第5話 噂が変わった!
甘い生活が戻ってきていたある日のこと。
「弥生、10時からの重役会議は出ないでいいからな。秘書室でのんびりしておけ」
「え?なぜですか?」
「眠そうだから。じいちゃんたちの話に付き合ってたら、絶対に寝るだろ」
「……」
ここで、寝ません。頑張ります!と言えなくなっていた。何しろ、前回の重役会議、眠気との戦いで大変だったからなあ。どうも、妊娠中は眠くなって困ってしまう。
「わかりました。秘書室でお手伝いしてきます」
「昼も大塚たちと食べていいぞ」
「え?」
「重役会議の後、来客がある。12時を過ぎると思うから、弥生は12時に昼飯を食え。時間がずれないほうがいいだろ?」
「…はい」
ちょっと寂しい。
そして、12時まで秘書課でお手伝いをして、12時になると、
「たまには、カフェでも行かない?一臣様から許可出ないかなあ」
と大塚さんが言い出した。
「ロッカールームでのお昼、弥生様もいい加減窮屈ですよね」
「あそこ、窓とかも無いし、閉鎖されてるって感じだもんね。弥生もいつもロッカールームじゃ嫌でしょう?」
「はい。でも…」
一臣さん、OKしてくれるかな。
「一応、細川女史に聞いてみます」
そう言って、すぐに細川女史に江古田さんが連絡してくれた。こういう判断は早いよなあ。
「弥生様、細川女史が一緒に行くそうです」
「え?細川女史も~~?」
大塚さんが嫌そうな顔をしたが、細川女史も忍者部隊の一人だし、護衛のために来てくれるんです、とは言えないよなあ。
細川女史、江古田さんも交えて、5人でカフェに移動した。カフェでは私を見て、ひそひそと話をする女子や、
「こんにちは」
とお辞儀をしてくれる社員もいた。
そして、ランチを食べていると、なぜかカフェに足早に一臣さんがやってきて、カフェが一気にざわつきだした。
「一臣様よ」
「一臣様がカフェに来るなんて珍しい」
女性社員は色めきだち、男性社員は一気に背筋を伸ばし、青ざめた。
いったい、カフェに何のようなのか…とみんながいっせいに黙り込んで一臣さんを見つめていると、
「あ!いた。弥生」
と私を見つけ、私に向かって颯爽と歩いてきた。
「一臣さん、どうしたんですか?」
「どうしたんですかじゃない。心配しただろ!」
へ?
大きな声でそう言いながら、一臣さんは私の隣に座った。
「一臣様、昼食をこちらで召し上がりますか?」
「ああ、樋口。適当に買ってきてくれ」
「かしこまりました」
「心配も何も、会社のカフェだし…」
ぼそっとそう言うと、一臣さんがギロリと私を睨み、
「会社内だって変なやつがいるかもしれないだろ」
と小声でぼそぼそと答え、そのあと私の隣に座っている細川女史を見て、
「ああ、悪い。細川女史を信用していないわけじゃないんだ」
と気まずそうな顔をした。
「そうですよ、細川女史もいるし大丈夫なのに」
「俺の目の届くところにいないと、心配なんだよっ!」
え?
