第五話 姉弟と魔王
魔王エレルインを迎えた蒼河家の夕食は、盛況に終わった。
響の母・鈴音と姉・奏が腕によりをかけた手料理の数々は、エレルインの舌を唸らせ、ほっぺたが落ちそうになるほどだといわしめた。響もそれについては異論はなかった。鶏の唐揚げも、鰤の照り焼きも、野菜スープも、卵焼きも、どれをとっても素晴らしい出来だった。庶民的な料理ばかりだと侮ってはいけないのだ。
食事中の会話は、きわめて他愛のないものだった。鈴音も奏もエレルインの魅力とやらにやられてしまったらしく、彼女の確信に触れるような話題さえなかった。終始、可愛いだとか、響にはもったいない相手だとか、むしろわたしの嫁になってほしいだとか、そんなことばかりいっていた。主に奏のほうが、だが。母も、エレルインに対しては相好を崩しっぱなしだった。
食事が平和裏に終わったのは、響にとっても嬉しい事ではあったのだが。
夕食後、食器を洗うのは基本的に響の仕事だった。子供の頃からの手慣れた作業は、苦にもならない。当たり前のことだと思っていたし、ほかの家でも当然、子供が食器を洗っているのだと信じていた。しかし、数年前、友達の家に泊まりに行ったとき、その幻想はもろくも崩れ去った。しかし、響が食器洗いをボイコットするようなことはなかった。
響が食器を抱えて台所に向かうと、エレルインがとことことついてきた。
「なにをするのじゃ?」
「食器を洗うんだよ」
答えながら、食器を流し台に置いていく。ご飯茶碗にお皿、大きめの器などだ。料理は綺麗に平らげられ、タレが残っているくらいのものだった。あいも変わらず食欲旺盛な家族だ。腹八分目という言葉を知らないらしい。響は自分を棚に上げていることに気づき、胸中で苦笑した。
「そんなこと、料理人に任せておけばよいのじゃ」
「いや、うち、普通の家だから。料理人とかいねえから」
突っ込みながら、考える。魔王には一般常識は通用しないのかもしれない。いや、そもそも、異なる世界からの来訪者なのだ。常識と呼ばれるものが違っていても不思議ではないし、むしろ当然だろう。
「おお、そういえば、義母上と義姉上の手作り料理だと申されておったな」
「そうだよ。この家で暮らすってことは、そういうことだ。料理人の料理がいいなら、魔界に帰った方がいい」
「ふふふ……響はわらわを試すのが好きじゃのう。しかし、わらわの心はそのようなことでは揺れぬのじゃ。天秤の支柱のようにの」
エレルインが両腕を左右に掲げたのは、天秤のつもりなのだろうか。
「別に試したわけじゃねえよ」
「それに、母上と姉上の料理は絶品だったのじゃ。舌が蕩けるほどだったのじゃ。あれほどの料理、魔界料理王でも作れぬかもしれぬ……わらわも教えを請いたいくらいなのじゃ」
「魔王が台所に立つのかよ」
「エプロンの似合う魔王がいてもいい、とわらわは思う」
「そりゃあそうだけど」
響は、エプロンを身につけたエレルインの姿を想像する自分に気づいて憮然とした。しかし、彼女はどうあがいても美少女であり、エプロンを身につけてもよく似合うに違いない。想像してしまうのも無理はないのだ、という結論は自分を納得させるためのものに過ぎないが。
「ふふん、わらわの勝ちじゃな」
「負けでいいよ……」
天秤のポーズで勝ち誇る彼女に否定する気にもなれず、響は肩を落とした。とはいえ、敗北感があるのは事実だ。
響は、自分がこの魔王少女の魅力に飲まれつつあることに感づいてしまったのだ。しかし、それは気分の悪いものではなかった。不思議なことに、心地良いとさえ感じている。
恐らく、彼女に悪意がないからだ。無邪気と言い換えてもいい。一瞬で母と姉を魅了してしまったのも天使のような容貌と、屈託のない立ち居振る舞いによるところが大きいのだろう。一見古風な口調も、彼女にとっては愛嬌にしかならない。ちょっとした言動に、ついつい目を惹かれるのも彼女が魅力的だからだ。魔王らしい威厳はないに等しいが、それでいいのではないか。エプロンが似合う魔王に威厳があっても困りものだ。
