かぐつち
昔々、山奥のとある場所。
たたらの煙がそこら中から立ち昇る刀鍛冶の村。
村を囲む山々は上質な鉄の産地として知られ、その村で鍛えられた刀は神を宿したかのように美しく、向かう全てを切り裂いた。
そんな村を見下ろす裏山の参道に、古ぼけた祠が1つ。
祠自体は苔だらけの、ひどく風化したさざれ石だが、それを囲む檜の屋根と壁は幾分新しい。
「ふあぁぁ~~・・・」
カビの生えかけた屋根の下、1人の男児が大きな欠伸をする。
カグツチはいつもの退屈な朝日に目を覚ました。
この者、主神の息子の一人でありながら、天上の国で横暴の限りを尽くしていた。
そのあまりの素行の悪さ故、天照す神の命により人の世に堕とされ、反省している最中なのである。
天上の国で猛威を振るった剛腕も神通力も、そして禁じられた火の力も取り上げられ、不老不死の肉体をもつ非力な童子としての生を与えられた。
“千年の人帰り”
それは全てを奪われたカグツチにとって、耐えがたい痛みと発狂すら許されぬ暗闇であった。
が、それも今や昔の話。
今年でようやく千年目。
もう少し眠れば迎えが勝手に来る。
力も取り上げられた訳ではなく、この祠によって抑えられていただけに過ぎず、もうほとんどが戻っていた。
人の世に堕とされたときは、誰からも腫れもの扱いされるあの鬱屈とした世界からおさらばできるとせいせいしたものだが、人の世は思いのほか苦痛だった。
神の身では人の目には映らず、声も届かず。
妖の類を脅してもまともな供物ひとつ差し出されず。
縛りでこの祠を離れることもできず。
年月のほとんどを寝て過ごしていた。
「あのアマ、父上の分身とはいえ、ただではすまさんぞ・・・」
寝起きの頭ではあったが、心は復讐の炎に燃えていた。
最高神に歯向かった者の末路はどれも悲惨だ。
だがそれは、自身の怒りを収める理由にはならなかった。
「ほへ? 誰かそこにおるんか?」
!?
炎は突然の来訪者によって吹き消された。
祠の前を通る参道。
その荒れた階段の下から、1人の童女が顔をのぞかせていた。
な、なんだこいつ・・・。
俺の声を聞いたのか?
いや、そんなはずはない。
人間ごときが、俺の声を聞くはずはない。
狐が化けているのか?
だが妖気を感じない。
一体、なんなんだ・・・?
人の世に堕ち、数年で諦めた他者との交流。
とうの昔に捨てたはずの感情が、動き始めた。
「ん~? やっぱり居るでね~か~。なに黙ってさいるべ?」
紺色の服の童女は、ひょいひょいと軽い足取りで祠の前に現れた。
やはり、俺が見えている。
数百年ぶりの緊張が走る。
この小童が何者かは分からない。
だが九百と数十年ぶりに叶う、他者との邂逅。
最期の年に、地獄の退屈を紛らわせる瞬間が来るとはな。
まったく、これも何かの罰か・・・。
「のう小童、俺の声が聞こえるんか?」
「んん? ああ、もちろんじゃ。しっかしあたいを小童呼ばわりって、あんたも同い年くらいじゃろうて」
やけに態度がでかい。
しかし無理もない。
俺も今の姿は、一回りもしていない小僧だ。
「あっはっは。お前と一緒にするでない。見てくれはこんなだが、もう何十年と生きてるんだぜ?」
「へ~。まあよう聴けば年季の入った声に聞こえんこともないけど・・・。でもこんな声の人、村におったっけ? もしかしてあんた、この村の人じゃないんか?」
「ああそうだ。俺は語り部をやっててな、あちこち旅をしてるのさ。暫く山向こうの村に居る予定でな。そうだな・・・村の外の話、聴いてみたくはないか?」
「あんた、法師さんやったんか! あ~でも、聞いてみたいけどあたい、お金持ってへんよ?」
「なに、お前さんには特別、タダで聞かせてやろう」
「うう~そんなこと言うて~。後で払え言わんてな」
「言わん言わん。さあ、何から話そうか。聞きたい話はあるか?」
童女は近くの岩に腰かける。
やっと、対等に話せる時が来た。
天上とは違う、誰も俺を忌み者としない世界。
相手が童であろうと、彼らは我々を崇める存在。
父上と母上が遺した、守るべき者達の末裔なのだ。
最期に手にしたこの幸運を、逃してなるものか。
「んだら、都の話をしてくんろ! うちの村さ来る法師さん、都の話全然してくれんのじゃ。 なあなあ、あんた行ったことあるんか?」
「ああもちろんさ。まず都に入るには、どでかい門をくぐらにゃいかん。だがその門を通るのは大変でな? 都にお呼ばれしたか、大臣の血縁しか入れんのだ」
「そうなら、法師さんはどうやって中に入ったんだべさ?」
「実はな、俺には大臣の知り合いがいてな?そこから―――」
語り部はどの村にもいるが、日ノ本の地を転々とする者たちの語り部は特別に「法師」と呼ばれる。
語りは庶民や農民にとっての数少ない娯楽の一つであり、たとえ作り話であってもその心躍る巧みな語りに、大金を出す殿様もいるとか。
俺は神通力を取り戻して以来、その千里眼であらゆる国を見て回った。
都は華々しい印象とは裏腹に、厳格なしきたりと山のような政の連続であること。
西の国は日々戦に明け暮れていること。
遥か北の未開の地と呼ばれる場所にも、人々が暮らしていること。
はるか昔から繰り返される、多くの終わりと始まりの循環を目にしてきた。
光と形だけの空虚を永遠に貪り続ける、天上の国とは異なる限りある者たちの営み。
生まれを呪われようとも、懸命に生きる彼らの姿に、俺は引かれていた。
俺は抗いたかった。
変えることのできぬ神としての命。
それが無駄だと分かっていても。
俺は絶望した。
人帰りの処罰にではない。
人の身になっても、俺はこの土地に縛られ、誰とも出会うことなく、ただただ千年の虚無を味わうこと。
千里眼で見ることしか叶わない、いや見ることだけが叶う微かな光。
ああ、この暗黒の光が。
