第3話 消えない噂
妊娠6ヶ月目。季節は初夏を思わせるくらいの、毎日爽やかな日々。土曜の昼過ぎは一臣さんとお屋敷のお庭でティータイムを過ごしたり、日曜日は一緒にお屋敷のお庭を散歩したり、夜はピアノを弾いてくれたり、そんな優雅で幸せな休日を送っていた。
お部屋はベビーベッドを置いたりと、徐々に赤ちゃんのものも増え、二人でわくわくしている日々…。
が、平日は一臣さんの仕事がハードスケジュールで、帰りも一緒に帰れない日が続いていた。
「今日も、1日お願いします」
「はい、弥生様が事務仕事をして下さるから、本当に仕事がはかどって助かります」
14階の秘書課で、私は重宝がられている。それはそれで、お役に立てて嬉しいんだけど、でも…。
「本当は一臣さんの補佐がしたいのにっ!」
思わず、お昼を食べながら心の声が飛び出ていた。
「どうどう。弥生、落ち着いて」
一緒にお昼を食べていた大塚さんに、そう言われてしまった。
最近、お昼休憩は14階のロッカールーム。これも寂しい。
「広報誌が発行されて、いろ~~んな噂が社内で飛び交っているみたいよ」
「いろんな噂?」
14階にしかいない私には、そんな噂は入ってこない。
「あの広報誌は衝撃だったし」
「え?何がですか?」
「弥生が一臣様の初恋の相手ってこと。あれを本気にして、ロマンチックって言っている女子と、あんなのでっちあげだって言っている女子が半々」
でっちあげ~~?
「本当のことです」
ムスッとしてそう言うと、矢部さんが目をハートにさせながら、
「素敵ですよね。初恋の相手と結ばれるなんて」
とどこだかわからない宙を見ながらつぶやいた。
「え、矢部さん、本気にしているの?」
「だから、大塚さん、本当のことなんです!」
もう、ここにも信じてくれていない人がいるんだから。
「だって、一臣様がそんなこと言うとは思えないんだもん」
私だって、一臣さんがそんな話をしだすとは思えなかったけど…。
「今だって、一臣様はお一人で動いているでしょ?社内で弥生と一緒にいるところを見かけることもないし、行き帰りだって別々じゃない」
「一臣様、お仕事忙しいからですよ」
大塚さんの言葉に、江古田さんがすかさず言葉を挟んだ。
「タイトなんです、一臣さんのスケジュール。それにつき合わせたら、弥生の身が持たないって、連れて行ってもらえないんです」
「なんでそんなにお忙しいの?」
「土日には絶対に仕事を入れないようにしているから…」
「休日はお屋敷で、弥生様とのんびりなさっているんですよね」
「はい。それはもう、思い切り…」
江古田さんの言葉に、こそばゆくなりながらもそう私は答えた。あ、顔が火照ったかも。
「でも、会社の人間はそんなこと知らないから、二人の仲は仮面夫婦だって」
「もう!大塚さんはそういう話ばっかりしないで下さい」
あ、江古田さんが怒った。
「お昼くらい、外に行きたくない?弥生」
お弁当を食べ終え、大塚さんがおやつにと持ってきたチョコレートをつまみながらそう言った。
「はい。多分、そろそろ出ても大丈夫になると思うんですけど」
「一臣様、過保護よねえ。つわりだって終わって、弥生の体調ばっちりなんでしょ?」
「はい、ばっちりです」
「じゃあ、もう外に出ても大丈夫なんじゃないの~~?」
私は「ですよね」と言い、曖昧に笑った。
「俺や樋口が一緒じゃないと、社内を歩くのもダメだ。外に行くだと?絶対にダメだ」
と、今朝も一臣さんに言われた。15階と14階の行き来しかさせてもらえない。
というのも、まだ川井さんを雇っていた黒幕を捕まえていないからだそうだ。FBIが動いているらしいけど、その辺のことは詳しく教えてくれないからなあ。
もう少し待て。赤ちゃんが生まれるまでには絶対に解決するから。な?
