第2話 小さな演奏会
それから三日後、一臣さんが5日間、アメリカに行った。たったの5日だけど、寂しかった。
仕事はいつものように向かい、1日中秘書課の手伝いをした。夜はお義母様と一緒に夕飯を食べ、日野さんやモアナさんが壱弥のお風呂の手伝いをしてくれた。
壱弥がいてくれるから、一人で待っているのとは違う。そのへんは寂しくなかったけれど、でも、無性に一臣さんに会いたくなったりもした。
電話もかけてくれたし、メールも来た。だけど、一臣さんのぬくもりが恋しい。
月曜にアメリカに行き、土曜に一臣さんは日本に帰ってきた。お出迎えに行っていた等々力さんの車がお屋敷前につき、私は一目散で一臣さんを出迎えに行った。
「おかえりなさい!」
車のドアを等々力さんが開けて、一臣さんが降りてくる瞬間そう叫んで、一臣さんの胸にダイブした。
「うわ、弥生。倒れる!」
すんでのところで一臣さんは耐え、
「驚かせるな」
と私は怒られた。ぐすん。会って喜んでくれると思ったのに。
あれれ?ひょいっとお姫様抱っこしてきたぞ。
「まったく。そんなに俺に会いたかったのか」
「はい」
「なんだよ、目を潤ませやがって。可愛い奴だな」
そう言うと私をおろし、今度は手を引いて早歩きで歩き出した。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
メイドさんたちの言葉に一言だけ返し、ずんずんとお屋敷の中に入り、そのまま階段を無言で上がりだした。そして部屋に入るやいなや、
「弥生!」
とぎゅうっと抱きしめ、そのあと思いっきり熱いキスをしてきた。
「壱は?」
「さっきまで一臣さんが帰ってくるのを一緒に待っていたんです。でも、5分前に寝ちゃいました」
「マジか?天使だな」
「え?はい。笑顔は天使で」
「違う。寝てくれて天使だって言っているんだ」
一臣さんはそのまま私をベッドまで連れて行くと、ドスンと私を押し倒してきた。
「え?」
「もう我慢の限界だ。うるうるの目なんてさせて、俺を挑発したろ?」
「していないです」
「弥生も抱かれたかっただろ?この腕が恋しかっただろ?」
う。それは確かに。
「はい」
思わず素直に頷いた。するとまた、
「可愛いやつだ!」
とあっついキスをしてきた。
ああ、嬉しい。一臣さんだ。一臣さんのぬくもりだ。
そして、思いっきり一臣さんに愛された。
夕飯まではまだ1時間もある。一緒にベッドの上でしばらくいちゃついていた。壱弥はめずらしく今日は長いお昼寝だ。本当に親思いだな…と一臣さんはニコニコ顔。
「汗かいたからシャワー浴びてくる」
一臣さんがシャワーを浴びに行った頃、壱弥は目を覚ました。
「パパ帰ってきてるよ」
と言うと、壱弥の目が輝いた。
「パパ!パパ?」
「シャワー浴びてるから、もう少し待って」
そう言ってベビーベッドから下ろしてあげると、ててて~~っとすごい速さで壱弥はハイハイをしてバスルームの前に行った。
「壱君、パパ出てくるからそこにいたら危ないよ」
「パパ~~」
私が抱っこすると、壱弥は手を伸ばしてパパを呼んだ。ああ、パパに壱弥も会いたかったんだね。
ガチャリ。バスルームが開いた。
「壱、目が覚めたのか」
「パパ~~~!!」
わあ。壱弥が暴れだした。しかたないから、一臣さんの腕に渡すと、壱弥はめちゃくちゃ嬉しそうに笑った。
「パパも会いたかったぞ、壱」
高い高いをしたり、飛行機だと言って、抱っこしたまま振り回している。
「きゃきゃきゃ」
「重いな。しばらく見ない間にまた重くなったか」
「そうだ!一臣さん、電話でも話したんですけど」