叶うことのない永遠の希望こそが。
神を神たるものにしているのか。
「まあ、こんなところだ」
「都って、あんまり楽しくないんじゃな・・・。」
「まあそうだな。だが、都の周りは年中賑わっているから、中に入らない方が楽しいぞ?」
「え~、都の外の方が楽しいって、どの法師さんも言ったことなかっただよ。」
「そりゃ法師は遊ぶ金なんてないからな。」
「じゃあその都の周りには、あっ!」
カーーーン カーーーン
村の方から鐘が響く。
気付けば西の空は黄昏に染まっていた。
「いっけね、早く帰んないと! 法師さん、今日はありがとな! じゃ!」
童女は飛び出すように駆けだしたが、1つ伝えなければいけないことがあった。
「おおっと待ちな! 今日のこと、村の人間には内緒だぞ」
「ええ? なんでじゃ?」
「お前さんにはタダだったが、ほんとは金が山になるくらいの語りだったんだぜ? 他の連中を連れてきたら、村が一文無しになるまでせびってやるさ」
「うへぇ~、やっぱり悪徳法師さんでねえか~」
「はっはっは、そう言うな。お前さんには特別、タダにしてるんだ。また来ればいい。俺も久方ぶりに話ができて、楽しかったぞ」
「ほんとか! じゃあ明日も1人で来っから! 待っててけろ~!」
「ああ~、気いつけてな~~」
童女が手を振り、走り去る。
西日に照らされ、その姿は参道の木々に溶けていく。
「・・・・・・・・・」
俺は初めて、心が満たされていくのを感じていた。
なんと素晴らしい一日だったろうか。
これが毎日でも続けばよいものを・・・。
赤い夕陽に向かい、目を細めた。
その晩、俺は村に降りていた。
あの童女のことが気になる。
千里眼の語り部に扮し、すっかり気分よく話していたものだから忘れていたが、人の身でありながら、なぜ俺の姿が見えていたのか。
さては妖気を一切出さずに化ける西の大陸の化け物ではあるまいな。
日ノ本は南北にのびる島である。
その西には巨大な陸地が続いており、大陸を統べるに相応しい大国があることは語るまでもない。
帝はあまりいい顔をしていないが、ここ数十年でその大国と宝物のやり取りをする殿様が増えてきた。
森山の妖たちが言うには、その宝船に隠れ、この日ノ本にやってくる妖が後を絶たないという。
俺を讃えている人間はこの村には居ないが、眼前で余所者に好き勝手されることには黙っていられない。
しかし村に入ってから妙に体が軽い。
好奇心の高ぶりもあるだろうが、それとは違う、己の内に宿る火の猛り。
どうやらこの村は縛りの影響を受けないらしい。
あの祠からちょいとでも離れれば、縛りによる酷い脱力に苛まれるが、どういうわけか力が漲ってくる。
百年ほど前からこの土地に人が住み始めたが、実際に足を踏み入れたことはなかった。
不思議な感覚だが、目的はあの童女の正体を知ることだ。
千里眼であの童女の家は分かっている。
目的の家までまっすぐ歩みを進めた。
今は丁度夕げの最中らしく、どこもかしこも囲炉裏を囲む柔らかい声で溢れていた。
ここか。
特に語ることのない、茅葺屋根の家。
表に鍛冶の炉があること以外は、日ノ本で一番よくみられる格好だ。
裏手に回り、壁の隙間から中を覗く。
昼間に話をした童女が笑みを浮かべ、その父と母に語りかけていた。
「今日も山は何にもなかったで? 村とちごうて涼しゅうてな~。いくら走ってもいい気分やったでな~」
「はいはいミヨ、あんた目え見えんのに、ほんと元気やねぇ。村ん中で一番元気やない?」
「ミヨ、もう山の見回りはせんでええから。村長には、おれから言うとくよ。あの山は鬼が出るいうてな。お父は気が気でないで・・・」
「うんにゃ、周りの子はみ~んな家の仕事を手伝いよる。村一番の刀鍛冶の一人娘が呆けとったら、お父とお母に顔向けできへんよ。あたいのよう聞こえる耳で、村のお守りをしたいんじゃ」
「もう、ミヨったら・・・。お母は嬉しいけど、怪我だけはせんといてな」
「う~む、そういうならなあ・・・・・・。」
「お父は心配しすぎじゃ。もうあの山は私の畑と同然、道案内までできるで~」
村を離れ、いつもの祠に寝そべる。
あの童女、ミヨというのか。
しかし、まさか盲目とは。
確かに出会ってから帰るまで、ミヨは目を閉じたままだった。
目を瞑っていても、荒れた参道を躓くことなく駆け下りていったことには首を傾げたが、そう言うカラクリだったのか。
それにしては常人離れした耳を持っているものだ。
しかも耳だけじゃなく、俺の姿を捉えるほどに知覚が研ぎ澄まされている。
人間の中にも神通力に目覚める者がいると聞いたことがあったが、眉唾物ではなかったというわけか。
「ふぅ・・・・・・」
まだ冬の残り香が漂う夜空に一息つき、目を閉じる。
なにはともあれ、大陸の妖ではなかった。
俺が話をしたのは、紛れもない人の子だった。
明日も来てくれるだろうか。
これまで通り50年寝てしまってはいけないな・・・。
この時期の肌寒い風とは少し違う、心地良い夜のそよ風に、宿す火が静かに揺れる。
ああ、これが “喜び” か・・・。
人の世に堕ちて九百九十九年。
ついに手にした人との交流。
生まれて初めてではないだろうか。
これほどまでに、明日を迎えることが待ち遠しくなったのは。
出会ったあの日以来、ミヨは毎日のように俺の語りを聞きに来ていた。
雨が降ろうとも風が吹こうとも、暇さえあればこの祠を訪れた。
時にはおはぎを携え、「法師さんの分もあるのじゃ!」と、共に並んで食べることもあった。
俺は、ただただ、嬉しかった。
神として産まれ何千年たっただろうか。
俺と目を合わせる者はいなかった。
俺の声に耳を貸す者はいなかった。
俺のやることなすこと全てを祖なる神の怒りだと恐れ、誰も関わろうとはしなかった。
そして人の世に堕ちて千年。