と、私をハグしながら一臣さんは言っていたけど…。
「はあ」
いつまで続くのかなあ。
私一人だったら、自分の身ぐらい守れる。だけど、今はお腹に赤ちゃんがいるから無理ができない。
翌日、めずらしく一臣さんが1日オフィスにいた。
「久々に昼は外で食べるか」
「はいっ!」
わあい。嬉しい。
コック長が作ってくれたお弁当は樋口さんにあげた。一臣さんは等々力さんの車で、近くの和食屋さんに私を連れて行ってくれた。
お腹いっぱいおいしく食べ、また等々力さんの車で社内に戻る。役員専用の駐車場を使うから、他の社員と顔を合わせることもなく、そのまま15階に戻る。
結局、外に出たといっても、車で移動してご飯を食べただけ。それでも、嬉しいって言ったら嬉しいけど…。
「あの、たまには14階以外の場所にも行きたいなあって思うんですけど」
「午後、機械金属プロジェクトのミーティングがあるから、10階の会議室には行くぞ」
「え?はい」
……。まあ、14階以外に行けるのは久々だから嬉しいけども。
そして午後3時、10階の会議室に移動した。エレベーターで他の社員と会うと、みんな一臣さんと私にお辞儀をし、中には、
「広報誌を見ました。おめでとうございます」
と言ってくれる人もいた。
「ありがとうございます」
私は緊張しながらお礼を言った。でも、一臣さんは軽く頷く程度で何も答えず。ただ、私の腰に腕を回し、樋口さんも私のすぐ横をキープして警戒をしている。
10階についてからも、すれ違う社員がお辞儀をしたり、
「弥生様、おめでとうございます」
と声をかけてくれた。
機械金属のプロジェクトチームのみんなに会うのも久々だ。
「弥生様、お元気そうで何よりです」
「ありがとうございます」
「広報誌見ましたよ。お二人の馴れ初め、知りませんでしたよ」
わあ!そうだよ。みんなに見られちゃったんだよね!
「初恋のお相手だったんですねえ、一臣様」
「みんな集まったな。すぐにミーティングを始めるぞ、時間が無い」
うわ。無視した。完全に無視しちゃったよ、一臣さん。
話しかけた人も、ばつの悪そうな顔をして椅子に腰掛けた。
「あんなに、あからさまに無視しなくても…」
ミーティングが終わって、15階に戻るときにそう言うと、一臣さんは眉をひそめ、
「じゃあ、どう答えればいいんだ。あんなこっぱずかしい質問に」
と、少し照れたような口調でそう答えた。
わあ。照れくさかったんだ、一臣さん。可愛い!
でも、他の人には一臣さんが照れて何も言えなかったって、そういうのは伝わってないよねえ。
「恥ずかしいも何も、そんな恥ずかしいことをインタビューで話したのは一臣様ですよね」
「樋口、うるさいぞ。あの時は噂をどうにかしたくてだな」
「だから、いつでもご一緒にいれば、そのうちそんな噂も消えると申しましたのに。でも、最近、ご一緒にいることもすっかり減りましたから、初恋の話もでっちあげではないのかと、そんな噂も流れていますよ」
樋口さんが珍しく、一臣さんに意見を言ってる。
「わかっている。弥生には寂しい想いをさせているのもわかってる。細川女史が、スケジュールを調整しているから、そろそろこの忙しさからも開放される」
「そうですか。だったら、よろしいですけど」
え?もしかして、私が寂しがっているから、一臣さんに意見を言ったの?樋口さん。
ガチャリ。樋口さんがドアを開け、オフィスに入った。私と一臣さんも一臣さんのオフィスに入ると、細川女史が電話をしているところだった。そして、
「あ、一臣様、辰巳氏からちょうど連絡が来ました」
と、すぐに一臣さんに電話を変わった。
「例の黒幕、やっと捕まったようだな」
電話を終えると、一臣さんは細川女子と樋口さんにそう話しかけた。
「尻尾を掴んだ割には、時間がかかりましたね」
「まったくだ。うちの連中だったら、こんなに時間を掛けたりしない」
「でも、これでようやく、弥生様も安心ですね」
「そうだな。だが、これからも細川女史、弥生の警護は怠らないよう、忍者部隊には注意をしておいてくれ」
「わかっております」
私の腰を抱き、一臣さんは部屋に入った。そして、
「は~~~~~~~」
と長いため息をつくと、ソファに座り、ネクタイを取ってシャツのボタンも2個外した。
べたり。その隣に私はひっついて座り、一臣さんの胸にびとっとくっついた。
「これで一安心だな」
「はい」
「弥生、6月にいろいろと移動がある。機械金属のプロジェクトチームにも優秀な人材が入ってくるし、そうしたらそいつらに任せて、俺ももう少しゆっくりできる」
「他にも移動があるんですか?」
「ああ。秘書室にも新しく入ってくる予定だ。今度は臼井課長の推している人間だから、安心しろ」
「はい」
「矢部には、今後弥生の秘書をしてもらう。忙しくない程度に、弥生には俺の補佐を頼む」
