第十話 猫と魔王・追跡編
朝食を終えると、エレルインにとっては暇な時間ができた。
テーブルの上の食器の片付けこそ手伝ったものの、食器洗いは手伝えなかった。食器洗いは響の仕事で、彼はそれに命をかけているのだと奏が耳打ちしてきたのだ。彼女がそれを信じたのは、なにも義姉のいうことだからではない。確かに、食器洗いのときの響の眼は真剣そのものだったのだ。昨夜もそうだったし、いまもそうだ。まるで食器洗いのプロのような目つきで、食器と格闘していた。
彼女は、そんな彼を背後から応援していたのだが、気が散るといわれたので、仕方なく台所から退散したのだった、もっとも、居間のソファからでも食器を洗う響の姿は見えるので、なんの問題もない。
振り返れば彼がいるのだ。これ以上の幸せもない。
ソファの上で膝を抱え、テレビとかいう物体に流れる映像を見る。朝はニュース番組が多いのは、魔界もこっちも同じらしい。朝っぱらから娯楽番組を垂れ流すよりは余程ましなのかもしれないが、朝から辛気臭いニュースを読み上げられるのも面白いものではない。
エレルインは、朝食を終えて着替えていた。寝間着から、いつもの魔王装束へ。寝間着と同じく黒を基調としたドレスで、亡き父の遺言によれば魔王の正装なのだそうだ。父がこのような格好をしたことはなかったが、それは男と女で違うからだというのが真相だろう。
魔界の花を模した飾りが特徴的な漆黒のドレスは、魔王の正装としてだけでなく、彼女のお気に入りでもあった。胸元の大きなリボンも、ふわりとしたスカートも、彼女の趣味によくあっている。もちろん、一張羅などではない。同じ衣装が何百着とあり、一年の間同じ服を着るということはなかった。見た目は変わらないのだが。
ふと、テレビの横の本棚に目が行く。本棚の中ほどに小奇麗な写真立てが置かれており、遠目からでも黒猫が写っているのがわかった。
エレルインはソファから飛び降りると、とことこと本棚に歩み寄った。写真立てを手に取る。猫は、魔界にも生息しているのだが、それはこの世から輸入されたものが魔界に根付き、繁殖したものだという。遥か昔、使い魔の使役が魔界全土で流行したことがあり、そのとき、使い魔として人気だったのがこの世の動物たちなのだ。猫や犬はもちろんのこと、鼠や梟など、さまざまな動物が魔界に持ち込まれては見せびらかされた。かくして、魔界では異世界産の動物が散見されるようになり、魔界の生態系そのものが変わってしまったという。
エレルインは、写真立ての黒猫の小憎たらしい顔が、一目で気に入った。小さな体の癖に、大きな目は宝石のように輝いていた。どこか不遜で、撮っている相手を小馬鹿にしているような表情をしている。きっと飼い主のことなどどうだっていいのだろう。そういう態度こそが愛猫家にはたまらないというが。
「のう、響よ」
「なんだ?」
「この黒猫はどこにおるのかのう? 昨夜から見ておらぬが」
「ああ……ロキのことか。あいつ、五年前の夏に死んだんだ。生まれながら病弱でね。それでも懸命に生きてた。生きて、生きて、生き抜いたんだ」
「あ……」
響の答えに、エレルインは返す言葉も見当たらなかった。彼は、この黒猫のことを大切にしていたのだろう。言外に親愛の情がこもっていた。だからエレルインはうかつも聞いてしまった自分のことが腹立たしかった。しかし、いまは自分を怒るよりもするべきことがある。写真立てを本棚に戻し、台所に向かう。
流し台の前に立ち、見上げると、響と目が合った。ついついときめきを覚えかけるが、ここはぐっと堪えなければならなかった。
「すまなかったのじゃ」
「なにが?」
