忘却の大妃
「何故わたくしがこの場に立たなければならないのでしょうか」
一歩歩くごとにギシギシと不愉快な音を奏でる粗末な造りの吹きさらしの場所で、何時着替えたか覚えていないほど着続けて薄汚れたドレスをまといながらも背筋を伸ばして真っ直ぐに立つのは、この国の栄華を極めさせた王の妃であった女だった。
彼女の声は伸ばされた背筋に不似合いなほどか細く、真横にいる男にしか聞き取れなかっただろう。
その時、一陣の風が彼女の横を通り過ぎた。
粗末なドレスは激しい音を捲し立てながらひらめき、以前は手入れをされて艶めいていた黄金色の髪は無残にも空気を含んで彼女の青白い顔に鞭のように打ちつけた。
「わたくしは一国を背負う女性だというのに、何故このような辱めを受けねばならないというのでしょう」
風の音は激しく、彼女の消え入る声は誰にも届かない。
大輪の薔薇の花弁のようだと讃えられた唇は見る影もなく、ただ小さな声に合わせて上下する。
それを見咎めたのは最後の世話を任せられた男で、縄を持つ手で彼女の背中に回された腕を小突いた。
後ろ手に縛られた彼女の細い腕の荒縄がぎしりと軋み、無表情に前を見据えていた彼女に色を刺した。
広場の歓声は、その男の所業に不服を申し立てるように怒号に変わり、彼女は唇の端を少し持ち上げた。
彼女の耳元でざしゅっと不愉快な音が響くと、目の前に風に乗った黄金色の糸が広場に舞って落ちていく。長く連なる黄金色の糸は、まるで広場という池に泳ぐ鯉のようだと彼女は思った。
怒号はさらに大きくなり、彼女の耳朶に触れるころには歓喜の声となって、彼女は己が栄光に皆がひれ伏さんとしていると喜びに震えた。
「ああ、あるべき姿に落ち着いたのです。わたくしこそがこの国を憂いてこの国をまっとうと導く標。さあ、国民たちよ。わたくしにひれ伏しなさい。わたくしを崇めなさい。わたくしを、」
がくんと体が崩れたのは、横の男が怒りに震える手で彼女の体を押したからだった。
広場の怒号はこれ以上ないほどに大きく膨れ上がり、それに合わせるようにラッパのつんざく音と腹に響く太鼓の音が鳴り始めた。
彼女は満足げに何度も頷いて笑っている。
その瞳に映るのは、現実とはかけ離れた、彼女を祝福する国民たちの姿だった。
ラッパは祝福の音、響く太鼓は幸福に酔いしれる心臓の音。
すり替えられた現実は、彼女の最後に幸福を与えた。
一人の男が罪状を読み上げる。
我が国の大妃でありながら譲り渡すべき権力にしがみつき、家臣に猜疑心を植え付けお互いに争わせ、女皇を孤立させ狂わし、女皇太子になりうるすべての血族を毒殺、もしくは毒により廃人としたこと、そして指先ひとつで気に入らないものをすべて殺してきた罪のすべてを。
「そんなひどい女がいるとは、わたくしの力をもってしても見抜けずにいたということはどれほど周到な女なのでしょう。わたくしの前に今すぐ連れてくるのです。この手で八つ裂きにしてあげましょうほどに」
しんとなった広場に、さざ波のように嗤い声が広がっていく。
誰のことだと―――
私の子を殺しておきながら。
―――みろあの姿。ああなってもまだ自分が大妃のつもりなんだぜ。
殺せ。
殺せ、殺せ、殺せ――――
嗤いがそのまま三文字の怒号に取って代わるまでに時間はかからなかった。
大妃であった彼女は、悠然と微笑み、そしてまるでそこが城のバルコニーのようにくるりと後ろを向いて横にいる男に声をかけた。
「さあ、案内なさい。これからこの国にはわたくしが必要なのですから、わたくしにふさわしい場所に案内するのです」
男は呆けもののように彼女を見た。
さあと促す彼女のなんと美しいことよ!
だがそれも一瞬。
彼女はもとの青白く薄汚れた、ただの囚人の女となって、男が導くその先に体を横たえた。
がちりがちりと鉄の擦れる音は彼女に恐怖を与えなかった。
それはまるで綺羅綺羅しく輝く宝石をその身にひとつづつつける喜びにも似ていた。
革のベルトで体を固定しても、彼女は暴れるそぶりもなかった。
それはまるで美しいドレスを着るためのコルセットでも纏うように彼女は耐えた。
―――――そうして
金属の歯が滑り落ちる音は、彼女に至上の笑みを与えた。