表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢に転生したけど断罪が怖くありません  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第9話 私は記録を整理しただけです


 王前会議場の扉は、想像していたよりもずっと重かった。


 樫の一枚板に鉄の装飾が打ちつけられ、両脇に衛兵が立っている。扉の向こうから、微かに人の気配が漂ってくる。国王陛下。王妃殿下。枢密院の老臣たち。この国の最高権力が一堂に会する場所。


 脇に抱えた帳面──苦情記録簿の副本──を、もう一度握り直した。表紙がリゼットの汗で少し湿っている。今朝、「絶対に離さないでください」と泣きそうな顔で手渡してくれた。


 聖女認定試験は明後日。今日を逃せば、もう間に合わない。


(さて、と)


 息を吸った。吐いた。


 前世のクレーム対応二十年。年間三千件のクレーム。怒鳴る客、泣く客、脅す客。全部切り抜けてきた。──でも、一国の王の前で報告するのは初めてだ。


「──マリアンヌ」


 背後から、声がした。


 低い声。聞き間違えるはずがない。五日前に扉の向こう側へ消えた、あの声。


 振り返った。


 ライナルト卿が、廊下に立っていた。


 灰色の軍服。まっすぐな背筋。温度のない──いや。


 違う。


 今日の灰色の瞳には、温度がある。


 見たことのない色だ。六週間、毎日見ていた瞳の中に一度も見なかった光が、そこにある。


「護衛ではなく、一人の騎士として此処にいる」


 言葉が少ない人の、少ない言葉。だからこそ一つ一つが重い。


「それでも拒むか」


 心臓が、跳ねた。


「……巻き込まれますよ」


 声が掠れた。五日前に初めて震えた声が、また少し揺れている。


「巻き込まれたいと言っている」


 ──あ。


 この人は今、「任務」とも「規則」とも「団長命令」とも言わなかった。「騎士として」でもない。ただ「巻き込まれたい」と。自分の意思だけで、ここに立っている。


(これは──仕事ではない、のかもしれない)


 初めて、そう思った。


 思って──それ以上は、考えないことにした。今は、会議場の向こうに集中しなければならない。


「……来てください」


「ああ」


 二人で、扉の前に立った。衛兵が取っ手に手をかける。


 重い樫の扉が、ゆっくりと開いた。



 王前会議場は、円形の石造りの広間だった。


 天井が高い。正面に王の座。その右手に王妃殿下。左右の弧を描く長卓に、枢密院の老臣たちが並んでいる。


 そして──対面に。


 セドリック・ヴァレンティーノ殿下。ヴィクトル・ロサリオ卿。エルミーラ・フォンティーヌ嬢。


 三人が、こちらを見ていた。


 セドリック殿下は怒りを隠さない目で。エルミーラ嬢は静かな、計算する目で。ヴィクトルだけが──無表情だった。表情を消すのが上手い人間の、上手い無表情。前世のクレーム対応で何度も見た顔だ。


 王妃殿下が口を開いた。


「宮廷調停官マリアンヌ・シュタルク。調停案件の報告を許可する。──始めなさい」


 一礼した。深く、正確に。四十五度。


 それから、帳面を開いた。


「恐れ入ります。宮廷調停官として、着任以来の調停案件の処理報告を申し上げます」


 声は、震えていない。手も、震えていない。


 ──嘘だ。手は少し震えている。でも帳面を持つ力で隠した。背中の一歩後ろに、灰色の軍服の気配がある。それだけで、指先の震えが半分になった。


「報告の過程で、複数の案件に共通する不審な事実が確認されましたので、併せてご報告いたします」


 ページを繰る。


「まず、聖女候補エルミーラ・フォンティーヌ嬢に関する被害訴えについてです。着任後に遡及調査した結果、過去一年間にエルミーラ嬢が関与する被害訴えは計十二件。うち全てが、各月の第一週に集中しておりました」


 円卓の老臣たちが、僅かにざわめいた。


「被害が偶発的であれば、時期に偏りは生じません。全件が月初に集中する確率は──前世の、いえ、統計的に見て極めて低いと言わざるを得ません」


(危ない。また前世って言いかけた。集中しろ)


「次に、着任三週間後にエルミーラ嬢が私に対し『脅迫を受けた』と王妃殿下に訴えた件について。エルミーラ嬢が主張された日時において、私は東棟の調停室で商権紛争の調停に出席しておりました。出席記録と合意書の署名時刻が、ここに記録されております」


 帳面の該当ページを示した。書記官が身を乗り出して確認する。


「さらに、日時を修正した再主張についても、ガス灯の油の補充記録と侍女の証言により、当該時刻に執務室を離れていないことが確認されております」


 エルミーラ嬢を見た。


 泣いていない。涙が、出ていない。──あの涙の達人が、涙を使わない。ここが、感情操作の通じない場であることを理解しているのだ。翡翠色の瞳が、凍りついたようにこちらを見ている。


