第二話 彼と魔王・魂約編
沈黙が場を支配して、どれほど時が流れただろう。
数十秒か、数分か。
時計の針が進む音だけが、片付けの進まない書斎に響いていた。正確に時を刻む旋律は、むしろ静寂であることを強調するかのようだ。時は進む。しかし、片付けは進まない。
凍りついたままの少女と、そんな彼女に付き従うかのように静止している男。そして、ふたりを見習うわけでもなく、途方に暮れて動けない響の三人は、埃まみれの書斎で立ち尽くしていた。
このままでは掃除もできないと思った響は、やっとの思いで白髪の男に声をかけた。
「……いったいどうなってんだ? 話がまったく見えないんだけど」
「これは失礼。貴方様がこちらに署名を?」
男が、うやうやしく手にした紙を見せてくる。魔王と名乗る少女が、立ち去るかわりに署名しろと差し出してきた紙切れだ。意味不明の文字列の中、響の名前だけが浮いている。蒼河響。紛れも無く自分の字だ。
「あ、ああ。そうすりゃさっさと帰るっていうからさ。で、魂の隷属がどうとか言い出したときは気が狂ったのかと思ったけど、あんたが現れたときにわかったよ……狂ってるのは俺の頭なんだなって」
「ほう?」
男が切れ長の目を細めた。能面のような顔そのものに大きな変化はない。狐顔だな、と響はどうでもいい感想を抱いた。
「これ、夢だろ。しかもかなりできの悪い夢だ。きっとそうだ、そうに違いない」
響は願望からそういったのだが、セヴァスチャンとかいう男は笑いもしなかった。能面のような表情を一切崩さず、冷ややかにいってくる。
「なんでしたら、引っ叩いて差し上げましょうか?」
「おう」
つい応じてしまったのは、夢ならば殴られても痛くはないという前提があるからだ。いや、痛みは覚えるかもしれない。だが、目が覚めれば忘れるものだ。どんな悪夢でも、あっという間に記憶の奥に沈んでいく。だからこそ、彼の申し出に即答したのだ。
「では、お言葉に甘えて」
セヴァスチャンは、契約書を懐にしまうと、響の目の前にきた。一礼して、深く腰を落とす。
「チェストオオオ!」
気合とともに繰り出された拳は、唸りを上げて響の腹を抉った。衝撃と激痛に息ができなくなる。が、視界が空転する様が夢から醒める前触れに見えて、響は殴られてよかったと思った。苦痛に全身が汗を噴き出している。だが、夢は終わるはずだ。瞼が開き、天井でも何でも、自室のベッドから見える光景が広がってくるはずなのだ。
しかし、いつまでたっても前方に見えるのは廊下の天井だ。滲んでいるのは涙が出たからだろうし、廊下に出たのはセヴァスチャンの一撃で吹き飛ばされたからにほかならない。強烈な力で殴られると人体は宙に浮くのか、という響にとっての新発見は、激痛の前ではどうでもいいことだった。
「目は覚めましたか?」
セヴァスチャンの冷静な声が、すべてを現実に引き戻していくようだった。冷水を浴びせられたような感覚の中で、響は体を起こした。腹に痛みが疼いている。
セヴァスチャンは、少女の後ろに戻り、傅いていた。
「いってえ……夢じゃなかったのかよ」
「ええ、これは現実です。わたくしも姫様も魔界の住人であり、姫様に至っては魔界の王であらせられます。偶然とはいえ貴方様が姫様を召喚されたとき、魔界は騒然となったものなのですよ」
まともに取り合ったら頭が痛くなるようなことを平然と言い放ってくる男の顔は、やはり冷徹そのものであり、声音も冷ややかだ。
「それも、本当なんだな。ただのコスプレ少女じゃないのか……」
「コスプレとは失礼な! これは由緒正しき魔王の正装なのじゃ!」
突如として再稼働した少女の叫び声に、響は耳を覆った。コスプレに反応したところを見ると、自覚があったのかもしれない。そして気になったのは、魔界にもコスプレはあるのだろうかということだが、どうでもいいことには違いなかった。
「あ、復活した」
「ふふん、あの程度のことで気を落とすわらわではないのじゃ」
胸を張る少女の後ろでは、セヴァスチャンが小さく拍手している。
「いや、見るからにあの程度って次元じゃなかっただろ……」
響は、げんなりとなりながらも告げた。少女が凍りついた瞬間のことを、脳裏に思い浮かべていた。並大抵の衝撃では、ああはならないだろう。
「おぬしは、いちいち小うるさいのう。もう少し寛容にならねば、長生きできぬぞ?」
「結構寛容なつもりなんだがなあ」
コスプレ少女の戯言(だと思っていたもの)に付き合ってあげたのだ。寛容という他ないと思うのだが。
「ま、おぬしがいつ死んでも、またわらわと運命的な再会をすると決まってしまったがのう」
「どういうことだ?」
「先ほどいいましたが、これは魂約――つまり、魂の婚姻を約束するための書類です。魂の婚姻とはすなわち、何度生まれ変わっても必ず巡りあい、添い遂げること。永遠に伴侶であり続けるということにほかなりません」
執事の説明に、響は頭がくらくらした。あまりにも常識外れで、途方も無い話だ。魂の婚姻? 生まれ変わっても添い遂げる? そんなことをいわれて、はいそうですかと納得できるものではなかった。
響は、少女に問いかけた。
「おまえはそれでいいのかよ?」