「え?補佐の仕事していいんですか?」
「ああ。ただし、安定期の時期だけな。だから、まあ動けてもあと2ヶ月くらいか?」
「……じゃあ、今までよりも一臣さんと一緒にいられますか?」
「ああ。一緒にいられるぞ」
よかった。ほっとして、私は一臣さんの胸に顔をうずめた。
ギュウ。一臣さんも私を抱きしめ、
「会社でこんなふうにいちゃつくのも久しぶりだな」
と満足そうに微笑んだ。
翌日から、一臣さんは私も連れて、出かけることが多くなった。取引先も、近隣の工場や子会社にも。
「弥生様、おめでとうございます」
子会社や工場に行くと、みんなが広報誌を見て知っているのかそう言ってくれた。
「これで、跡取りもできて一臣様も安心ですね」
「ああ、そうだな」
「弥生様は、妊娠してから具合が悪かったんですか?」
「ああ、そうだ。つわりとか大変だったんだ。ようやく体調も回復して、今後は俺の仕事の補佐をしてもらう」
「そうなんですね」
鶴見の工場長はそう言うと、私に「よかったですね」と微笑みかけてくれた。
前に私がいた子会社の緒方鉄工所にも顔を出した。大門工場長が、めちゃくちゃ喜んでくれた。
「広報誌も見ましたよ。初恋の相手が弥生ちゃんだったんですねえ、一臣様」
大門工場長がにこにこしながらそう言っても、一臣さんはむすっとしたまま。
「受注はどうだ。前よりも増えたか」
いきなり、仕事の話をし始め、工場長も慌てたように帳簿を持ってきて見せた。それからは、仕事の話になり、私は事務の人と、ゆったりとお茶をして待った。
「弥生様、これで一安心ですね」
「え?」
「跡取りですよ」
「あ、はい」
そういう話ばかりをみんなするなあ。
「一臣様はいかがですか?」
「え?いかがって?」
「忙しくしていて、あんまりお二人でゆっくりもできないんじゃないんですか?」
「はい。でも、お休みの日はお屋敷でゆっくりと過ごしています」
「え?お二人で?」
「はい」
そう答えると、事務の人がなぜか目を丸くした。
「あ、そ、そうなんですね。よかったですねえ」
「えっと?」
なんで、ちょっと慌てたのかな?
「実は学さんが、あの広報誌を見たときに言っていたんですが」
事務の人はぼそぼそと内緒話をするように、声を潜めた。
「一臣氏は、女遊びをしてきた人だから、跡継ぎができて安心して、また女遊びを再開したんじゃないか、弥生ちゃんが心配だって」
「え?」
学さんまでが?
「あの広報誌のインタビューもわざとらしいって」
「そういえば、学さんは?」
「今日は出かけています」
「そうなんですか」
なんだ。直接会って、一臣さんは女遊びなんかしていないって、そう言ってやりたかったのに。
「じゃあ、弥生様は、お幸せなんですね?」
事務の人が、心配そうに私を見た。
「え?はい。めちゃくちゃ幸せです…」
そう答えてから、考えてしまった。子会社でもこんなふうに噂をしている人がいる。まだまだ、私と一臣さんは仮面夫婦だって、そう思っている人が多いってことだよねえ。
「弥生、帰るぞ」
事務室にそう一臣さんが言いながら入ってきた。
「あ、はい」
「今日は工場長の息子は不在らしいな」
「そうですね。会えなくて残念です」
「え?!あいつに会いたかったのか!?」
「そういうんじゃなくて」
私と一臣さんは仲がいいってことを、見せたかったのになあって。
「ふん!いなくてよかった。あいつ、弥生に色目使っていたからなあ」
「ないです、ないですってば、そんなこと」
呆れながらそう言うと、隣で事務の人がクスッと笑った。
「一臣様でも、やきもち妬かれることがあるんですねえ」
「やきもちじゃない。ただ、自分の奥さんに色目を使われたら、感じ悪く思うのは当然だろう」
一臣さんは片眉を上げながらそう言うと、
「行くぞ」
と私の腰を抱いた。
「はい。お邪魔しました」
私は緒方鉄工所のみなさんに挨拶をして、車に乗り込んだ。
「大丈夫ですよ」
「え?」
「噂なんて、そのうちに必ず消えますから」
樋口さんがバックミラー越しに、優しく私にそう言った。
「あ、はい」
なんで私が落ち込んでいたのをわかったのかな。そんなに私、沈んでいたかな。
「そうだな、弥生。もう、あれこれ仲がいいアピールをするのも面倒だし、ほうっておくか」
あ、とうとう面倒になったのか。
「アピールしなくても仲がいいんですから、大丈夫ですよ」
等々力さんも優しくそう言ってくれた。
「はい、そうですよね」
二人に励まされると、私はいつも元気になれる。
「いっつもありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは、しておりませんよ、弥生様」
笑いながら、等々力さんが答えた。樋口さんも優しく微笑んでくれていた。




