第三話 掃除と魔王
「響よ」
「ん?」
呼びかけられて、蒼河響は書斎を振り返った。エレルインは、埃まみれの室内で平然と立ち尽くしている。ゴシックロリータ風の衣服を纏った銀髪の少女は、そこにいるだけで違和感が満載だった。彼女の存在を現実と受け入れたものの、慣れるには少しばかり時間が必要だろう。
魔王エレルイン・フォルザアク。
「おぬしはなにをしようとしておるのじゃ?」
「掃除だよ。姉さんに片付けとけっていわれててね」
廊下に置いていた掃除機を室内に運び込みながら答える。
「ふむ、殊勝な心がけじゃな。わらわも手伝うとしようかのう」
「そりゃあ手伝ってもらえるなら嬉しいけど」
確かに、彼女たちとの問答のおかげで残る時間は少ない。母と姉が帰ってくるまでにある程度の目処を付けておかないと、どうなるものかわかったものではない。しかし、響は、彼女の衣服が埃まみれになるのがしのびなかった。銀髪や白い肌を際立たせる漆黒のドレスは、美少女によく似あっている。
「この部屋の本を片付ければよいのじゃな?」
「そうだよ。まず埃を吸い込んでだな……」
掃除機のコードをコンセントに差し込むために伸ばしていると、エレルインが声で制してきた。
「その程度のこと、わらわに任せるがよいぞ」
「は?」
戸惑ったのも束の間、少女がおもむろに右腕を掲げる。なにごとかを囁いた。次の瞬間、突風が書斎を駆け抜けた。響は、予期せぬ風のあまりの強さに一瞬目を閉じてしまう。唸りを上げるほどの強風が書斎を蹂躙したかに思えたが、響は苦痛を覚えなかったことに疑問を抱いた。風がどこから入ってきたにせよ、あれだけの勢いなら埃を舞い上げるはずなのだ。
瞼を開けた響が目撃したのは、勝ち誇ったように佇む少女と、埃まみれだったはずの書斎がすっかり小奇麗になっていることだった。山積みだった本の数々は、本棚に収められるか、部屋の隅に整頓されている。
響は、一瞬にして片付いた室内を見回してから、エレルインに視線を戻した。少女は、掲げていた腕を胸の前で組み、にやりと笑っている。不敵な笑み、なのだろうが、どこをどう転んでもそのようには見えない。
「なにか……した?」
「いうたであろう。わらわは魔王。この程度、造作もないのじゃ」
こちらが驚いているのが小気味いいのか、少女は実に嬉しそうな顔をしていた。その愛嬌に満ちた笑顔は、とても魔王とかいう恐ろしい存在とは思えない。十代半ばの元気な少女が、アニメのキャラクターのコスチュームでも身につけ、キャラクターになりきっているのだと思えば納得できる。魔界の王だとかいう荒唐無稽な話など、誰が信じられよう。
しかし、現実に起きたことを否定することはできない。目の錯覚だとか、記憶違いだとか、そういうことではない。彼女の従者はどこからともなく現れたし、彼女だって空間転移したという事実がある。そしていまも、書斎が片付けられてしまった。
「ま、魔法でも使ったのか?」
「魔法というほど高尚なものではないぞ。力を軽く使ったまでのこと」
「本当に、本物の魔王なのか……おまえ……」
「まだ信じておらぬのか!」
エレルインが詰め寄ってきたが、どうにも迫力がない。響との身長差のせいかもしれない。響の身長は百六十センチ台後半はあったが、彼女は百四十センチ台だろう。体格も大きく違う。華奢な少女と、多少は運動に覚えのある高校生の体だ。比べれば比べるほど、彼女が普通の少女に思えてくるのだ。
「いやだって……魔王とかいわれても、にわかには信じられないだろ……」
「むうう……響の意見もわからぬではないがのう。わらわが魔王なのも事実なのじゃ」
見た目が魔王らしくないという自覚があるのか、エレルインはそれ以上強く言い張ってはこなかった。魔王であるという自負と、魔王には見られまいという自覚。相反する感覚の中で苦悩する少女の姿はいじらしくすらあった。
室内をもう一度見回す。埃ひとつない書斎は、手入れの行き届いた部屋にしか見えず、長年放置されていたとはとても思えなくなっている。床に積み上げられた書物も、部屋の片隅では自己主張することもない。これなら姉も満足するはずだ。
「いやしかし、助かった。俺ひとりじゃ片付けきれなかったよ……」
「ふふーん。わらわのおかげじゃな!」
魔王少女が、ふんぞり返っていってきた。
響は、そんな彼女に歩み寄り、その目を見つめた。
「ありがとう、エレ」
「あ、改まってお礼を言われるほどのことでもないのじゃ!」
