第一話 彼と魔王・接触編
五月の頭、世間が黄金週間だの連休だのと浮かれているちょうどそのころ、蒼河響は、難題に直面していた。
日々の疲れを癒すため、連休になんの予定も立てず、家の中でぼーっと過ごしていたのが運の尽きはじめだったのだろう。
父の書斎の掃除をよろしく、と、姉が母と出かける直前に言い付けてきたのだ。この家庭のヒエラルキーにおいて最下位に位置する響には、反抗する余地などあろうはずもない。もっとも、反論したところで拳が飛んでくるわけではない。飛んでくることもないではないが、おかずが一品少なくなっていたり、風呂の湯が抜かれていたりと、地味ながらも痛い嫌がらせをされることのほうが多かった。
仕方なしに休日返上で掃除に取りかかろうと、父の書斎に飛び込んだのも束の間、うず高く積み上げられた本の山を目の当たりにしたのだ。
響の父は、三ヶ月に一日二日しか帰ってこないような生活を送っており、そのたびにどこで仕入れたのかわからない古書を大量に持って帰ってくるのだ。主のいない書斎に積み上げられた本の多くが、そういった経緯を辿っている。
壁一面の本棚だけでは収まりきらない量の古書が、埃を被ったまま放置されている。日本語の本もあれば、外国語の書物も数えきれない。中にはなんらかの記号にしか見えない文字で書かれたものもある。どれも手をつけられた様子がないところを見ると、父は、買っただけで満足してしまうタイプの人間なのかもしれない。もっとも、家にいる時間が極めて短いだけという方が正しかった。その短い時間を夫婦水入らずに過ごしたがるものだから、書斎が放置されっぱなしなのもうなずけるというものだ。
嘆息してもなにも変わらない。埃がわずかに舞い上がるだけで、本たちが勝手に整理整頓されるわけもない。それでもため息をつかざるを得ないのは、姉と母が帰ってくるまでにある程度の目処を付けておかないと、どやされるに決まっているからだ。姉に頭が上がらないのは、不在の父と頼りない母に変わって、響の姉が家庭を仕切っていたからに違いない。
こんな家庭に生まれた不運を呪う暇もなく、響は、手近に置かれていた本を手に取った。小奇麗に装丁された分厚い本も、埃を被っては台無しだろうに、と思わないでもない。表面の埃を軽く払うと、どこの国の言葉ともわからぬ文字が見えてくる。なんと読むのかなどわかるはずもない。
(こんなもの、どうするつもりだったんだ?)
疑問と、ほんの少しの好奇心が、響に本のページを捲らせた。意味不明な文字の羅列は、機械で印刷されたようには見えない。といって、手書きというわけでもない。複雑怪奇な文字列を目で追っているうちにページが凄い勢いでめくれていった。突風が吹き抜けたのだ。舞い上がった埃を吸い込み、響は酷くむせた。
「げほっ、ごほっ」
本をその場に置き捨てると、彼は一旦書斎から離脱した。風に蹂躙された室内には埃が立ち込め、とてもじゃないが整理整頓など出来る状態ではなかった。せめて、マスクかなにかで口元を覆う必要があるだろう。
書斎のドアを閉じ、息を吐く。風は既に止んでいたが、どこから入ってきたのか。埃が舞わないように窓は閉めていたはずだが、見落としが有ったのかもしれない。
(まず掃除機をかけるべきだったな……)
反省する。掃除機は、一応書斎の手前まで運んできてあったのだ。マスクも用意しておくべきだっただろう。それはいますぐにでも対処するべきで、響はしぶしぶ書斎の前から離れようとした。
そのとき、インターホンが鳴って、来客を知らせてきた。来客の思い当たりならないわけでもない。響の友人かもしれないし、姉や母を訪ねてきたのかもしれない。
幸いというべきか、玄関は父の書斎の目と鼻の先にある。衣服に付着した埃を軽く払い落とし、玄関へ。サンダルに足を突っ込んだ勢いのまま、ドアのロックを外した。
なんのためらいもなしにドアを押し開けると、玄関先には見知らぬ少女がひとり、突っ立っていた。
「あ……」
声に詰まったのは、その少女が一言で言えば美少女だったからだ。それもただの美少女ではない。この世のものとは思えない美しさがあった。腰まで届く銀髪に黄金色の瞳、透けるような白い肌、朱を差したような唇、どれをとっても幻想的な輝きがあったのだ。そして、ゴシックロリータと思しき黒ずくめの衣装に身を包んでいるのだが、それさえも言い知れぬ気品があり、響が気圧されるのも無理はなかった。もっとも、コスプレ少女としか思えないのも事実だが。
銀髪は、かつらか何かに違いない。
「どちら様……ですか?」
やっと訊ねることが出来たものの、声が上ずっていたのは失敗だったかもしれない。すると、少女が、響を一瞥した。こちらを見る金色の瞳は、まるで宝石のようだった。
「どちら様とはなにごとじゃ! わらわを呼んだのはおぬしであろう?」
「呼んだって、俺はだれも呼んでない、ですよ」
(わ、わらわ……?)