積年の想いをゆっくりと溶かすように、俺は誰かと言葉を交わし、同じ時を過ごしていた。
ミヨは時に笑い、時に涙ぐみ、時に納得がいかず首を傾げ、そしていついかなる時も、好奇心にあふれた期待のまなざしを向けてくれた。
「ほんでな、そのおぞましい大蛇の尻尾からでっっかい剣が出てきてな、周りの悪さする豪族どもを千切っては投げ千切っては投げ―――」
最近は自分も語り部とやらをやってみたい言うことで、今こうやってミヨの声に耳を傾けているところだ。
光の見えぬ暗闇の世界で、ミヨはどんな思いを馳せているのだろうか。
語り部というにはあまりに自分本位な語りだが、楽しそうに言葉を綴る姿に見入ってしまう自分がいた。
しかしこのおとぎ話、十中八九はあの大蛇殺しの兄上のことだろう。
兄上は俺と同じく天から堕ちた身でありながら、その剛力で八つの首を持つ大蛇を下し、草を薙ぐ大剣を手にした。
そして神力を宿した草を薙ぐ大剣により神としての使命を断ち切り、人の子と結ばれ、人として死んでいった。
なんとも羨ましい限りだ。
神力を持つ大蛇よ、俺の前にも姿を見せてはくれぬものか。
「ふうぅ~こんなところじゃ。」
「気持ちのいい話っぷりだったぞ。いつにもまして気を入れていたんじゃないか?」
「あはは、この伝説はこの村の語り部の十八番でな。あたいの小さいからず~~っとおんなじ事を聞かされて、もっと面白可笑しくできないか考えておったのだ」
「どうりで姉神の神殿に糞をして堕とされたという話がでてくるわけだ。」
「良い感じじゃっただろ? はあ~ただ、話すだけでこんなに疲れるとは。一時《言っとき》でこれじゃ。やっぱり法師さんはすごいんだべな~」
「あっはっは、子供でそこまで話しができれば上々よ」
「嬉しいが、どうにも腹が空いて・・・。動けぬ・・・」
ミヨはいつも腰かける苔むした岩に寝そべり、ぐんと背を伸ばす。
いくら風の子とは言え、長い時間話し続けることはかなりの体力を使う。
ちょうどお腹も空いているようだ。
少し早いが、誘ってみるか。
「どれ、そろそろ昼時だ。ミヨ、俺と一緒にヤマメでも食べないか?」
「いいのか! んでも、村の川じゃあんまり釣れないし、どこかに釣れる川があるのか?」
「ああ、この山の崖の向こうに滝があってな。水が村の反対方向に流れていて、山向こうの村人が偶に釣っているぞ」
「それなら急いで行くのじゃ! 全部取られてしまう!」
「そうはやるなミヨ。竿を用意する、少し待て」
ミヨは空腹が嘘のように飛び跳ねている。
この様子だと1人で行ってしまいそうだ。
手早く準備しなければな。
確か昔河童から拝借した竿があったはずだ。
使えるといいが・・・。
「さあ、着いたぞ」
「ほほぉ~、随分と開けた川じゃな! 鳥のさえずりもよう聞こえる。良い川じゃな! 水も・・・うまい!」
ミヨは背中から降りるや否や、川に向かって飛び出していった。
目は見えずとも、まだまだ遊び盛りの子供である。
村ではやや浮いているような振る舞いだったが、清流を手に掴み、その冷たさを楽しむ姿を目にし、カグツチは安堵していた。
「そこから先は深くなっているから、もう上がりな。ヤマメもびっくりして逃げてしまうぞ」
「あ~い!」
水に浸かっている石を片っ端からひっくり返し、川虫を探す。
10匹ほど腰の布袋に入れ、川辺で竿を広げるミヨのもとに戻った。
「ほい、餌を付けたぞ」
「ありがとう! よーし、根絶やしにしてくれるわ~!」
意気揚々と竿を振りかぶり、釣り餌が川の中頃に飛び込む。
俺も骨針に川虫を刺し込み、竿を大きく振りかぶる。
暗く透き通る川から2本の糸。
特に手ごたえがないまま、川と時間の流れに身を任せていた。
魚の影は見えないが、河童どもはいつもここでヤマメを食らっていた。
釣りとは辛抱とよく言うが、こうも釣れないものか。
まさかあいつらめ、食い尽くしたわけではあるまいな・・・。
河童にあらぬ疑いをかけていると、ミヨの釣り糸に緊張が走る。
「ミヨ、かかったぞ! 急いで引くんだ!」
焦る俺に対し、ミヨは涼しい顔で竿を握っていた。
「いんや、まだまだ」
再び竿を見たときには、緊張が嘘のようにしんと頭を起こしていた。
さっぱりわからない。
今すぐにでも引いていればよかったのに。
困惑の表情を読み取ったのか、竿を垂らしてからずっと黙っていたミヨが口を開いた。
「法師さんはまだまだひよっこじゃの~。そんな竿をなんべんも動かしたら、釣れるもんも釣れんよ」
「だが、今のは引いていれば釣れただろう」
「いやいや。やつらはじっと餌の様子を伺っておる。一度咥えてもすぐには飲み込まん、賢いやつらや。だからこうやってじっと待つ。あれがなんの害もない、ただの美味い川虫っていうフリをさせて・・・っ!!!」
突然竿の頭が勢いよく垂れる。
糸の先が大きくと水しぶきをあげ、右へ左へと暴れまわっていた。
「おおっ、来たか! ミヨ、絶対離すなよ!」
「分かってるべよ! くうっ・・・!」
ミヨは歯を食いしばり、腰を下ろして竿を引き付ける。
ヤマメは食いつきこそ力強いが、そこまで大きな魚ではない。
針に懸かってしまえば子供の力でも容易に釣り上げることができるが、今目にしている光景は龍でも釣ろうとしているかのような激しい攻防だった。
本当ならミヨの活躍をじっと見守っていたかったが、このままでは危険だ。
「ミヨ、加勢するぞ!」
「あ、ありがとう・・・」
自身とあまり変わらない背を抱き、竿に手をかける。
糸から凄まじい力が伝わる。
人の子がよくこの引きに耐えたものだ。
だが・・・
「ミヨ、せーのでいくぞ! 踏ん張れよ!」
「わ、わかっただよ!」
「「せーのっ!!!!」」
縛りで弱まっているとはいえ神通力を宿した肉体。
全身に力を込め、竿を一気に振り上げた。
ドッパアァァァン!!!
