
一臣さんはそう言うと、なにやら想像したらしく、にんまりとにやけ、
「ほら、弥生、名前の漢字を考えろ。生まれてくるまでの宿題だぞ」
とにやけたまま、そう言った。
なんだ。一臣さんってば、私が心配する必要なんかまったくなかった。溺愛しちゃうことを怖がるくらい、赤ちゃんが生まれてくることも楽しみにしているんだよね。
「それにしても、祐さん、うるさいんだよな。自分の奥さんを独占して何が悪いって言うんだ。ったく」
あ、怒り出した。
「私はすっごく嬉しいです」
「ん?」
「冷たくされたり、そっけなかったりすると不安になっちゃうから、こうやってすぐそばにべったりいてくれるほうが、安心できます」
「だろ?」
あ、どや顔。
「弥生が不安になるから、こうやってべったりしているんだ。それをみんなわかってないよな」
え?そうなの?違うよね。腰に手を当てたり、太ももなでているのは、触っていたいからだって、スケベ発言していたし。
だけど、そういうことにしておこう。
とにかく、私は今、とっても幸せなんだから。