「響よ」
「ん……?」
「ぼーっとして、なにを考えておるのじゃ?」
問われて、響は、自分が彼女をじっと見つめていたことに気づいた。慌てて流し台に視線を移す。食器は、いつの間にか山積みになっていた。
はっと背後を見ると、奏が意地悪そうな笑みを浮かべていた。奏は響よりも上背があり、見下ろされると、エレルインよりも余程魔王感があるように思える。もちろん、そんなことを口走れば酷い目に合うのはわかりきっている。
「響くんは、彼氏のいないお姉さまにイチャラブぶりを見せつけるために手を止めているのかしら?」
奏の目が笑っていないことに気づいて、響は咄嗟に口を開いた。
「そ、そんなわけないだろ」
「そうよねえ、お姉さま想いの響くんに限って、そんなことはありえないわよねえ……うふふふふ」
「あたりまえじゃないか、ははははは」
「むむー、なにやら剣呑な雰囲気なのじゃ」
響と奏の間に飛び交う火花を感じたのか、エレルインは困ったような声を上げた。そして、天秤のポーズを解いて、ふたりの間に割り込んでくる。
「姉弟喧嘩は良くないのじゃ!」
「え?」
響は、奏と顔を見合わせた。姉は間の抜けた顔をしていた。きっと響も同じような顔をしているのだろう。響は奏と瓜二つの顔立ちといってよかった。女顔というのは、響の子供の頃からのコンプレックスでもある。
それから、ふたりは同時にエレルインを見下ろした。彼女は、必死な顔だった。喧嘩を制止しようとしているのだろうが。
「喧嘩って……?」
「ねえ……?」
ふたたび、顔を見合わせる。困ったのは、響と奏だった。あんなものは喧嘩にも入らない。ただじゃれあっているだけなのだ。確かに、一触即発の危機に見えなくもないし、一歩間違えて地雷原に踏み込んでしまうことは往々にしてあるのだが。
「むむ……喧嘩ではないのか?」
「違うわよ、ねえ?」
「これが喧嘩なら俺たちの会話の大半が喧嘩になるよ」
響が笑うと、エレルインはまだ腑に落ちないような顔をしていたが、とりあえずふたりの間からは抜けだした。なぜか、彼女の大きな目に涙が溜まっていた。
「わらわは姉弟喧嘩の悲惨さを知っておるのじゃ。だから、響と義姉上には仲良くして欲しいのじゃ」
涙ぐむ少女の姿に、響は奏の顔を見た。姉もこちらの反応を窺っている。エレルインの過去になにがあったのか。姉弟喧嘩に起因する事件でもあったのだろうか。魔王の過去、彼女の過去に少しだけ触れた気がした。
気がしただけで、一切触れてはいないのだが。
「悲惨……って」
「いわれてもねえ……」
「むー、仲良くしてはくれぬのか?」
絶世の美少女に上目遣いで見られ、響は息を呑んだ。
「響とわたしはこう見えても仲良し姉弟で通ってるんだけどねー」
「え? そんなの初耳」
「いいからあんたはだーってなさい」
「……うっす」
奏に気圧されて、響は口を閉ざした。確かに、この場は姉に任せたほうがいいかもしれない。奏はどうやらエレルインを気に入っているらしく、悪いようにはしないだろう。
「むむ、義姉上の話は本当なのか?」
「あなたに嘘をついたってしかたがないでしょ?」
「……ふむ、それもそうじゃな!」
エレルインの表情が、ぱっと明るくなる。その瞬間、暗闇に日が差したかのような錯覚に襲われて、響は目をぱちくりとした。彼女はやはり、魔王というよりは天使のほうが相応しいのではないか、などと考えたりもした。
悪魔は、天から堕とされた天使だという話もある。悪魔の王たる魔王もまた、元は天使だったのかもしれない。そう考えれば、エレルインの天使性にも納得がいくというものだ。
「響よ、どうしたのじゃ?」
「またぼーっと見惚れてるし」
「ちげえよ!」
半眼でからかってきた奏に対し、響は、声を大にして突っ込んだ。
結局、食器を洗い終わるのに一時間ほどかかったのだった。