「うわあぁ?!」「うおっと」
弾けた力に引き戻され、ミヨが俺に向かって尻もちをつく。
ピチッピチッ
大地に姿を現したヌシは模様こそヤマメではあったが、その大きさはもはや丸々と太った鯉である。
「法師さん! ちゃんと釣れただ?!」
下敷きにした俺に構うことなく、大釣果の成否を問う。
汗と川の飛沫に反射し、初夏の木漏れ日に照らされたその表情は、珠玉にも勝る美しさであった。
「ああ、立派なヌシが釣れたぞ!」
「んふ~~、やっぱりこの時期のヤマメは格別じゃ~」
こんがりと焼きあがった白身を口いっぱいに頬張り、幸せの笑みを浮かべるミヨ。
焼いている最中から焦げた皮目から脂が噴き出し、その香りはまさに涎垂もの。
齧り付いたところからジワリと染み出す旨みと柔らかい身質は、帝すら喉から手が欲しくなるほどの極上っぷりだった。
「うむ、これは見事だな!」
「初めての釣りでこんなの食べちまったら、もう戻れなくなるだ~」
「ミヨ、お前釣りは初めてだったのか?!」
「んだ。ほら、あたい目が見えんじゃろ? お父とお母も、みんなからも水辺には寄るな言われてな。1人でこっそり行こうにも、尻込みしておったのだ。じゃが、釣りこんなにも楽しいとは、秘めた才能があるみたいじゃ!」
驚きを隠せないが、ミヨは鼻高々とご機嫌な様子である。
盲目の釣り人、か。
たしかに水の中は目に見えぬ領域。
目が見えないという枷はむしろ、それ以外が全て感じることができるという武器になり得る。
両親も今の雄姿をみていれば、ミヨに釣りをさせることを許したかもしれないな。
「法師さん、まだ身は残っておるか? まだ食べ足りんのじゃ!」
「もちろんあるぞ。しかしあまり食いすぎると、夕げが入らなくなるぞ?」
「お母が作る飯は別腹じゃ。むしろこんなに美味い魚を残すのは、水神様にも罰当たりになってしまうからな」
「はは、殊勝な心がけだな。 ほれ、もう一切れだ」
「やった~!」
それから鐘の音が響くまで、ミヨとの2人っきり団欒は大いに盛り上がった。
やはり、人との出会いは素晴らしい。
「ふーむ。まだ続きそうだな・・・」
「んだぁ、村のみんなも困ってるだ・・・」
2人は木造の屋根の下、湿った祠に寄りかかり、どこまでも切れ目のない黒い雨雲を眺めていた。
今日も今日とて雨が続く。
文月も時期に終わりを迎える頃にも関わらず、雨が止まない。
聞けば村人たちも相当参っているようだ。
湿気は刀鍛冶の敵である。
多雨の日に打った刀は脆く、錆びやすくなる。
故に梅雨時は炉に火すら入れないのであるが、それももうすぐ二月になる。
「やっぱり、水神様が怒ってらっしゃるんでねえかな・・・」
「水神様? この村の守り神か?」
「うーん守り神ってほどでもねえけど、村の横さ流れる川の上流には、水神様が居るって話でな? いつも綺麗な水が飲んだり、川で魚釣れるのは全部、水神様のおかげという訳じゃ」
「ふーん、水神様ねえ・・・」
「この村の氏神様が、あの山まで行って説得してくださればいいんじゃがな・・・」
ミヨを早々と家に帰し、俺は北の霊峰、水神が住まうという領域に向かっていた。
二百年ほど前、一匹の龍が近くの山に住み着いたと妖の中で騒ぎになっていたが、まさかそいつのことだろうか。
話が通じる相手であればいいが・・・。
縛りで神通力も思うように働かない。
雨を操るなど、一介の妖風情にできる芸当ではない。
相手は少なくとも同じ神通力の使い手である。
争い事になれば、全力を出せない俺の敗北は必至。
・・・使うべきか。
内に秘める炎に目をやる。
それと同時に、忌々しい父の声が響く。
“その炎、決して使うな”
父と交わした、一方的に押し付けられた契り。
この契りにより、俺は天井の国で一度もその炎を見せたことがなかった。
父は恐れていた。
母を黄泉に葬った、この悍ましき炎を。
何度天を開く矛で貫こうとも、消えることのなかった、その焔を。
・・・なーに、話を聞かなかったら、ちょいと火傷してもらうだけさ。
火の粉を握りしめ、雨の降りしきる獣道を駆け抜けた。
霊峰の中腹、山を裂いたような谷の底。
千刃の滝が飛沫を上げる。
滝つぼ手前の岩の上に、そいつは居た。
人の姿をしているが、金色の長い髪とヒゲ。
紺碧の鱗に覆われた手足。
一列に生える翡翠色の棘。
間違いない、こいつが水神。
いや、龍神だな。
この日ノ本に龍神は居ない。
全て海を渡った西の大陸から渡ってきたものである。
兄が仕留めた八つ首の大蛇を龍神と呼ぶものもいるが、あれはあくまで図体の大きな蛇に過ぎない。
しかし今目の前で酒瓶を片手にうたた寝をしているこいつは、神通力の使い手。
紛れもない龍神である。
「なあー、お前が水神とやらか!!! この雨、そろそろ止ませてはもらえぬものか!!!」
谷中に響く声量で問いかける。
「うるさあ~~い! こちとら河童どもに惨敗中じゃわい! これが最後の酒じゃあ、黙って飲ませろ! 大体、雨は降れば降るほど良いじゃろお! この山が大きくなったのも、ワシのおかげじゃ!」
随分と虫の居所が悪いようだ。
どうやら河童との賭け事で、秘蔵の酒を毟り取られてしまったらしい。
ここらの河童は手癖が悪く、イカサマの達人でもあるため、賭け事を持ち出されても乗らないのが妖たちの暗黙の了解である。
しかしこのままでは取り合ってもらえない。
酔いから醒めてもらう必要がありそうだ。
「流石は大陸の大トカゲ様! 大陸でも負け、ここでも河童に惨敗とは! 西からの流れ者は、一味違いますなあ~!」
「・・・なん・・・じゃとお・・・?」
龍神のふやけた顔が引きつる。
トカゲ呼びの煽り文句が効いたようだ。
もう一息だ。
「お目覚めにっ、こいつはどうかな!」
傍の大岩を担ぎ、龍神へ投げつける。
こちらが応えるに値する存在であるという意思表示だ。
投げつけた岩は龍神に当たる寸でのところで、水中から立ち昇った何者かに砕かれた。
手足と同じ鱗に覆われた、身の丈を優に超える尾。
龍神の前からゆらゆらとこちらを威嚇している。
「このワシに、日ノ本の妖風情が楯突こうとは・・・」
胡坐を解き、ゆっくりと立ち上がる。
身体は俺よりも二回りほど大きい。
兄の見様見真似で身に着けた構えを取る。
さあ、どう出る・・・。
「痴れ者が!!!」
速い!