響は少女の口調に突っ込みを入れたい衝動に駆られたが、辛くも我慢した。無理に古風なしゃべり方をしている感が満載だったが、乗ってはいけない。それは罠だ。乗ったが最後、馬鹿げたことになりかねない。防衛本能が、響に気を引き締めさせた。しかし、目の前の少女は、憤然と噛み付いてくる。
「なにをいうか! わらわは呼ばれて飛び出てばばばばーんと、ここに来たのじゃ。嘘をついても無駄なのじゃ!」
「嘘をつく理由がないよ」
「むむ!」
「そういうことで、お引取りください」
「ま、まだ話は終わって――」
ばたん、とドアを閉めると、声は聞こえなくなった。すぐに諦めたらしい。響はため息をつくと、頭を振った。この世の中にはいろいろな人がいるものだと、改めて思わざるをえない。コスプレしているうちにその気になってしまったのだろうが、だとしてももう少し他人に迷惑をかけないようにしてもらいたいものだ。
(可愛かったけどな)
だからといって関わり合いになりたい種類の人物ではない。ドアのロックを確認して、一息つく。ふたたびインターホンが鳴るようなことはなかった。さすがに諦めたのだろう。これで掃除に専念できる――響が安堵したのも束の間だった。
「ふむふむ……これじゃな。どうやってわらわを召喚したのかと思っていたが、これならばわからなくもないのう」
「へ!?」
書斎から聞こえてきた声に、響は慄然とした。顔面から血の気が引いていくのがわかる。即座に書斎に駆け戻ると、さっきの少女が、いた。
「ど、どうやって入ってきたんだ!?」
「わらわは魔王。空間転移なぞ児戯に等しいのじゃ」
少女が不敵に笑う。
「魔王……空間転移……って」
またアニメやゲームにでも毒されたのだろうと思ったものの、書斎の窓は閉まったままだったし、積もった埃から少女が歩いた形跡も見当たらない。彼女が外から窓を開けて侵入してきたのなら、それこそ埃が舞い踊り、床に足跡がついているはずだ。ではいったい、彼女はどうやって入ってきたというのだろう。もちろん、響は彼女の言い分は考慮の外においている。
魔王だの空間転移だの、そんなものが現実にあるはずがないのだ。
「それよりこれじゃ。おぬし、この召喚書を使ったのであろう?」
そういって彼女が提示してきたのは、響が何の気なしに開いた本だった。意味不明な文字が踊る様は忘れようがない。
響は、その本を見つめながら頭を働かせた。空間転移だの魔王だの、そんなことを平然といってくる少女だ。下手に刺激すればなにを仕出かすかわかったものではない。彼女の妄言に付き合ってあげれば、そのうち満足して帰ってくれるかもしれない。安易な結論だが、ほかにいい考えが思い浮かぶわけもなかった。
「召喚書?」
「使ったのかどうかと聞いておるのじゃ」
「開いてはみたけど、なにが書いてるかさっぱりで、使うもなにも……」
「ふうむ……偶然使ってしまったというわけじゃな」
少女は、召喚書とやらをぱらぱらと捲りながら納得したような顔をした。響は、そういう設定にしたのかと思った。小難しそうな本を探し出すのに苦労をしない部屋だったのが、彼女にとって幸運だったのだ。
「なんにせよ、おぬしは運が良かったのう。運が悪ければ魔界の生物に食い殺されていたかもしれぬ」
「は?」
つい生返事をしてしまったが、彼女には聞こえなかったようだ。ほっとする。空想少女の激昂を買いたくはない。
しかし、練りに練ったのであろう設定を語る少女の目に迷いは見えない。むしろ得意気な顔をしているのだが、憎らしさは微塵もなかった。召喚書とやらの、とあるページを見せつけてくる。
「ここに書いてあるのは、魔界から無作為に召喚する魔法なのじゃ。わらわのような魔界の超大物が代償なしで召喚できたのもそれが理由であろう」
「は、はあ」
「まだ信じておらぬな?」
彼女は頬をふくらませたが、すぐに思い直したらしい。なぜか鷹揚に頷いてくる。