「今の聞いた?」
「きゃ~~~~。一臣様、そんなに弥生様のことを大事に思っているんだ」
「広報誌に書いてあったこと、本当なんじゃないの?」
「初恋の相手っていう、あれ?!」
「一臣様ってもしかして、弥生様にぞっこん?」
「カフェになんて一回も来た事なかったのに、心配で来ちゃうなんて」
「もしかして、ラブラブなの?」
「一臣様のほうが、ほれ込んじゃってるんじゃないの?」
うわわ。聞こえるよ。全部聞こえてる。
大塚さんも江古田さんも矢部さんも、にやにやして私と一臣さんをちらちらと見ている。一臣さんはまったく顔色も変えず、黙ったまま。
私は、恥ずかしくって顔から火が出そうだ。悪い噂は落ち込むけど、こういう噂話は思い切り照れくさいんだな。
「お待たせいたしました」
樋口さんが一臣さんのランチを持ってやってきた。あ、ハンバーグステーキのランチだ。
「樋口はどうする?」
「わたくしは仕事もありますし、15階で食べてきます。持ち帰ってもいいそうなので」
「そうか」
樋口さんは、ぺこっと頭を下げその場を去った。
「よかった。樋口さんもここで食べるのかと緊張した」
ぼそっと大塚さんが言うと、
「なんだ?大塚は樋口が嫌いか」
と、一臣さんがその言葉に反応した。
「す、すみません。嫌いなわけじゃ…」
「ああ、そうか。お前、面倒を起こした時に、樋口にきついことでも言われたのか」
面倒?あ、あれか。庶務課に移動になった時…。
「いいえ。あの時は、すっごい事務的に、まったく顔色も変えず、淡々と処分について話されたので、それが逆に怖くてですね…」
そこまで言ってから大塚さんは、すみませんと言い、黙り込んでしまった。
「別に謝らなくてもいいぞ。樋口は実際、怖いからな」
「一臣様にも怖いんですか?」
大塚さんがびっくりしたように目を丸くしてそう聞いた。
「俺は怖くもなんともない。弥生なんか、樋口が大好きだしな」
「え?!なんで?!」
大塚さんがさらに目を丸くさせた。
「樋口は、弥生の前だと変わる。俺の前でも変わるし、屋敷に戻れば素になるしな。そりゃ、年がら年中ロボットみたいなわけないだろ」
「そうなんですか。私、いつでも樋口さんは鉄化面みたいなのかと思っていました。って、ごめんなさい」
言ってからまた、大塚さんは謝った。
「本当の樋口さんは、すごくお優しいんですよ。お屋敷では、メイドの皆さんとも仲がいいし。運転手の等々力さんとも、よく楽しくお話されているみたいですし。私も見たことは無いんですが、お屋敷にある寮の休憩室では、声を上げて笑っていらっしゃることもあるとかで」
「あの樋口さんが!?」
それは、大塚さん以外のみんなもびっくりしていた。細川女子ですら目を丸くしている。
「俺の前でも、そうそう笑わないけどな。あ、弥生、見たいからと言って勝手に寮に行くなよ。行く時には俺に言え。でないと…」
「わかっています」
お母様に知られたら、やっぱりまずいんだよね。お母様、そういうとことはいまだにうるさいみたいだから。
「…弥生様は、お屋敷にいても自由に動けないんですか?」
矢部さんが、ちょっと言いづらそうに私に聞いてきた。
「屋敷も今ではセキュリティ万全だが、でも一人で行動しないほうがいい」
「え?何か危ないことでもあるんですか?」
今度は江古田さんが驚いている。
「ああ。いろいろとな。だから、弥生のそばにいるお前らも、いつも注意を払っていてくれ。頼んだぞ」
一臣さんは周りの席に聞こえないくらい声の音量を落として、みんなにそう言った。みんなも一気に硬い表情になり、はいと頷いた。
そんなことがあり、社内の噂は、180度変わってしまった。もう、誰も『仮面夫婦』という人はいなくなり、
「一臣様は弥生様にぞっこんなんですって」
と、誰もが言うようになった。
それからというもの、二人で社内を歩いていると、
「ほら、今日もあんなにべったりとして、仲がいい」
「一臣様って、いつも弥生様の腰に手を当てていますもんねえ」
などという声が聞こえてくる。
「大事で手放したくないんじゃない?」
「いつも目の届くところに置いておきたいそうよ」
「独占力半端ない」
「今、どこに行くのにも、弥生様をお連れしているんですって」
「奥様にぞっこんなわけ?あ、初恋の相手だったんですっけね」
「じゃあ、嫌がるどころか、弥生様が奥様で喜んでいるってこと?」
「だから、他の女性には興味ないんだ」
「昔付き合っていた女性全員と手を切ったんですって」
「言い寄ってきても冷たく無視しちゃうみたいよ」
「なんだか、弥生様が羨ましい!」
「そんなに愛されちゃってるんだ!」
わ~~~~~~~~~~~~~!
