第2話 甘える一臣さん
翌日、一臣さんのことがめちゃくちゃ恋しくなりながら、仕事をしていた。自分でも情けない。知らない間に「はあ」とため息をつき、一臣さんのぬくもりとか香りとか声とか、とにかく全部を思い出していた。
「弥生様、一臣様は一旦会社に戻られるんですか?」
「いいえ。遅くに屋敷に帰るって、メールが来ました」
隣の席にいる矢部さんに聞かれそう答えると、
「例のあの人のこと、なんか言ってきた?」
と大塚さんが後ろを向いてぼそぼそっと小声で話しかけてきた。
「例の…」
「私と同期の」
ああ、土浦さん。
「いいえ、何も…」
何かあったとしても、そんなこと私が心配するだけだから、一臣さん、黙っているんじゃないのかなあ。
「帰ってきたら聞いてみたら?」
「い、いいですよ。わざわざ、そんな」
「なんで?気になるでしょう?」
「だ、大丈夫です。気にしていません」
「大塚さん!弥生様のお仕事の邪魔はしないで下さい」
江古田さんがきつい口調で大塚さんを注意すると、
「は~い」
と、大塚さんはやっと前を向いてパソコンを打ち始めた。
「一臣氏、北海道に出張だろ?寂しいね、弥生様は」
そう言ったのは、今日一臣さんが現れる心配もないから、のんびりと構えている湯島さんだ。
「仲がいいから、北海道にも弥生様を連れて行くかと思いましたよ」
町田さんも、ぐっとリラックスしてそんなことを笑いながら言っている。
「今回の出張はハードスケジュールだし、弥生様をお連れするのは大変だからとお一人で行かれたようですよ」
江古田さんが静かに町田さんに言うと、町田さんは少し姿勢を正し、
「さてと。まだ入力が残っていたんだった」
と独り言を言い、パソコンの画面を睨んだ。
5時半近くになり、秘書課にはほとんどの人が戻ってきていた。そして、5時半になると、
「弥生様、そろそろお屋敷に戻りましょう」
と、細川女史が迎えに来てくれた。
「はい!」
もうすぐ、一臣様が帰ってくる!
わくわく、うきうきしながらデスクの上を片付けていると、江古田さんのデスクの電話が鳴り、
「はい。え?!一臣様?!」
と江古田さんが驚いた声を上げたのが聞こえてきた。
ビクーーー!途端に課のみんながシャキッと背中を伸ばした。
「はい。え?細川女子ですか?はい。います」
江古田さんの言葉に、細川女子はさっと江古田さんのデスクに近づき、受話器を受け取った。
「お電話変わりました。はい。これから、弥生様とお屋敷に戻る予定…。え?今から来られる?こちらにですか?」
その一言で、いきなり町田さんと湯島さんは上着を背もたれから取って、そそくさと着だした。
「弥生様、一臣様が14階の応接室に来られるようです。樋口さんとわたくしに同席をするよう申し付けてきたので、それが終わるまで待っていただけますか?」
「…はい」
私には用はないのかな。私は1秒でも早く会いたいのに。
ううん!夜遅くまで戻って来れないと思っていたんだもの。予定よりも早くに会えるんだからいいじゃない。
「お茶の用意はいたしますか?」
「いいわ。そんな感じじゃなかったから」
「はい」
江古田さんは短く返事をして、パソコンの画面に顔を向けた。
「なんだ?何か起きたのか?」
「さあ…」
湯島さんと町田さんがぼそぼそっと話をしていると、
「弥生!」
といきなりドアが開き、一臣さんが唐突に部屋に入ってきた。
うわ。
小声で湯島さんと町田さんがびっくりした声を出し、慌てて座りなおした。他の秘書課の人たちも、5時半を過ぎたというのに誰も席を立たず、なにやら仕事を続けている。
でも、ごめんなさい。そんな凍り付いている空気の中、私は、めっちゃ嬉しい!
「おかえりなさい!一臣さん」
嬉しくて、つい大声でそう言いながら椅子から立ち上がった。ああ、ちゃんと私の顔を見に来てくれたんだ!
「ただいま!どうだ?体の調子は」
「全然元気です」
一臣さんのまん前まで行き、嬉しくて抱きつきたいのをこらえながらそう言ったのに、一臣さんのほうが私を抱きしめてきた。
きゃ~~~。みんな、いるのに!!!
「視察が、とんとん拍子にうまくいって、早めに帰れたんだ。ただ、一つだけ問題が起きたから、今から細川女子と樋口とで、処分を決めようと思っていて…」
処分?
