なんて、世界は2
1.
春の訪れ、それは世界が新たな生命の息吹に彩られ始める季節。
寒さと北風をもたらす冬将軍と、冷たさと雪をもたらす雪の女王が少しの間眠りについた頃。入れ違いに冬の眠りから目覚めた女神は、春の園から地上へ舞い降りる。地上に春の祝福をもたらし、命の種を蒔くために。
―――今回で、何回目の春を迎えたのだろうか。
リースロットは花々が咲き誇る花園でひとり空を見上げていた。
リースロットがいるこの花園は、春の園といい、かなりの広さを誇る。かつて彼女が人であった頃、彼女は一般階級の民だった。その当時住んでいた住まいが、何十軒も立ってしまうといえばわかるだろうか。とにかくただっぴろいのである、かなり無駄に。
この花園は薔薇の木で囲いが作られており、囲いの向こうは見ることができない。何しろ薔薇の木の囲いはやたら高いから、向こう側が見えないのだ。
けれども、リースロットは経験から知っている。薔薇の向こう側は、下界へと繋がっているのだ。そのつどそのつどにより、繋がる先は異なる。けれどもだいたい九割方が、春の女神を奉じる神殿ないし祠である。必ず春の女神―――リースロットを奉じる場所に繋がるのである。
そして残りの一割はといえば、
「……より女神に向いた魂が見つかれば、その魂のもとへ通じるのよね」
この世界には、たくさんの神々が存在する。季節の四季神をはじめ、川や大地、森といった自然に宿る神々、そして竈や掃除といった生活に関する神々までと、その数は多岐にわたる。
なぜ、こんなに神々が存在するか。人の頃に感じなかった疑問を、リースロットは最初の頃に何度も感じたものだ。この答えは実に簡単で、すぐに見つかった。
神々は、世界を維持するために存在する。生命が生活を営むために必要なもの―――水分摂取や食事、睡眠に排泄といった行動を無意識にとるように、世界は世界を維持するために神々を必要とする。
そして神々は―――世界の意思により、代替わりをする。この代替わりは、いつとは定められていない。世界が決めるからだ。
この世界は、意思をもつ。意思といっても、感情をもつ人格はない。動植物がよりよく環境に適して生きていくために、無駄を省き進化していく。そうでないと生命のサイクルに残れないからだ。適しなかった個体や種に待つのは、ただ滅びしかない。
世界も、世界を維持するために変化するのだ―――よりよく世界を維持していくために、世界は神々を用いる。維持していく過程で、必ず維持していくための調整が入る。
リースロットは、その調整の被害者だ。前任者の春の女神は調整によりはずされ、代わりにリースロットが据えられた。
リースロットは、今でも覚えている。
『あなたが、選ばれました』
あの時、春の女神を奉じる祠の前で。
『―――こんな時になんて……可哀想だけれど、ごめんなさい。わたくしたちに拒否は不可能なの』
あの時かたく閉じられた祠の戸がいきなり内側から開き、リースロットの前で、暖かい白い光と共に春の女神が降臨した。女神は悲しい顔で、けれどもどこか安堵した顔でリースロットに告げたのだ。
あの時、すべての時が止まっていた。
リースロットの隣にいる彼も、動きを止めていた。リースロットに熱い眼差しを向けたまま、動きを止めていた。
『あなたが、次代の春の女神に選ばれました、リースロット・アーロス』
今思い返しても、リースロットは思うことは何一つ変わらない。
―――あぁ、なんて、世界は残酷なんだろう。
とこしえの誓いを交わしたその瞬間に、皆の記憶から消してしまうなんて。
リースロットが確かに世界に存在したということを消してしまうなんて。
―――あぁ、なんて、世界は残酷なんだろう。
世界はリースロットから、すべてを奪ったのだから。世界は、奪っただけではすまずに、リースロットに女神の役を割り当てたのだから。とこしえの誓いを奪われたリースロットに。
誰がいったのだろう。
春の女神の祠の前で、とこしえの誓いをすれば……一生幸せになれると。実際には、女神が直々に出向いて祝福する姿は、される側からは見られないのに。
誰がいったのだろう、女神が祝福するなんて。
リースロットは、その誰かが憎くてしかたがなかった。
けれども、リースロットは割り当てられた役をこなすために、今も下界へと降りる。
薔薇の垣根の一部が今も、自ら動いて空間を―――あちらとこちらをつなぐ扉をつくる。
「恋なんて」
リースロットは、塞ぎきれない気持ちから気をそらすために、首を激しく横に振る。
「恋なんて―――」
あぁ、なんて、世界は残酷なんだろう。
今も向こうに、祝福しなくてはならない恋人たちが待っている。
祝福されるべき幸せを奪った世界から、他の恋人たちを祝福させられるのだから。
リースロットは、まだまだ女神にはなりきれないだろう。
女神になり幾年も幾年も巡って、気の遠くなるような時間を過ごさないと、きっとこの気持ちは薄まらないに違いないのだから。
きっと、そのときは。リースロットは、疲れはててしまい、以前のリースロットではなくなるのだろう。
きっと、それまでリースロットはひとりで戦わなければならないのだろう、この―――蓋をして逃げた気持ちと向き合って。
2.