「まあ、よいよい。魔王は寛大であるべきと父上も仰せであられた。わらわも広い心でおぬしを許そう」
ただし、と少女は付け加えた。
「これにおぬしの姓名を記してくれたら、の話じゃ」
そういって彼女が懐から取り出したのは一枚の紙だった。
響は、怪しい契約書のたぐいかと勘ぐったものの、よく見なくても意味不明な文字列が並んでいるだけの紙切れだった。彼女が召喚書と呼んだ本に記されていた文字ともまるで異なり、ただの落書きにしか思えない文字の羅列。やはり彼女はただのコスプレ少女で、魔王とやらになりきっているのだ。書斎に入ってきたのも、玄関のドアを閉める寸前にすり抜けてきたに違いない。安堵と馬鹿馬鹿しさが同時に押し寄せてくる。
「あー、わかったわかった」
書いてしまえば、この少女から開放されるのだ。そう思えば、気が楽になった。紙を受け取り、ペンを探す。幸い、書斎の机にはペン立てがあり、無数のペンが収まっている。埃が立つのが厄介だが、それも我慢するしかない。空想少女の茶番が終われば、なんとでもなることだ。
「ここに、じゃぞ」
少女が示した空白部分に自分の名前を書き入れる。蒼河響。
「なんと読むのじゃ?」
少女が尋ねてくる。中学生くらいの少女だ。読めなくはないはずなのだが、なりきっている以上、読むわけにもいかないのかもしれない。そういうところがいじらしいと思ってしまった自分を、心の中で叱りつける。
「そうがひびき」
「そうがひびき。そうがひびき、か。覚えたのじゃ!」
「わかってると思うけど、響が名前だからな」
「ふふふ……」
なにがおかしいのか、少女は名前の入った紙切れを手にして笑い声を上げ始めた。響きは、ついに気でも狂ったかと思い、少しばかり後ろに下がった。空想少女の妄想劇に付き合ったのがまずかったのかもしれない、とも考えた。調子に乗らせてしまったのだ。
「くくく……はーっはっはっ!」
腰に手を当て、ふんぞり返って高笑いする少女の姿は、滑稽を通り越して可愛らしくはあった。
「これは魂の隷属の契約書だったのじゃ! まんまと騙されたのう!」
勝ち誇る少女を見下ろしながら、響はため息を浮かべた。げんなりする。コスプレ少女の妄想に付き合った結果がこれなのだ。どうしようもない徒労感が押し寄せてくるが、まだ我慢だ。もう少し乗ってあげれば、飽きて帰るだろう。そう考えれば少し寂しい気がしないでもないが。
少女が、軽く手を叩いた。
「セヴァスチャン!」
「ここに」
「おわっ!?」
響が驚いたのは、少女の真後ろに突如として男が現れたからだ。白髪をオールバックにした長身痩躯の男だ。白手袋に黒のスーツという格好で、執事のように見える。いや、執事のコスプレというべきか。
響は、自分の中の常識が音を立てて崩れていくのを認めた。
男は、なにもない空間にひょっこりと現れたのだ。それこそ魔法のようにだ。隠れる空間などない。少女の影に隠れていたわけでもあるまい。隠れるには少女はあまりに小さすぎたし、男は大きすぎた。空間転移――少女の言葉が脳裏を過った。
「これを見よ、第一の課題を成し遂げたのじゃ」
「それはそれは……」
うやうやしく頭を下げる男に対し、少女は自信たっぷりといった態度を崩さなかった。勝利を確信しているのだろう。なにに対しての勝利かは、響にはわかるはずもないが。
紙切れを受け取った男は、軽く目を通して動きを止めた。
「姫様、これは?」
「魂の契約書じゃ」
「確かに魂の契約書ではあるのですが、これは魂約……魂の婚姻を約束するものですね」
「なんじゃと?」
少女が、怪訝な顔をした。それは響も同じだった。しかし、その意味するところは違うだろう。響には、男がいっていることが理解できなかった。
白髪の執事は、能面のような顔に変化をもたらすことなく続ける。
「つまり、ここに署名された方は、姫様の魂の伴侶ということになります。永遠の伴侶、ということですね」
「ふぇ!?」
彼女は、素っ頓狂な声を上げると、凍りついたように動かなくなった。