先程までうたた寝していた格好とは打って変わり、瞬きすら許されない速さで突っ込んできた。
ガッ!!!!!
腕を盾にし、一撃を受け止める。
・・・っ!!!
周囲の石が砕け散る衝撃。
神の身でなければ粉々になっていただろう。
だが縛りがあってもまだこれなら・・・
「甘いわ!!!」
ドゴッ!!!
?!?!
脇腹からの鈍い痛みが全身を駆け巡る。
バゴーーーーン!!!
軽い身体は宙を浮き、岸壁に叩きつけられた。
くぅ・・・・・・。
大岩を容易く砕いた尾の打撃。
縛りがあるとはいえ、神通力で強化された不老不死の肉体が悲鳴を上げていた。
強い。
トカゲ風情と貶したが、膂力だけで言えば間違いなく天上の国でも通用する。
一瞬視界が揺れたが再び構え、相対する。
「ほお? 中々にやるようだな。 だが次で決めるぞ」
龍神は天に指を掲げる。
やはり正面からでは押し負ける。
しかもあの構え、何かをしてくるな?
・・・・・・。
使うか・・・。
突如身体が閃光と電撃に包まれる。
雷が俺の体を貫いていた。
「フハハハハ!!! 天はワシそのもの! 手中にあるは水だけではないわ!」
雷も操るのか。
流石は大陸の神。
「去ねーーい!!!」
鱗に覆われた拳が額を捉えた。
瞬きも許される刹那。
“大地ヲ焼クハ加具土ノ火”
ズンッ!!!
「ぐほおぉっ・・・」
向けられた一撃を躱し、燃え盛る拳を龍神の腹に突き立てる。
「うおおおうりゃあああああ!!!」
一歩を踏み出し、振りぬいた。
ドッパアアアアアン!!!
吹き飛ばされた龍神の体は大岩を砕き、滝つぼは盛大な水柱を上げた。
拳は雨を弾き、白い蒸気と共に一歩、また一歩と滝に歩みを進める。
「ぶっっはああ!」
流石に無事か。
だが・・・。
「キサマァ、よくもワシに・・・。うう、なんだ? これは・・・?」
殴られた腹を抱え、苦悶の表情を浮かべる龍神。
「あ、熱い! なんじゃこの火! き、消えぬ!」
下腹を覆う碧い鱗が陽炎を放ち、真っ赤な熱を帯びていた。
川の水を全身に浴びるが白く泡立つばかりであり、その熱は勢いを増していた。
「ぐおぉぉぉ・・・! き、キサマの仕業かあ・・・!」
「ああそうだ、これが日ノ本の神の力。お前の体を内から焼いている、決して消えぬ火だ。どうだ? 酔いは醒めたか?」
「くうぅ、こんな・・・土着の神なんぞに・・・熱い!!! 熱いい!!!!!」
「まあ、お前が朽ちればこの長雨も止む。精々そこで足掻いていろ」
「くそおぉ・・・。わ、分かった! 話を聞く!! 参った!!! 降参だ!!!! 早くこの火を消してくれえぇぇ!!!!!」
「これが、お前と結ぶ契りだ。異論はないか?」
「ああ、問題ない。しかしよいのか? ワシは大陸からの流れ者。日ノ本の神が、余所者に住まう許しを与えるなど・・・」
「いいんだ。お前はこの国の民に清い水を与えている。実際、祭られてもいるんだろう? 余所者であったとしても、それは変わらない事実だ。利があれば讃え、恐れ敬う。日ノ本の民の教えだ。お前こそいいのか? 面倒な役目が増えるぞ?」
「なに、日ノ本の神直々の許しを得ることができるのだ。この程度、安いもんじゃ」
龍神と交わした契りは三つ。
ひと月以上の長雨は降らさないこと。
ふた月雨が降らなければ、ひと月分の雨をゆっくり降らせること。
この国の何処かで火の手が上がった場合、すぐに雨を降らせその火を消すこと。
俺からはこれら三つの取決めが守られている限り、この国に住むことを許す。
三対一の申し出ではあったが、龍神はそれをあっさり承諾した。
西の大陸では日夜問わず神々の争いが絶えず、それに辟易して日ノ本まで流れ着いたという。
ようやくたどり着いた安住の地を離れたくないという気が強いのだろうが、これで万事解決である。
俺はもうすぐ天上の国に帰らねばならない。
俺がいなくとも、あの村の営みは続く。
もしものためにと思っていた二つの契りを呑んでくれたのは幸運だった。
「では、我々の契りを祝してまずは・・・乾杯じゃ!」
「ああ、よろしく頼むぞ」
すっかり上機嫌な龍神と盃を交わす。
龍神秘蔵の酒、日ノ本にはまだ少ない白桃の豊潤な香り。
酒にしては少々甘いが、天上の国でも味わったことのない確かなのど越しを感じる。
「しっかしワシの鱗が焼けるとは・・・。おヌシ、それほどの力を持ち得ながら、なぜ童の姿になっておるのだ? その姿では、本調子も出せまい」
「天上で、色々あってな・・・。まあ碌なことをしていなかったのは確かだ」
「ふむ、なにやら訳ありのようだな。仔細は聞かぬことにしておこう。あの国の面倒ごとに首を入れたくはないからな、ガーハッハッハッハ!」
大陸の者は神ですら豪快だな。
今はこの美味い酒に舌鼓を打つとしよう。
さあもっと飲めと龍神は並々と酒を注ぎ、一気に飲み干す。
縛りと争いで疲弊した身体に染み渡る味。
語りの合間にミヨとおはぎをつまむ時とは、また異なる高揚。
ああ、人はこれを、なんと呼ぶのだろうか。
怒りと憎しみ、渇望に振り回されたかつてのカグツチ。
