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一杯の水

作者: 秋沙美 洋

 午後二時。外回りが一段落ついたので、会社に戻る前に遅めの昼食を取ることにした。

 国道から少し外れたところにある小さな食堂は、外観から昔ながらの雰囲気が漂っていた。引き戸を開けると、カランコロンとドアベルが鳴り、「いらっしゃいませ」と笑顔の女将さんが出迎えた。厨房には初老の主人がいる。

 壁際のテーブルに腰を下ろす。ランチのピークが過ぎた店内に他の客はおらず、ラジオから流れる一昔前の流行歌がよく響いている。うろ覚えの歌詞に耳を傾けながらメニューを見ていると、すぐに女将さんが注文を取りにきた。一通り悩んだ末、俺はサバ定食を注文した。

 どうやら水はセルフらしい。俺は席を立ち、カウンターにあるウォーターキーパーで水を注いだ。

 席に戻り、水を飲んで一息ついたところで、入り口のベルが鳴った。

 店にやって来たのは四十歳ほどの男だった。薄汚れたシャツを着ていて、チラリと見えた寂しい後頭部には不規則に白髪が生えている。テーブルに座った彼は、女将さんが注文を伺うより早く、こう言った。

「あの、すみません、ツレが来るので……後でツレの分と一緒に注文します」

 その声は、やけに弱々しかった。

 俺は店に置いてあるスポーツ新聞を手に取った。一面の記事を読みながら、横目で男の方を見る。彼は席から立ち上がり、ウォーターキーパーに水を注ぎに行くところだった。

 男は、二つのコップに水を注いだ。

 一つは自分ので、もう一杯は待ち人の分だろう。だが少しばかり奇妙である。待ち人が来てから相手の水も注げばいいのに、何故今二人分注ぐ必要があるのだろうか。

「サバ定食お待たせしました」

 女将さんの明るい声が飛び込み、テーブルにサバ定食が置かれた。俺はスポーツ新聞を畳むと、こんがりした焼き目が旨そうなサバに、早速手をつけ始めた。

 俺の位置からだと男の様子がよく窺える。彼はコップの水をちびちび飲みながら、店の壁にかかっている時計をしきりに気にしていた。

 あの一杯の水は、誰に飲ませる物なのだろうか。

 妻か恋人……ではないだろう。ここは女性と待ち合わせるような場所ではないし、それに女性と会うのであればもっとお洒落をするはずだ。

 第一、平日の昼間に薄汚れたシャツという格好で食堂に来ている彼が定職に就いているとは思えなかった。

 おそらく似たような立場の友人と飯を食って、その後連れ立ってパチンコにでも繰り出すのではないだろうか。あらかじめ水を注いだ意味は分からないままだったが、しかし考えても無駄なことだと、俺は目の前のサバ定食に集中することにした。

 再び入り口のベルが鳴ったのは、サバ定食が半分ほどに減った頃だった。

 スニーカーらしき足音。米を味噌汁で流しながら目線をやると、男のテーブルに一人の少女が歩み寄ろうとしていた。

 年は六、七歳くらいだろうか。キャラ物のブラウスを着た彼女は、クリッとした瞳と茶色がかった髪が印象的な美少女だった。クラスの男子からは憧れの的に違いないだろう。

 やって来た少女に、男はクシャッと顔を綻ばせた。対照的に、少女は眉一つ動かさない無表情だった。

「加奈子、久しぶりだな。元気か」

「うん、元気だよ」

「加奈子の好きなもん注文していいぞ。ここの飯はどれも旨くてな、前からお前に食べさせたいと思ってたんだ」

「ううん、お母さんが早く戻って来いって」

「そうか。じゃあ、水でも飲みながら五分くらいお喋りしないか? 加奈子の分も入れておいたから。あっ、それとも加奈子はジュースがよかったか?」

「お母さんに怒られちゃうから」

 淡々と話す少女は、終始真顔だった。男は困ったような笑みを浮かべ、「そうか……じゃあしょうがないな」と言った。

「これ、お母さんによろしくな」

 男は少女に封筒を手渡した。少女はそれを黙って受け取ると、何も言わずに駆け足で店を出て行った。封筒には何も書かれていなかったが、それが養育費の類であることは想像に難しくなかった。

 俺は振り返り、窓ガラス越しに少女の後を目で追った。店を出た彼女は、路肩に停めてあった車の後部座席に乗り込んだ。ドアが閉められると、車はすぐに発進していった。

「あの、女将さん、小カレーを一つ」

 男が注文したのは一番安いメニューだった。

 小さな皿に盛られ、カレーはすぐに運ばれて来た。それを三口ほど食べたかと思ったら、男はカチャリとスプーンを置いた。

「あの、お会計……」

 男は財布からクシャクシャの千円札を取り出し、女将さんに渡した。お釣りを受け取った彼は、その後しばらく席に座ったまま、惜しむようにコップの水を眺めていた。

 きっと、男は要領が悪いのだ。

 少女がお腹いっぱいになる姿を見たくて、この店を待ち合わせ場所に選んだのかもしれない。しかしあれくらいの女の子だったら、こんな大衆食堂より小洒落たケーキ屋さんの方がずっと嬉しい。

 あらかじめ注がれた水は、少女を座らせるための物だったのだろう。少しでも長く彼女と一緒に居たかった男の作戦は、あえなく失敗に終わってしまった。

 男は苦い顔を浮かべた。やがてゆっくり立ち上がると、彼は小さな背中を丸め、トボトボとした足取りで出入り口へ向かった。その後半分以上残ったカレーと一緒に、最後まで誰にも飲まれることのなかった一杯の水が、女将さんの手により下げられた。

 くぅ、と低く呻くような声が、男の喉の奥から絞り出された。やはり弱々しいその声は、カランコロンと鳴るドアベルに呆気なくかき消されてしまった。

 バシャッと音がした。厨房のシンクに、あの水が棄てられた音だ。

少し重めのお話しでした。以降は明るく楽しい話も書いていきます。

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