私を抱きしめたまま一臣さんがそう言うと、周りのみんなも顔色を青くして、ちらっとこっちを見たようだ。
「弥生は心配するな。すぐに終わる。そうしたら迎えに来るから、もう少しここで待ってろ。あ、大塚、江古田、弥生のことを頼んだぞ」
「はい」
にっこりと私に微笑み、一臣さんは秘書課のドアを開けて外に出ようとしてから、また振り返り、
「土産があった。樋口が持っているから、あとで持ってこさせる。秘書課のみんなで明日の3時にでも分けてくれ」
と、みんなに向かって静かにそう言うと、バタンとドアを閉めた。
「土産って、弥生にじゃなくて?」
「秘書課のみんなでって言っていましたね」
「珍しい。そんなこと初めて」
大塚さんと矢部さんが、ぼそぼそと話をしていると、その横で湯島さんと町田さんは、思い切り「は~~」と息を吐いていた。
「それにしても、弥生様のことを思い切りハグしていましたね~~」
「ラブラブじゃん、弥生ったら!」
やめて。大塚さんも矢部さんも。
「本当に仲がいいんだなあ」
湯島さん、また思い切りリラックスしてる。
「噂は、まったくの嘘じゃないですか」
「そうですよ。お二人は本当に仲がいいんですから」
町田さんの言葉に矢部さんがそう答えると、
「仲がいいどころか、一臣様は弥生にぞっこんよね」
と、大塚さんが私をからかうように言った。
「本当ですよね。すごく大事にしていますよね」
「弥生様に早くに会いたくて、わざわざ顔を出しにきたんですよね?」
「一臣様のほうが、弥生様にぞっこんなのかしら」
「うん、そうなのよ。一臣様のほうが弥生にベタ惚れなの」
大塚さん!そんなことをみんなに言わないで。恥ずかしいよ。
それからも、大塚派のみんなで、わいわいとそんな話しをしていると、
「弥生!」
といきなりまた、ドアがバタンと開いた。
「はい!」
「終わったぞ。待たせたな」
「はい!」
椅子からすぐに立ち上がり、一臣さんのもとに駆け寄った。
「細川女史、弥生は俺と樋口が一緒に帰るから、もう大丈夫だ」
「はい。では、わたくしは15階でもう少し仕事を片付けます」
「悪かったな。細川女史も忙しいのに」
「いいえ。大丈夫ですよ。これもわたくしの仕事のうちですから」
そんな話をしつつ、一臣さんは秘書課を出た。私は、
「お先に失礼します」
とみんなに声をかけ、一臣さんの隣に並んだ。
「一臣さん、あの、何か問題が起きたんですか?」
もしかして、土浦さんのことかなと思いながら、エレベーターに乗ってから聞いてみた。エレベーターには細川女史が一緒に乗ってきたが、樋口さんの姿はなかった。
「弥生は心配するな」
「…そう言われても、気になります」
「もともと、弥生にも変なことを言って困らせていたし、プロジェクトから抜けさせて、弥生に近づかせないようにしようと考えていたんだ」
やっぱり、土浦さん。
「そのことで、細川女子とも話はしていたんだが、今回の北海道の出張で、とんでもないことをしでかしたから、プロジェクトチームから抜けるだけじゃなく、札幌支店に移動だ」
「ええ?札幌に?」
「札幌まで有給取って遊びに来たんだと言っていたからな。そんなに札幌が好きなら、札幌支店に移動させてやる。今、樋口がその手続きをしに人事に行っている。まあ、そこそこ仕事はできたようだが、あの程度なら他にも変わりはいる」
「………」
一臣さんって、やっぱり怖い。
いや、でも、一臣さんを追いかけて北海道まで行っちゃうんだもん。そっちのほうが考えてみたら怖いことかな。
「弥生、誰のことか察しがついているのか」
「え、えっと。はい」
「そりゃそうか。プロジェクトチームで弥生を困らせたと言ったら、最近じゃあいつしかいないからな」
「……つ、土浦さんですよね?」
「そうだ。信じられない女だ。思い込みの激しい女は、本当に困る。っていうか、怖いな」
「怖い?」
「ああ。仕事を終えてホテルに戻ったら、部屋にいたんだぞ?!弥生の名前を語って、勝手に部屋に入って待っていたんだ」
え~~~~~~~?!