世界には四季がある。春の女神、夏の女神、秋の女神、冬の女神がいる。
彼女たちには、彼女たちを奉じる神殿や、その末端の祠が各地に点在する。
青年ディートルが住む港町にも、もちろん祠がある。
白く染色された板を用いて建てられた、子供の背丈ほどの祠。春の間に、将来を誓う恋人たちが祠を訪れ、もし祠が開き、周囲に虹色の花びらが舞い散れば―――女神が祝福した合図だという。
いつから伝えられているかはわからない、けれども昔から伝わる習慣。
その祠の前に、ディートルはいた。季節は春を迎えたばかり、祠には恋人たちが集う頃―――ただしそれは明るい時分のみ。いまはあたりは真っ暗、闇に包まれる時刻。人の子は眠りにつく時刻。あたりは月と星々の光に照らされ、ディートルの色素の薄い髪はその光にきらきらと輝いていた。きらきらと輝くのは、もうひとつ。
「……返してください」
ディートルは、泣いていた。きらきらと輝くのは、彼の髪と……頬を伝う涙。
「俺は、何を喪ったかはっきりと覚えていない」
流れ落ちる涙を意に介さずに、淡々とディートルは語る。その涙を流す感情のままに語る。
語る先には何があるのか、彼にはよくわかってはいない。わからないけれど、彼は感情のままに語る。
「俺は、この場所で……何かを奪われたんだ」
彼にわかるのは、ひとつ、ふたつ。ひとつ、祠の前を通ると、無償に胸が苦しくなる。ふたつ、過ぎる記憶に涙が流れる……それは奪われた記憶。“大切な何かを、この場所で奪われた”記憶。思い当たるものはないはずなのに、なぜだか思い当たってしまう記憶。
「だから、返してください」
だから、彼は夜にこの場所で願う、懇願する。
彼は祠と月を交互に見る、それを繰り返す。
月は―――願いを叶えてくれるのだという。流す涙が多い願いを聞き届けるのだという。
誰かがいっていた、そんな昔話。誰かは思い出せない、けれども確かにある記憶。
その誰かは、きっと―――大切な誰か。祠の前を通ると思い出す、奪われた記憶につながるような気がする、誰か。
だから、彼は何度も何度も繰り返しこの場所で、泣き、乞い願う。
根拠の無い昔話にすがるほどに、強く、強く。
そして今夜も、泣き、懇願する。
そして今夜は、月が満ちる日。
そして今夜は、満ち月―――月の女神の目が覚める日。
3.
世界にはたくさんの神がいる。神々の存在する理由は、世界の維持。
世界は、最初から神を用意したわけではない。最初は試行錯誤だった。神の代わりに、たくさんの存在を創った。あるとき、世界は一柱の神をモデルに、数多の神々を創った。
モデルになった一柱の神は、月の女神。世界と離れた場所にいる、世界―――大地を照らす女神。モデルになったかの女神を、人々は神話で始めの神と呼ぶ。
対し、人々は神話で、世界に創られし神々を、維持の神々と呼ぶ。
だから、いつしかいわれるようになったのだろう。
月の女神は、最後の味方。月の女神は、流す涙の数と引き換えに―――想う強さと引き換えに、願いを叶えてくれるのだと。月の女神は、世界が嫌いだから。
「また」
月の女神は、世界が嫌い。何故か? それは、何となく。あえていえば、自分勝手。
「また、被害が」
微睡みから目覚めた月の女神は、階下を見やる。
彼女の眠る寝台はふわふわの雲、それを少し腕で混ぜてやれば階下へつながる穴が開く。階下は、人の世だ。あの嫌いな世界が、大地が勝手気ままに創り上げていく場所。
月の女神は、世界が嫌い。
だから、世界が嫌がることもする。
だから、満月の間に―――起きている間に、流した涙の数に比例する強い願いを持った者の願いを叶える。
世界は気まぐれ。でも月の女神は気まぐれではない。
だから、今日も願いを叶える。
理不尽に引き裂かれた仲を、このままにはさせない。
4.
「……え?」
リースロットは、いつものように地上へと降臨した。けれども、降臨したといえど―――祠などの外に降臨するのはリースロットの力だけで、リースロット本体は祠の中で。例え、その祠が小さくとも、大きい神殿だろうとも、女神は内部の控えの部屋にいて、外にはでない。なのに、これは?