「猫のこと、触れるべきではなかったのじゃ……」
「別にいいよ。気にしてないし」
響がさらっと流したので、エレルインはつい叫んでしまう。
「気にせよ!」
「なんでだよ」
「わらわがせっかく謝ったのが台無しではないか」
「それこそ台無しだろ」
響はなにがおかしかったのか、声に出して笑った。エレルインには彼の笑いのツボがわからなかったが、響が嬉しそうならそれでよかったので自分も笑った。
「もう猫を買うたりはせんのか?」
「いつごろからか裏庭に猫が住み着いててな」
響からの初耳情報に、エレルインは目を輝かせた。
「母さんはそいつを構ってると寂しくないんだって。飼うつもりはないんじゃないか」
「いまも裏庭におるのか?」
「どうだろ。覗いてみればわかるんじゃないか?」
「おおっ、それもそうじゃな!」
エレルインは即座に裏庭に向かった。向かうといっても、振り返れば目と鼻の先だ。蒼河家の裏庭は、台所の外にある。エレルインが裏庭の存在を知ったのは昨夜のことで、そのときには猫の姿は見つけていない。夜の闇が、猫の姿を隠していたのかもしれない。
台所の窓から裏庭の全体が見渡せたものの、内からでは猫の姿は確認できなかった。裏庭は剥き出しの地面で、雑草はほとんど生えていない。台所の窓から見て裏庭の右半分は倉庫によって占領されているが、洗濯物を干したりするのには十分な空間があった。三方を塀に囲まれてはいるものの、塀自体はそれほど高くなく、防犯の面で見ると危うさがあった。これでは簡単に突破されるに違いない。とはいえ、蒼河家の家族は皆息災であるところを考えると、この世と魔界の犯罪を比較するべきではないのかもしれない。
「庭に出てもよいか?」
「いいけど、靴履いてけよ」
「わかっておるのじゃ」
響に了解を取り付けると、エレルインはさっそく窓を開けた。朝の空気が流れこんでくるが、寒いというほどのものでもなかった。響にいわれた通り、地面に靴を転送する。ドレスに似合う、漆黒の花の飾りで彩られたブーツだ。最初この家に入り込んだときは靴を履いたままだったのだが、響に注意されて以来、玄関に置いていた。
裏庭に出ると、爽やかな空気がエレルインを包み込んだ。目はとっくに覚めていたが、朝日の眩しさはわずかに残っていた眠気さえも吹き飛ばした。
猫を探して視線を巡らせる――までもなかった。
「お?」
裏庭の家屋側の壁際に、響が言及した猫らしき黒猫がいた。丸まり、まぶたを閉じている。寝ているのだろうか。
エレルインは、そっと猫に歩み寄った。猫の聴覚で捉えられるほどの足音すら立てないし、気配さえ感じさせない。魔王にとってはそれくらい簡単なものだ。目の前まで近寄ると、屈み込んだ。
美しい漆黒の毛並みは、エレルインの趣味に合った。やや肉付きはいいものの、太っているという風でもない。しかし、その丸まった姿にはどこかふてぶてしさがあった。まるで裏庭の支配者のような風格さえある。
ついつい、声に出して尋ねてしまう。
「おぬしは何様なのじゃ?」
黒猫は、ぎょっとしたように跳ね起きた。寝ているようであっても警戒は怠っていなかったはずだ。だれかがすぐ近くにいるとは思いもよらなかったのだろう。大きな緑色の目が、驚きに見開かれている。
(不覚……!)
今度は驚くのはエレルインの番だった。黒猫の思念が言葉となって、頭の中に飛び込んできたのだ。これにはさすがの魔王もびっくりした。思念を伝える猫など、魔界でも聞いたことがない。
「この世界の猫は、みな、おぬしのように話せるのか?」
だとすれば大変なことだが。
黒猫は、エレルインの言葉に目をぱちくりさせた。
(……俺の声が聞こえるのか?)