その姿は、今や酒に顔を染める、一人の人間であった。
楽し気な二人の笑い声は、山がすっかり乾くまで続いた。
「・・・・・・・・・」
カグツチは冷たい朝日に目を眩ませ、薄く霧がかる村を見下ろしていた。
天照す神が告げた日まであとわずか。
天上の国に帰る日が、すぐそこまで迫っていた。
「法師さ~ん! いるべか~?」
厚着をしたミヨが、いつもと変わらない声で俺の所在を問う。
「ああ、おはようミヨ。今日は随分と早いじゃないか。何かあったのか?」
ミヨはいつも朝の鐘の音が鳴ってしばらくしてから姿を現す。
今はまだ日の出すぐ。
火急の用でもあったのだろうか。
「・・・・・・」
いつもの岩に腰かけず、俺の前で黙り込んでいる。
その表情には、いつもとは違う陰りが見えた。
初めての表情に、俺も動揺を隠せない。
「・・・ど、どうした? 腹でも、痛いのか?」
「・・・んにゃ、法師さん・・・。あたい、もうこの山入れなくなっただ・・・」
「・・・!」
胸に痛みが走る。
別れを告げにきたのか・・・。
どうりでこんな朝早くに・・・・・・。
「な、なんでだ? 昨日まで何にもなかったじゃないか。それが急に」
「えへへ、みんな怪しがってただ。山に見回りに行けば遅くまで帰らず、ある時は腹まで膨らませて。あと、山向こうの村人に聞いた話じゃと、語り部なんか随分長いこと来てないって」
「・・・・・・」
「妖に憑かれてるんでねえか?っていう人も出始めてな? お父とお母に、これ以上心配かけさせとうはないのじゃ・・・」
「・・・・・・・・・」
俺はただ、静かにミヨの言葉を聞くことしかできなかった。
「でも、悪いことばかりじゃなんだ。村の川でな、釣りの役目を貰うたのじゃ! だから、もう・・・この山には・・・」
「ミヨ・・・」
「法師さん・・・」
「騙して・・・すまなかった。俺は」
「そんな! 謝らんでけろ! 法師さんが語り部じゃなくども、あたいはすごく楽しかったのじゃ! 都のことも、将軍様のことも、海のことも・・・。村じゃ絶対知らん事をたくさん教えてくれた! 夏の釣りも楽しかったのじゃ! こんなにも幸せな毎日が続いてええんやろうかって、朝を迎えるのが嬉しかったのじゃ! じゃから・・・顔、上げてけろ・・・?」
地に擦りつけた額を上げる。
神が人間の、しかも童に頭を下げるなど、これまであっただろうか。
日ノ本の民は皆、義理と情、互いを助け合う心を持っている。
俺も、いつしか彼らと同じ思いを胸に刻んでいた。
「ミヨ、実はちょうど、俺もここを去らねばならなくなった。遠くの国に行くことになってな。旅支度をしている最中だったのさ。」
「・・・そうじゃったか。なら法師さん、最後に一つ、聞いてはくれぬか?」
「ああ、なんだ?」
ミヨからのお願い。
それはこの村の成り立ちにまつわる、おとぎ話だった。
天で大暴れをしていた、一人の火の神がいました。
火の神の焔は産んだばかりの母を焼き殺し、父は怒りに狂いました。
最も古き神の息子でありながら父を始め、他の神々からも恐れられていました。
父も母も、その親族の誰も、その神を愛することはありませんでした。
ある日、横暴を働く火の神は、罰として人の世に堕とされました。
火の神の力は強大であり、その火は大地を焼き、空をも焦がしました。
その火が静まり返ったころ、一人の刀鍛冶がこの地にやってきました。
刀鍛冶は驚きました。
玉鋼が、そこら中に落ちているのです。
早速刀鍛冶は炉に火を入れました。
いつもより熱い炉の火に慄きながらも、懸命に槌を振りました。
鍛えられた刀は神を宿したかのように美しく、それは見た者すべてが裸足で逃げ出すほどでした。
それから多くの刀鍛冶がこの地に集い、今日の村となっているのです。
「法師さん、ちゃんと、みんなに伝えてくんろ。綺麗な刀を打つ、あたい達の村があるってこと。日ノ本のみんなにさ」
「・・・ああ、確と承った・・・!」
カーーーン カーーーン
朝の勤めを知らせる鐘の音が響く。
「じゃあ、法師さん。達者でな・・・!」
「ああ、ミヨこそ、風邪を引くなよ?」
「心配ご無用! あたいは村で一番元気じゃ! ・・・また、会えるかの?」
「今生の別れではない。きっと、また会えるさ」
「へへっ、そうか。・・・そうじゃな! 今度来るときは、ちゃんと村に来てくんろ!」
「もちろんだ。約束するよ」
「約束じゃぞ!」
「ああ、ちょっと待ってくれ。実は渡したいものがあるんだ。餞別、とは違うが、これを持っていてくれ」
「何かくれるのか?」
懐から贈り物を取り出す。
革の環の先に碧い鱗が付いている首飾り。
龍神の鱗の一つを細工した物である。
友の印として手渡されたが、もうじき俺には必要なくなる。
そうなるくらいならと、俺がこの地に生きた証を残すために、ミヨに授けることにした。
「首飾りか? なんだかひんやりとするな。綺麗なんじゃろな~」
「今度また会った会った時見せてくれれば、お安くしておくぜ?」
「また悪徳な~」
「「あっはっはっは!」」
「それじゃあ法師さん! お達者でーー!」
「ああ! 達者でなーーー!!」