「……外に?」
そこは、久々の外だった。女神になってから、一度も降り立っていなかった外だった。
女神になってから―――幾年も、幾年も過ぎた。人として生きた頃より、女神として生きた時の方がすでに長い。人の生など、すでにはるかに凌いでしまう時を過ごしてきた。
「……ここは」
目の前に広がるのは、夜の海。夜の海を臨める岬。ここは海辺に近い小さな漁師町であり、リースロットが生を受け、育った場所。この町には神殿はない。それほど大きな町ではなく、女神をまつる祠も、この岬にしかなくて。
「……何で」
リースロットは呟いた。それは、外に出てしまったことに対してでは、ない。
「ディートルっ……?!」
震える声で、紡いだ言葉は、かつて愛した人の名。
かつて、人としての最後の日。この祠の前でとこしえの誓いをした相手。
「ディートル……」
金のような、銀のような色素の薄い髪は月光にきらきらと輝いていた。すらっとたつ彼は、やはりひょろひょろと背が高くて。
リースロットの記憶の中の彼がそこにいた。こちらに背を向けて立っているけれど、確かに彼だ。
「………っ」
会いたかった。会いたかった。
会いたくて、けれど諦めてしまった相手がそこにいた。人としての生を終えるくらいの日々を女神として過ごし、すでに諦めた相手が。
リースロットは、彼に抱きつきたくてたまらなかった。けれども、けれども。
もう一歩が踏み出せない。あと一歩で彼のそばへ行けるのに、あと一歩が踏み出せない。
だって、だって。
(何で、生きて、いるの)
あれから、百年は過ぎた。幾百年、過ぎた。
あの背は確かに彼だ。彼に似た誰かではない、確かに彼だ。リースロットにはわかる、確かに彼だ。
けれども、けれども。
どうして、人なら死して、大地に―――世界に還る時間がたっているのに。
『「『それは、彼が還るのを拒否したから』」』
―――世界の時が、止まった。風に揺れる木々も、波も、すべて動きを止めて。すべてが灰色一色に染まる。
リースロットはゆっくり振り向いた。リースロットは、背後にいる声の主をにらむ。
『「『おお、怖い』」』
それは、子供の声だった。それは、大人の声だった。それは、老人の声だった。それは、すべての声がひとつに響く声だった。
子供の、大人の、老人の声が重なる声が、大袈裟に言葉を紡ぐ。大袈裟だけれども、それは感情のこもらない棒読みで。まるで無機質な声で。
「……世界、か」
海の向こうにたつ蜃気楼のように、揺れて漂い、輪郭がはっきりしない蒸気のような人影。ゆらゆらと、ほのかに点滅する光を放つそれこそが、世界の具現したモノ。
気まぐれに、勝手気ままに、リースロットを女神にした存在。
「何の、用」
リースロットは後ずさる。ぎろ、と睨む。
「「『あれは、おまえがお前でなくなった後、毎晩毎晩ここを訪れた』」」
くすくす、とわざと笑う。棒読みで笑う。相手を嘲笑し、見下すそれだ。
『「『我を、馬鹿にすることに同じ。だから、落としてやった』」』
人の生から、落とした。それは、人ではなくなることで。
「貴様っ……!!」
リースロットは怒りが一気に怒髪天の域までたどり着いたことを感じながら、世界をにらむ。
「人の幸せを、踏みにじるだけならず……!!」
ぎり、と歯をならす。血走る眼に力が入る。
「はい、そこまで」
それは突然だった。
ふわりと、誰かがリースロットを後ろから抱き締める。リースロットの怒りをおさえるように、しずめるように、優しく。
「『『月の、か』』」
世界が初めて、感情を露にした。それは、嫌悪、苛立ち、怒り。
「世界よ、やり過ぎ」
リースロットは、ゆっくりと声の主にかばわれた。月光の光に輝く白銀の髪、白銀のドレスを身に付けた華奢な背中。
「あなた、は」
リースロットは、いつの間にか緊張していた。
目の前の女性から、言葉にできない威圧感、存在感を感じるから。
そして、彼女が現れたとたんに、あたりの時が戻った。
「あの子は、たくさんの涙を流した」
女性は―――月の女神は歌う。
「たくさん、たくさんの想い。強い、強い想いの願いを乞うた」
だから、と。
だから、と。
「願いを叶えに来たの。世界よ、あなたに邪魔はさせない」
ぱちん、月の女神はと指をならす。
「あなたたちに、とこしえの春を」
―――その日、奇跡が起こる。
満ち月の夜、かつて引き裂かれた恋人たちが再び結ばれた。
もうすでに人には戻れないけれど。
ふたりを引き裂いた世界に、復讐はできないけれど。世界は、この世界そのものだから。この世界そのものは、壊せないから。
けれども、ふたりは幸せを。けれども、ふたりを幸せを築くため、世界から離れる。
世界―――大地から離れ、月の女神のもとへ。
ふたりは、もう二度と離れないと誓う。
女神のもとで、ふたりはとこしえの誓いをかわす。
もう、離れはしない。もう、二度と離れはしない―――