「聞こえるもなにも、おぬしが伝えてきたのであろう」
(届かないこともある)
「波長が合った、ということじゃな」
黒猫の思念波を受信できたということは、そういうことにほかならない。波長が合わなければ、黒猫の思念を声として認識することはできない。なにも聞こえないか、雑音が聞こえるだけだ。
(波長が合ったところで)
黒猫のふてぶてしいまなざしは、まるでエレルインを値踏みするように輝いたかと思うと、彼は嘆息した。
エレルインは、憤然と口を開いた。
「わらわを馬鹿にしておるな。わらわは魔王ぞ。この庭とは比較しようのない領地を持っておる」
(……くだらん)
猫はそっぽを向くと、エレルインを黙殺するように裏庭の塀に飛び乗った。しなやかな足取りは、多少太っていることさえ感じさせない。
「待たぬか! まだ話は終わっておらぬ!」
声を荒らげると、黒猫は塀の上からこちらを一瞥した。が、なにもいわず、塀の外へと跳んでいく。完全に相手にされていなかった。
「ぐぬぬ……!」
エレルインは拳を握ると、メラメラと怒りの炎を燃え上がらせた。ろくに話も聞かず、あまつさえ魔王を馬鹿にするなど、あってはならぬことだ。捨て置くことはできない。いかに寛容といえど、誇りを汚されて笑ってはいられない。
追いかけるのだ。
「あ、いかんいかん」
握りこぶしが紅蓮の炎に包まれているのを見て、エレルインは慌てた。無意識に魔王の力を使うところだった。いや、力を使うのはいい。いつだって無意識に使っているのだ。ただ、攻撃的な力は、響に嫌われる可能性があった。
エレルインは、拳の炎が消えたのを確認すると、黒猫が越えていった塀に飛び乗った。目を光らせて索敵する。
青空の下に横たわる雑多な街並みは、魔界のそれよりもごみごみしていて、美しい景観とはいえないだろう。立ち並ぶ家屋も画一的で、混沌とした風景とは大きく異なる。狭い路地を、黒猫が駆け抜けていくのを発見する。
「敵影、三時の方角。距離にして五十タール!」
だれとはなしに告げると、彼女は、塀を蹴った。飛ぶ。重力の軛を断ち、空中に浮いたまま移動する。姿勢制御も方向転換も思いのままだ。このまま、追跡すればすぐに追い付くだろう。
黒猫の位置まで空間転移すればいいと考えるのは、浅はかだ。空間転移とは指定した座標に転送する魔法であり、動かない対象を転移座標にするならばまだしも、移動中の対象を転移座標にしたところで、転移した瞬間には別の場所に移動してしまっているだろう。ましてや、あの黒猫はかなり素早い。蒼河家の裏庭から、瞬く間に五十タールの距離を移動していた。転移座標を指定している間に逃げられるのが目に見えている。
それに、こうやって追跡するほうが何倍も面白いし、エレルインは空間転移という手段があることを多々忘れるのだ。
「これが響の住む街なのじゃな」
地上十タールの高度を移動していると、見知らぬ街の風景が遠くまで見渡せた。魔界との差異は決して大きなものではない。もちろん、建物の形状や材質などは違うのだが、本質的には変わらないのだ。数多のひとが生き、数多の意思が錯綜している。あまねく感情が渦を巻き、ときにはすれ違い、ときにはぶつかって、さらなる感情へと変化させていく。
そして、朝日を浴びた街並みの美しさは、どんな世界のどんな都市でも変わらないに違いない。
(世は不思議で、美しいもの……)
父の言葉を思い出して、エレルインは茫然とした。
本当に不思議だった。
不思議な巡り合わせによって、彼女は、この見知らぬ世界を訪れ、響という魂の伴侶と出逢った。魂約こそうっかりだったが、交わした約束は一瞬で真実になった。
いまでも、その瞬間のことを覚えている。
魔王は、生まれて初めて、恋に落ちたのだ。
「恋とはかくも甘美なものであったか……」
込み上げてくる熱量に負けないよう気を引き締めたものの、表情が弛んでしかたがなかった。魔界の王侯の中で、恋愛していなければ死んでしまうと公言して憚らないものがいるが、その理由がやっとわかった気がする。いまのエレルインは、響がいなければ死んでしまうかもしれない。
「おっと、忘れておった」
エレルインは、自分が空中に浮いてなにをしていたのかを思い出して苦笑した。これでは、恋愛体質の彼女のことを馬鹿にできない。
空中に浮いたまま、周囲を見渡す。
そして、愕然とする。
彼女は、黒猫を見失っていた。