ミヨは涙を拭い、笑顔で走り去る。
朝日に揺られ、その影は参道の木々に溶けていく。
千里眼で、人の別れは何度も目にしていた。
人はいつか必ず別れる時が来る。
出会った時から覚悟できていたはずだった。
・・・別れとは、こんなにも胸を締め付けられるものなのか。
これまでとは違う、身体の奥深くを穿たれた痛み。
怒りとも憎しみとも違う優しい痛みを、俺は噛みしめていた。
これが ”哀しみ” というものか。
人の心というのは、実に難儀なものだな・・・。
間も無く旅立ちの日。
名残惜しいが、去り際ぐらいは美しくあろう。
俺の加護はこの地に残る。
ミヨ、さらばだ・・・。
来たる旅立ちの日に備え、再び横になる。
もっと早く、出会いたかったなぁ・・・。
深い眠りの最中、俺は突然の光に目を覚ました。
う~~ん・・・・・・。
確かに今日は旅立ちの日。
朝日と共に迎えに来ると言っていた。
まだ日の出には早いが・・・・・・っ!!!
眠気はその光景に一瞬で焼かれた。
その光は、天照す光ではなかった。
炎
いつも見下ろしていた村が、火の海と化していた。
「ミヨ!!!」
祠を壊す勢いで飛び出す。
頼むミヨ! 無事でいてくれ!!
千里眼で見まわす暇もなく、山の斜面を駆け下りた。
火の海から少し外れた村の広間。
手には碧い鱗の首飾り。
ミヨはいた。
子共の身に余る太刀傷を負いながら。
血の池で一人、倒れていた。
「・・・・・・・・・ゕぁ」
「ミヨ!!!」
すぐさま倒れたミヨに駆け寄る。
背の骨が両断されている。
恐らく臓物にも届いている。
助けられないことが目に見えていた。
虫の息。
今にも止まりそうな心の臓が弱弱しく鼓動する。
とうに手遅れであることは肌で感じ取れた。
「へへっ、まだガキがいやがったとはな」
「くっそ、アニキ! そいつを早くぶっ殺してくれよ!」
「ぎゃははははは! ガキに一発やられるなんてのは、お笑いだなあ! ぎゃっはっはっは!」
「あにきぃ、おれにも切らせてくれよお。まだ足りないんだよお」
正面の人影から下品な笑い声が放たれる。
まばらに甲冑を付けた野盗の一行。
「くそっ、きさまら、ぎゃっ!」
「そんな、この子だけは」「うるせい! 大将からのお達しじゃ!」
「おぎゃあああああああ」
炎渦巻く村のいたる所から何かを切る音、断末魔、赤子の悲鳴。
転がる老若男女の生首。
黒く燃える仏たち。
地獄すら生ぬるい惨状が、目の前に広がっていた。
冷たくなっていくミヨの体を抱きしめる。
「ぉ・・・・・・ぅ・・・ぉ・・・・・・ゕぁ」
ミヨは吹けば消えるか細い声で両親の名を呼ぶ。
「ん? なんだこのガキ。自分から、腹を見せておるわ!」
「ぎゃははははは! きっとハラワタをはよう抜いてくださいって言うとるんじゃ!」
「「「「「あーはっはっはっはっはっはっは!!!!!」」」」」
野盗の一人が一歩、また一歩と歩み寄る。
・・・・・・・・・。
・・・・・・。
・・・。
縛りは既に燃え尽き、火は父の契りに手をかけていた。
“その炎、決して使うな”
再び父の声が響く。
父よ。
今は遠くに居る、祖なる神よ。
我はこれより契りを破りまする。
あなたが我にした仕打ち、決して忘れませぬ。
しかしあなたが神々に託した想い。
人に授けた願い。
皆が忘れようとも。
我は決して忘れませぬ。
““空ヲ焦ガセシ加具土ノ炎””
契りは焼き切れ、炎は解き放たれた。
炎は禁に向けられる。
あの日、母を焼き殺したように。
母から授かった禁は、既に黒く燻っていた。
舞い上がる煤が、今は亡き母の思いを告げる。
・・・
・・・・・・
ああ、愛しき我が子よ。
妾はもう、そなたの側には居てやれぬ。
そなたは聡い神になる。
故にその力に悩み、己自身を忌み嫌うだろう。
しかしその力は、守る力でもあるのだ。
決して絶やしてはならぬ。
そなたには名と共に、禁を授けよう。
これは黄泉へ行く母からの、せめてもの贈り物だ。
大切な者を、傷つけてしまわぬよう。
さらばじゃ、愛しき我が子よ。
かぐつち・・・。
・・・・・・
・・・
母よ。
黄泉の主神よ。
申し訳ございませぬ。
我は母の、たった一つの願いを燃やします。
しかし、母よ。
これが。
これこそが。
誰に言われるでもなく。
我が選んだ。
我の命なのです。
『我、国産ミノ子ナリ』
『我、神産ミノ子ナリ』
『我ガ名、加具土ノ命』
『平伏セ』
『我、神ヲ滅スル焔ナリ』
禁は、解かれた。
「さあ、お望み通りに、そのワタ抜いてくれるわ・・・」
鮮血に染まった刀が向けられる。
切先から一滴。
乾いた地に落ち、火花を散らす。
向けられた刀は炉から出したように朱く、輝いていた。
研ぎ澄まされた刃は既になく、力なく垂れ、鉄塊となって溶け落ちた。
野盗は真っ黒な炭に姿を変え、静かに炎を纏っていた。
加具土ノ焔は全てを焼き溶かす。
どんなに鍛えた鋼であろうとも。
神を滅ぼす火の前には、塵も同然であった。
もう村人が居ないことは分かっていた。
全てを灰燼にせんと、村を業火が包みこむ。
焔は激しく、そして静かに燃え続けた。