「おぬしの顔をよくよく見てみれば、中々に男前なのがわかったからのう。そう考えれば、おぬしを永遠の伴侶とするのも悪くはないのじゃ」
少女は、響と目が合うと、慌てて目をそらした。頬がほんのりと色づいているように見える。最初とはまるで異なる反応だった。彼女は、明らかに響を意識していた。
「なんなんだよ……まったく……」
響は、己の不幸を呪いたくなった。
「生まれ変われば、いまのわだかまりもなくなりましょう」
「それは良い考えじゃ。小うるささもなくなるかもしれぬな」
「転生に要する年月を考えても、それはそれでありかと」
「百年や二百年くらいどんとこい、なのじゃ」
セヴァスチャンや少女が平然と恐ろしいことをいってくるのは、ふたりがこの世のものではないことに起因しているのだろうか。ふたりの発言から、人間とは価値観も時間の感覚もまるで違うのがわかる。生まれ変わり。輪廻転生。考えるだけでぞっとしない。
響は、いまを生きてさえいない気がしている。生の実感がないといってもいい。毎日が同じことの繰り返しだ。心をときめかせるような大きな変化はなく、ただ、無為に時が流れていく。退屈でつまらない日常。そんな日々に起こるべくして起きた変化が、これなのかもしれない。
(まったく、馬鹿馬鹿しい)
が、つまらなくはない。むしろ愉快だ。
痛みに疼く腹を撫でながら、響は皮肉に笑った。
頭の中の混乱を整理したくなったのは、この現実を受け入れる覚悟が芽生えつつあったからかもしれない。尋ねる。
「で、結局なにがどうなったんだ? 俺は? 君は? あんたは?」
「まとめますと、姫様と貴方様は魂の婚約者となりました。それだけのことですね」
「それだけじゃよくわかんねえよ」
「つまりじゃな、わらわとおぬしは夫婦になるということじゃ」
そういって顔を真赤にする少女の様子に、響は憮然とした。彼女の態度が見るからにおかしくなっている。彼女の中でなにがあったというのだろう。最初は響を隷属させようとしていたはずなのだが。
「俺まだ十七歳なんだけど」
「魂の結婚に肉体的年齢は関係ありませんよ。無論、精神的年齢も」
「……あんたは、納得できるのか? 俺とこの子の魂の結婚とやら」
「姫様はどうやら貴方様をいたく気に入られているご様子。なにも問題はありません」
もっとも,と彼は付け加えた。
「貴方様が姫様を泣かせるようなことがあれば、そのときは容赦しませんが」
にこりともしない。
強烈な突きを放ってきたセヴァスチャンのことだ。そうなったとき、本当に容赦しないのだろう。それは想像するだけで恐ろしいことではあったが。かといって、約束できるようなものでもない。なにより、勝手な話だ。どこからともなく現れて、契約だの何だのといって、裏切ったら容赦しない――そんな馬鹿げた話があるだろうか。
無論、コスプレ少女の妄言だと判断して署名してしまった自分にも責任がないわけではない。そんなことはわかりきっている。だからこうして黙って聞いているのだ。
床に座り込んだまま黙っていると、少女が歩み寄ってきた。
「のう、響よ」
少女が屈み、響と目線の高さが同じくらいになる。距離が近い。少女の顔がよく見えた。美少女だ。それも類稀な美貌といっていい。透き通った肌に流れるような銀髪、大きな目に浮かぶ金色の虹彩など、現実を超越した美しさがある。ふてくされていた響でさえ、はっと息を呑んでしまうほどだ。
「おぬしは、わらわのことが嫌いか?」
問われて、答えあぐねた。
嫌いだとは言い切れない。まだ知り合ったばかりだ。彼女のことをなにも知らないのに、嫌いだなどとはいえない。それは嘘になる。嘘はつきたくない。本当のことをいいたい。本当の気持ち。いまの気持ち。
目の前の少女は、少しばかり沈んだ顔をしていた。嫌われたくないとでも思っているのだろうか。なぜそこまで思えるのだろう。さっき知り合ったばかりではないか。互いに初対面で、なにも知らない同士じゃないか。気に入ろうが、嫌われようが、どうだっていいはずだろう――思ってもいない言葉が胸中にあふれて、困惑する。そうじゃない。そんなことをいいたいんじゃない。
「俺は」
口を開くと、少女がびくっとした。彼女の瞳の奥で、不安が揺れている。
響は、微笑んだ。
「俺はまだ、君の名前も知らないんだよ」
だから、そこから始めよう――言葉には出していないが、そういったつもりだった。
少女の表情が一気に明るくなった。まるでこちらの心の声が届いたかのようだった。魂の婚約とは、そういうものなのかもしれない。実感はない。実感など、あるはずがない。すべてが虚構染みている。彼女の存在も、この騒動も、なにもかも。だが、現実に少女は目の前にいて、笑顔を浮かべているのだ。
それこそ、天使のような笑顔だと、響は思った。
(魔王なのにな)
「わ、わらわはエレルイン。エレルイン・フォルザアク。エレとでも気軽に呼ぶがよいぞ」
「わたくしはセオドール・ヴァン・スレイク・チャンドラ二世。名前が長ったらしいので、姫様にはセヴァスチャンと呼んでいただいております。お見知り置きを」
「あんたにゃ聞いてねえ」
間髪入れず告げると、エレルインが声を上げて笑った。
そうして、彼と魔王は出逢った。