なんでそういうこと、私がいるところで言うんだろう。っていうか、なんだって噂話って言うのは、聞こえてきちゃうのかしら。エレベーターを降りた瞬間にそんな話をされられたら、どうしたって聞こえちゃうよ。
15階の一臣さんのオフィスで、一臣さんはソファに腰掛けると、足を組み、腕まで組んで難しい顔をした。
何か怒ってる?
最近、私のお腹が大きくなって、膝の上に座らせてもらえないようになった。それは寂しい。隣にちょこんと座り、一臣さんの様子を窺った。
「まあ、いいけどな」
ぽつり。一臣さんの独り言かな。黙って隣にいると、一臣さんがいきなり私の頬にキスをした。
「え?」
「ぞっこんでも、独占力が強いでも、ほれ込んでいるでも、なんとでも言わせておけばいいよな。もう俺らが仮面夫婦だなんて言うやつもいなくなったし」
「あ、はい」
顔が熱い…。
「樋口や等々力が言っていたように、普通にしているだけでよかったな」
普通?
「ふん」
鼻で笑って、一臣さんはソファから立ち上がり、デスクに座るとパソコンを開いて仕事を始めた。
「あ、カフェに来たのってもしかして、作戦でしたか?」
「カフェ?ああ、そういえば心配で行ったっけ。あれは、作戦なんかじゃない。本当に心配したんだ。悪いか」
「いえ!とんでもないですけど」
「これからは、噂をどうにかしようなんてくだらないことはやめる」
くだらないことなの?それはそれで、ショック。それに、パソコンの画面ばかりを睨んで、怖い顔しているし、かまってくれないし。
なんだか、寂しいなあ。
だめだめ。仕事をしているんだから、そんなわがまま。
仕事が忙しいから、かまってくれないだけで、私のことに飽きたとか、そういうんじゃないんだから。
「は~~あ」
え?ため息?なんで?
「くそ~~~。親父のやつ、面倒くさい仕事押し付けやがって」
眉間にしわを寄せ、一臣さんはまた黙り込むとパソコンを打ち出した。
「大変なお仕事なんですか」
「別に、面倒なだけだ」
「お手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
手伝いもできないのか。寂しいなあ。
「弥生、もう少し待ってろ。すぐに終わらせるから。14階には行くなよ。俺が寂しいからな」
え?!
「眠くなったら寝てもいいぞ?」
あ、優しい一臣さんの声だ。
「はい」
キュキュン!
寝ない。だって、一臣さんのこと見ていたいもん!
それからは、黙って一臣さんのことを見ていた。前なら、弥生、視線がうるさい。って怒られていたけど…。
「待ってろよ」
私を見て、一臣さんが口だけ動かしてそう言った。その目はすごく優しい。
30分で一臣さんは仕事を終わらせた。そして、私の隣に座りに来ると、ギュギュッと抱きしめられた。それに髪に頬ずりもする。
「やっぱ、お前、ランみたいだな」
ラン…。前に飼っていた犬…。
「抱きしめると癒されるんだよなあ」
いいけど。ランと同格でも。一臣さんの癒しになれば。別にいいけどさ。
「お前も俺に抱きしめられると、癒されるのか?」
「いいえ。私はいまだにドキドキしちゃいます。あ、でも、すっごく安心します」
「そうか。ドキドキするのか。それはやばいな。でも、腹も出てきたし、そうそうエッチはできないな」
「そういうドキドキじゃないですっ。もっと、純粋なドキドキです!」
もう。スケベなところは前と同じだ。
でも、こうやって抱きしめてくれる一臣さんのぬくもりがうれしい。
「大好きです」
「ああ、わかってる」
そう言いながらも一臣さんは、にやにやとにやついていた。