大切なものを、傷つけぬように。
・・・・・・・・・。
・・・・・・。
・・・。
「・・・み・・・・・・ず」
死に体となったミヨが呟く。
この炎だ、喉も乾くだろう。
村の端にある川まで連れて行こう。
カグツチは立ち上がろうとしたが、身体がうまく動かない。
何やら氷室のように冷たい。
見れば足が石へと変わっているではないか。
加具土ノ焔は神をも滅する。
己自身さえも、その焔に耐えることができなかった。
石化の波は留まることを知らず、喉元まで差し迫っていた。
川までは連れてはいけない。
ならば・・・。
龍神のように水を操ることができればよかった。
火の神故にそれは叶わず。
血の一滴でも流すことができればよかった。
不老不死の身ではそれすら叶わず。
岩の骨が軋む。
石の歯が砕ける。
カグツチは目を、口を、眉を歪ませ、鬼の形相となった。
この世に生を得て、良いことなど一つもなかった。
産まれて間も無く母は死に、父は我を何度も刺し殺した。
周りの神は我を避け、天上の隅に追いやった。
行き場のない怒りを振るい、果ては千年の人帰り。
全てを奪われた虚無が続いた。
これは、我が真の神になるため試練なのだと。
言い聞かせた。
しかしどうだ、今は。
一日会わぬだけでこの傷心よ。
ミヨ、早く来ぬか、夜も来てはくれぬものかと、何度星に願ったか。
ミヨ。
我は初めて、産まれて良かったと思っている。
一回りもしていない僅かな時間であったが。
出会えてよかった。
我は、幸せ者だ・・・。
鬼面は怒りに満ちているものではなかった。
誰かと笑い、
誰かと悲しみ、
共に幸せを分かち合う、
人を想う気持ち。
生まれすら疎まれたその命を。
この子に捧げたいと。
カグツチは願った。
鬼面から流れた一滴の雫が、横たわる少女の口に落ちる。
「ぉ・・・っかあ・・・・・・」
唇を濡らした少女が微笑む。
「もっと・・・くださいな・・・・・・」
朝日に照らされた修羅の石像は、何も返すことはなかった。
一滴、また一滴。
少女の口に雫が落ちる。
天からの恵み。
雲一つない空から、雨が降り始めた。
「あちゃ~すっかり寝ておったわ・・・。あやつ、許してはくれるだろうか・・・?」
不安げな龍神は一人、村の火が消えることを待った。
とある山奥。
霧に濡れた線香の煙が一つ。
石像の前に手を合わせている者がいた。
あの日のことは、今も昨日のことのように覚えている。
珍しく熟睡していた私を叩き起こした両親は、山へ逃げろと小刀を押し付け、家から追い出した。
寝おきの私はなにがなにやらで分からなかったが、悲鳴と何かが燃える音だけは、山の中でもはっきりと聞こえた。
父と母の声も聞こえたが、焼け落ちる家屋の音に沈んでいった。
私は村に戻った。
何度膝を擦りむこうと、火の粉が降りかかろうと気にしなかった。
鼻を抑えたくなる鉄の臭い。
私は血濡れの臭いと下衆な声に切りかかった。
何かを刺した感覚はあったが、すぐに身を絶つ痛みに襲われた。
声を出すことすらままならず、ゆっくりと凍っていく手足を感じ、私は眠りについた。
目覚めた私が光を手にし、初めて見た光景。
最初から何もなかったかのように、融けぬ薄氷に覆われた大地だった。
確かに村には火の手が上がっていた。
焼け跡の一つも無いとはおかしな話だった。
いや、それ以上に。
私が目覚めたことが何よりも不思議だった。
子供ながらに死を感じたあの日の夜。
二度と目覚めることはない。
後悔と苦痛に沈んだあの瞬間。
目を焼く朝日に照らされ、私は息を吹き返した。
ゆっくりと目を開ける。
目の前には怒りを露わにした鬼面の石像。
白く濁った盲目は、今や焔を宿した緋色に輝いていた。
首飾りに目をやる。
魚ではない、碧く冷たい鱗。
誰かからの贈り物。
私を救ってくれたのは、これの持ち主だろうか。
いや、違う。
闇に沈んでいく意識の中、喉を潤したあの一滴。
打ち出した刀のように熱く、しかし山奥を流れる湧水のように痛みが引いていった、あの不思議な雫。
この首飾りからは、その相反する熱は感じられない。
村の人間ではない誰かから授かったものだが、だがその誰かを、思い出せない。
声も、繋いだ手の熱も。
全て燃えて尽きてしまった。
だが確かに、その誰かは居た。
多くを教えてもらったあの時間。
何にも代え難い、幸せな刻。
その熱だけは、消えてはいなかった。
私の傍にあったこの石像からは、同じ熱を感じるのだ。
修羅の顔に、語りかけるように言葉を紡ぐ。
「私は、旅に出ます。お父とお母に負けない、日ノ本一番の刀匠になりまする」
差し込んだ朝日に照らされた石像は、何も返すことはなかった。
「それでは、行ってまいります。お達者で」
立ち去る間際に放った言葉に、意味などなかった。
だがこうして、別れを告げたほうがいいと。
ただそう思っただけだった。
木枯らしに揺られ、線香はその火を強める。
琥珀色の光が鬼面を照らし、映した影は遠ざかる少女の背に微笑んでいた。
まるで門出を、祝うかのように。
かぐつち ~完~