「ああ!壱がつかまり立ちをしたんだろ?なかなか立たなかったから心配したんだ。でも、立ったんだな?」
「はい。まだ何かにつかまっていないと立てないんですけど、その瞬間をビデオに撮ろうと思ったんですが、一瞬だったから撮れませんでした」
「そうか。じゃあ、また立つかもしれないな。俺がビデオで撮ろう。ちゃんと準備しないとな」
髪もまだ乾いていないのに、一臣さんはビデオの用意をした。
それから、髪を乾かし、
「弥生も入ってくるか?それとも、あとで一緒に風呂に入るか?」
と聞いてきた。
「一緒には無理です。でも、食後にします」
「入れるだろ。壱と3人で」
「え?3人で?」
「ああ、どっちかが先に出て、壱が出てくる前にバスローブでも着て、壱を受け取ればいい」
「そうですね!」
わあい!3人で入れる!楽しみ。
「じゃあ、今、さっと浴びちゃいます。そうしたらあとで、壱君のこと洗うだけで済んじゃう」
そう言い終わる前に私はさっさとシャワーを浴びに行った。一臣さんはその間に、食事を15分くらいあとにしてくれと頼んでくれていた。
ダイニングに行くと、お義母様が先に来ていた。
「悪い、おふくろ。食事の時間をずらしてもらったんだ」
「いいですよ。部屋でゆっくり休んでいたんでしょ?」
「ああ。それから軽くシャワーも浴びた。あとでゆっくりと壱も一緒に家族みずいらずで風呂に入ろうと思ってな。それから、壱がつかまり立ちをまたしたら、なんとかビデオに撮りたいから、その準備もしていたんだ」
「つかまり立ちの瞬間は私も見たいですよ。ですが、立って歩くようになると、いろいろと転んだ時に危ないわね。特にここは大理石ですからね。頭なんて打ったら、大変だわ」
「一臣さんや龍二さんはどうしていたんですか?」
「あの時は、しばらくの間、絨毯を敷いたわね。すぐに国分寺、絨毯敷くように手配して。それまではベビーチェアからおろさないこと」
「はい、かしこまりました」
「ダイニングには、絨毯を敷くまでは入れないほうがいいのかもしれないわねえ。食事以外は、ここのドアは鍵をかけてしまいましょう」
「はい」
「応接間なら絨毯を敷いているから、遊ばせるならあそこかしら」
「大丈夫だ。明日は、寮のプレイルームにでも行くさ」
一臣さんがそう言うと、お義母様は、
「そうね、そこが安心だわ」
と頷いた。
もう前みたいに寮に行くことに、そこまでお義母様は反対しない。
夜、3人でお風呂に入った。一臣さんの腕の中でバスタブに入った壱弥は、とっても気持ちよさそうにしていた。
それから、いつ立ち上がるかわからないからと、しばらく壱弥が眠くなるまで、隣の部屋にある壱弥の遊び場で3人のんびりとした。おもちゃもいっぱいあるし、壱弥はこの場所を気に入っている。そして、
「きゃ~~」
と、部屋をハイハイして動き回っていたが、いきなりベビー服などを閉まっている低いチェストにつかまり、足で踏ん張りだした。
「一臣さん、壱君立ち上がるかも」
「おう!」
ビデオをすぐに一臣さんは構えた。壱弥は足をふんばり、お尻を揺らし、そしてやっとの思いでつかまり立ちをした。
「やった!やったぞ、壱。壱が立ったぞ!壱が立ったぞ~~~」
昔見たアルプスの少女ハイジというアニメで、クララが立った時くらいの感動を一臣さんはしていた。
当の壱弥はと言うと、よだれをチェストの上に垂らしながら、へらへらしている。そして、足が揺れ始め、ベたんと尻もちをついた。
「あ!」
一臣さんはビデオを床に置き、慌てて壱弥に駆け寄った。
「ケツ痛くなかったか?」
「一臣さん、絨毯敷いてあるし、オムツしているし、痛くないと思います」
「そうだな」