顔を急激に赤らめる少女の様子に響は微笑んだ。可愛いところもある。いや、愛嬌の塊といってもいい。表情ひとつ、仕草ひとつとっても可愛らしいのだ。ただそれは、小動物に対する感情に似ているのかもしれない。守ってあげたいと思わせるなにかがある。もっとも、ただの学生風情が魔王を庇護しようとするなど、滑稽以外の何物でもないのだろうが。
響は、書斎をもう一度見回して、ふと気づいた。ここにいたはずの人物がいなくなっている。白髪の執事然とした男。
「ところで、あいつどこいったんだ? セ……なんとかってやつ」
「セヴァスチャンのことなら、わらわがここで暮らすための手配をしに魔界に戻っておる」
「そうだったのか」
(そりゃあ、魔王だものな。魔界とやらの政治とか大変なことになってそうだ……)
彼女は魔界の王と名乗った。魔界の王という肩書が事実かはこの際置いておくとして、もしそれが本当なら大変なことになっているに違いない。王が忽然といなくなったのだ。政治は停滞し、社会は混乱をきたすだろう。人心は乱れ、戦乱が巻き起こり、群雄割拠の戦国時代へ――などと無駄な妄想に陥りかけて、響は頭を振った。そして、素直に納得している場合ではない。聞き捨てならないことを彼女はいったのだ。
「って、こっちで暮らすつもりなのか!?」
「なにをいうておる。将来の夫と一つ屋根の下で暮らす……当然ではないか」
そういってから、彼女は、なにが嬉しいのか頬を紅潮させた。魂約が発覚してからの彼女のあからさまな態度の変化には、響は困惑するしかない。といって、エレルインに不満があるわけではない。絶世の美少女といっても過言ではないのだ。そんな少女に好かれるなど、夢の様ではある。
「わかったよ……」
そうはいったものの、多少の徒労感を覚えずにはいられなかった。
響の部屋は、二階にある。
玄関を入ってすぐの右手に書斎があるが、廊下をまっすぐ進むと居間と台所に到達し、その手前の右側に二階へ至る階段がある。二階には響の自室以外に、姉の部屋と両親の寝室があった。
なにが珍しいのか、書斎を出たときからきょろきょろしていたエレルインを連れて自室に戻った響は、ドアを閉めると大きく吐息をついた。少女はやはり、物珍しそうに室内を物色している。
「ここがおぬしの部屋なのじゃな?」
「そうだよ」
「狭いのう」
「悪かったな」
率直な感想なのだろうが。
六畳とはいえ、寝台と机と書棚によって占拠された空間は、狭苦しく感じるのも無理はなかった。場所を取るのはそれだけではない。テレビやゲーム機は一箇所にまとめていてもそれなりの空間を制圧するし、収納家具だって必要だった。それでも響ひとりなら十分な広さはあったし、特に不満もなかったのだ。
とはいえ、エレルインひとり増えるだけで手狭に感じるのは、空間を上手く使えていないからかもしれない。
「魔王は寛容ぞ。文句はいわぬ」
「さっきいっただろ」
「さっきのは文句ではないのじゃ、ただの感想なのじゃ」
そういうと、エレルインはおもむろにベッドに飛び込んだ。大してスプリングの効いていないベッドではあったが、彼女は気に入ったらしく、布団の上で何度か飛び跳ねた。確かに、布団だけはふかふかで、響のお気に入りでもあったが。しかし、少女の威厳の欠片もない様子に、響は半眼になった。
「本当に魔王なのか」
「わらわは、魔界六十億土を統べる王の中の王。魔界の万民は、わらわを崇め、讃え、平伏すのじゃ。なんなら、響もわらわを崇め奉ってもよいぞ?」
「六十億土……」
よくわからない単位ではあったが、なんとなく凄いとは思える。まさかそういう設定なのか、と思いかけて、やめた。彼女は確かに魔法染みた能力を用いたのだ。普通の少女でないことは確かだったし、セヴァスチャンの存在が彼女の立場が普通人でないことを思い知らせてくる。超能力を持った少女という線も消えた。
「魔界の王とはいえ、わらわの仕事など大したことはないのじゃ。だいたい、六十億土の運営など、わらわひとりでできるはずがなかろう?」
「そういうもんかもな」
ベッドの上にちょこんと座った少女を見やりながら、響は腑に落ちる思いがした。
六十億土がどれほどの広大さなのかはともかく、ひとつの世界をひとりの王が統治運営などできるものではないというのは、当然のことのように思えた。小さな国でさえ、頂点に立つひとりがすべてを決めるというわけではない。魔王がいなくとも運営に支障が出ないようになっていても不思議ではなかったし、そうあるべきものなのかもしれないとも思った。
だからといって、この少女を家族と対面させるべきかは別問題なのだが。