「一臣様、そんな話を弥生様にされたら、弥生様が…」
私が仰天して青ざめていると、細川女史が心配そうに私を見た。
「ああ、大丈夫だ、弥生。ホテルのフロントで、奥様が部屋でお待ちですと言われた時点で、変な女が現れたって警戒したから。また、スパイの誰かかと思ったんだがな」
そう言ってから一臣さんは黙り込み、
「まさか、スパイの可能性もあるか?細川女史」
と真面目な顔をした。
「そうですね。辰巳さんに報告します」
「そうだな。一回、ちゃんと調べないとわからないな…」
そうか。単なる思い込みの激しいストーカーってだけじゃないかもしれないんだ。
「は~~~~。疲れた。弥生、早くに帰って風呂はいるぞ」
15階の一臣さんの部屋に入ると、一臣さんは私を抱きしめながらそう言って、チュッと私にキスをした。
それから、またギュッと抱きしめ、
「ああ、癒される。やっと弥生と二人になれた」
と、私のお尻やももを撫でだした。
「早く帰って、弥生と寝たい」
え?
「眠い。昨日はほとんど一睡もできなかった。あの女のせいで」
「な、何があったんですか?」
「何もない。樋口を呼んで、他の部屋を取って移動させた。なにしろ、緒方商事の人間だからな。警察を呼ぶわけにもいかないだろ」
「そうですよね」
「そのあと、どっと疲れて酒を飲んだ。1時間は寝たんだが、気分が悪くなって目がさめて、それから眠れていない」
「そうだったんですね」
そういえば、顔色も悪いかも。
「弥生~~~~~~」
あ、甘え声。
「会いたかったぞ」
「私もです!」
「寂しかったぞ」
うそ~~~~~。一臣さんがそんなことを言うなんて!
「私もです~~~~!」
ギュウ。一臣さんを抱きしめた。一臣さんのぬくもりもコロンの香りも全部が愛しくって、嬉しい。
一臣さんはそのあとも、すっかり甘えモード。帰り道も車内で、私の太ももを撫でたりして甘えていた。(いつものごとく、樋口さんと等々力さんは、見て見ぬふりをしててくれた)。
車を降りた時は、ムスッとしていた。メイドのみんなは一臣さんが不機嫌なのを察し、近づかないように警戒した。触らぬ神に…って感じで。
夕飯の時にも、喜多見さんや国分寺さん以外の他の人は、一臣さんの顔色を窺っている。
でも、ムスッとした顔とは裏腹に一臣さんの言う言葉は、やっぱり甘えモード。
「弥生…」
「はい?」
「昨日は寮に行ったのか?」
「はい。亜美ちゃんたちの部屋に行きました」
「そうか。じゃあ、一人で寂しく寝たわけじゃないんだな」
「はい…」
怒ってる?
「じゃあ、俺がいなくて寂しかったわけじゃないんだな」
まさか、拗ねてる?
「寂しかったです。今日もず~~っと一臣さんのこと思い出して寂しくなっていました。一臣さんの声もぬくもりも香りもぜ~~んぶが」
「怖いぞ」
う、また言われた!
「でも、そうか。じゃあ、俺に会えて嬉しかったんだな」
「もちろんですっ」
あ、ちょっと口元緩んだ?
「さっさと食って部屋に行くぞ」
「え?あ、はい」
そんな会話だった。警戒して遠巻きにしている亜美ちゃんたちには、当然聞こえるわけもなく、今日の一臣さんは久々に怖かった…。と思っているに違いない。
部屋に戻ると、一緒にお風呂に入り、出てからも一臣さんは私を離してくれなかった。ソファに座り、のんびりと炭酸水を飲んでいる時にも、私の腰を抱き、離そうとしない。頭にすりすりと頬ずりをして満足そうにしているのがわかる。
「弥生がいるとすごいな」
「え?何がですか?」
「一気に満たされる」
キュン。嬉しい。
ギュウ。一臣さんに抱きつき、私も思い切り幸せを満喫する。
明日は土曜日。一臣さんは特に用事も入れず、ずっと一緒にいてくれる。
「そろそろ、赤ちゃんのものを買いに行きたいです」
「ああ、そうだな。ベビーベッドとか買わないとな。…う~~ん、どこに置こうか」
そんな話をしている時の一臣さんは、表情も優しくなる。
明日は、赤ちゃんのものを買いに出かけることとなった。やった~~!久々のデート!!!
るんるん、わくわくしながら、一臣さんの胸に抱きついて眠りに着いた。