すぐに抱っこをすると一臣さんは、自分の部屋に壱弥を連れて行き、
「あとはソファに座って、パパが絵本を読んでやる」
と壱弥のぽっぺにキスをした。
壱弥は思いきり喜んでいる。私はビデオを持って、あとから一臣さんの部屋に入った。そして、絵本を読んでいる一臣さんをこっそりとビデオに撮った。
この動画は私の宝物だ。いつか、壱弥が大きくなったら見せてあげたい。どんなにパパが壱弥のことを大好きで大事にしていたかを。
ああ、今日も幸せな日。
それから1週間後、家族だけの演奏会を開いた。
なんとお義父様も参加した。お義父様はピアノを。それもクラシックではなく、ジャズだった。
一臣さんすらびっくりしていた。いつの間にあんなの弾けるようになったんだ、ちきしょう。と悔しがっていた。
一臣さんはショパンを弾いた。私の提案で、大広間にメイドさんたちやコックさんたちも呼んでの演奏会にしてもらった。お義母様が反対するかと思っていたが、提案すると「いいですよ」と賛成してくれた。
それもまた、一臣さんには衝撃だったらしいが、何より一番驚いていたのは、従業員のみんなだった。
大広間にお屋敷の従業員一同が集まった。椅子がそこまでないので、みんな立ち見だったが、それでも嬉しそうに演奏を聴いていた。私は恥ずかしながらも、琴を演奏した。そして、京子さんはハープを。
やっぱり、京子さんのハープは最高だった。何よりもうっとりと嬉しそうに聴いていたのは龍二さん。
やっぱり、龍二さんは思いきり京子さんに惚れちゃってるよね。
龍二さんのバイオリン、お義母様のフルート、みんなみんな素敵だった。
演奏会が終わると、従業員からの拍手喝采。しばらくは鳴りやまなかった。
「素敵だったわ」
「一臣様のピアノが聴けて幸せ」
「ハープの音色もきれいだった」
メイドさんたちが口々にそう言いながら、大広間を出て行った。コックさんたちも京子さんに魅了されたらしく、うっとりとした顔をしながら大広間をあとにした。
あれ?私のことは誰も褒めていなかったようだけど、ま、しかたないか。確かに京子さんのハープ、素晴らしかったもの。
「楽しかったわね。たまにしましょうね」
お義母様はご満悦。私も京子さんも喜んで「はい」と返事をしたが、一臣さんはあまり乗り気ではない。なんでかな。
「いったいいつこんな企画を考えたんだ?」
「アメリカでですよ。一臣、何か不服でも?あなたも京子さんのハープや弥生さんの琴を聞けてよかったでしょ?」
「…まあ、確かに。弥生の着物姿も見れたから満足はしたが」
そこ?
「まあ、ほほほ。本当にあなたは弥生さんにベタぼれね」
「はっはっは。面白いなあ、一臣は」
お義父様もご機嫌だ。
「さて。僕はもう少し壱君と遊んでいこうかな~」
日野さんとモアナさんが壱弥を交代で抱っこしていてくれた。お義父様は二人から壱弥を受け取り、高い高いをした。
「う、重くなったな、壱君」
「じ~~じ~~~」
「じーじと呼べるようになったのか!嬉しいなあ」
本当に目じりを下げ、喜んでいる。
「あなた、高い高いはやめたほうがいいわ。ぎっくり腰にでもなったらどうするんです?」
「そこまで軟じゃない。だが、まあ、そろそろやめておいたほうがいいな」
「ほら、気が済んだろ。壱を返せ、親父」
「壱君、立てるようになったんだろ?見たいなあ」
「つかまり立ちだけどな。ビデオで撮ったから、親父のPCにでも送っておくよ」
「実際に見たいなあ」
「そのうち歩くようになる。そうしたら、社長室にでも遊びに行ってやるから」
そう言って一臣さんはさっさと壱弥を自分の腕に抱いて、大広間を出て行ってしまった。