「最後に、断罪の根拠となった被害報告書について」


 ここからが、本題だ。


「私の父、シュタルク公爵が独自に取り寄せた被害報告書の写しを確認いたしましたところ、二点の不審が認められました。一つ、学園事務局の受付簿に、被害報告書の受理記録が存在しません。受理印はありますが、受付簿との照合ができない状態です」


 枢密院の老臣の一人が、眉を寄せた。


「二つ──証人二名の署名の筆跡が、問題です」


 もう一枚の書類を取り出した。


「こちらは、ロサリオ侯爵嫡男ヴィクトル・ロサリオ卿が宮廷の調停局に提出した意見書です。──この署名の筆跡と、被害報告書の証人署名の筆跡を、ご比較いただきたく存じます」


 二枚の書類を並べて、円卓の中央に置いた。


 沈黙。


「王妃殿下。鑑定魔法による照合を申請いたします」


 王妃殿下が頷いた。


 鑑定官が進み出た。白い手袋。集中した表情。二枚の書類の上に手をかざすと、淡い青白い光が走る。


 十秒。二十秒。


「──一致。両書類の当該部分の筆跡は、同一人物のものと鑑定いたします」


 鑑定官の声が、広間に落ちた。


 ヴィクトル・ロサリオが──目を閉じた。無表情のまま。声も出さず。ただ、目を閉じた。


(あなたは、分かっているんですね。自分と同じ「記録」の武器で負けたことを)


 セドリック殿下が立ち上がった。


「嘘だ! そのようなものは──ヴィクトルが報告書を偽造するはずが──」


「殿下」


 王の声が響いた。初めて聞く声だった。低く、重く、広間の石壁を震わせるような。


「卒業式典の議事録を、此処に」


 書記官が議事録の原本を差し出した。王がそれを開き、一箇所を指で示す。


「『二度と、私に関わるな』──殿下、これはお前の言葉だな」


 セドリック殿下の唇が開いた。閉じた。何も出てこなかった。


「関わるなと言っておいて、管理下に戻すと宣言する。断罪を命じた相手に、調査もせず。被害報告書は偽造。──これが、王位継承第一位のすることか」


 広間が沈黙に沈んだ。


 王が裁定を読み上げた。


 セドリック・ヴァレンティーノ。王位継承順位を第一位から第三位に降格。地方での研修を命じる。


 ヴィクトル・ロサリオ。被害報告書の偽造により、侯爵位の継承権を停止。謹慎を命じる。


 エルミーラ・フォンティーヌ。虚偽の訴えおよび自作自演により、聖女候補の資格を剥奪。


 一つ一つの言葉が、石の広間に落ちていった。


 セドリック殿下は椅子に崩れ落ちるように座った。エルミーラ嬢は微動だにしない。ヴィクトルは目を閉じたまま。


 終わった。


「シュタルク嬢」


 王妃殿下の声が、私に向けられた。


「報告、ご苦労であった」


 私は帳面を閉じて、一礼した。


「恐れ入ります。──私は記録を整理しただけです」


 頭を上げた時、王妃殿下の口元が僅かに緩んでいた。「褒めてはいない、事実だ」と言いそうな顔。


 踵を返す。会議場の扉に向かう。


 一歩後ろに、灰色の軍服の足音がついてきた。



 宮廷の廊下は、夕暮れの光で橙色に染まっていた。


 会議場を出てから、しばらく無言で歩いた。足音が二つ、石の床に響いている。


 手が震えている。──今度こそ、本当に震えている。会議中は抑え込んでいた緊張が、一気に溢れ出してきた。


「ヴェルナー卿」


「何だ」


「……ありがとうございます」


 立ち止まった。振り返る。


 ライナルト卿は私の一歩後ろに立っていた。灰色の瞳が、夕日を受けて少しだけ温かい色をしている。


「礼を言うのは俺の方だ」


(……え?)


「何に対してのお礼ですか?」


 ライナルト卿は答えなかった。代わりに、半歩だけ距離を詰めた。


「一つ、報告がある」


 報告。この人の口から出る言葉は、いつだって業務用語だ。報告。任務。承知した。──でも今日は、どの言葉にも、いつもと違う重さが乗っている。


 ライナルト卿が口を開きかけた。


「団長!」


 廊下の向こうから、走ってくる足音。


「団長! 緊急の案件です! 西棟の──」


 ハンス副団長だった。息を切らせて駆けてくる。ライナルト卿の足が止まった。開きかけた口が、閉じた。


「……行く」


 短い。いつもの短さ。


 でも──振り返った一瞬の目が、「まだ終わっていない」と言っていた。


 足音が遠ざかる。二つの軍靴が廊下を走り去って、角を曲がって消えた。


 一人になった。


 廊下に、夕日だけが残っている。


(報告って、何だったんだろう)


 分からない。でも、明日も会えるだろう。護衛の任務は解かれたけれど──あの人は今日、「護衛ではなく」ここに来た。なら、明日もきっと。


 窓から見える中庭の菩提樹が、夕風に揺れている。葉が茂って、着任した日とは見違えるほどだ。


 手の震えが、少しずつ治まってきた。


 帳面を胸に抱えた。リゼットの筆跡が詰まった、二冊目の記録簿。前世の二十年と、今世の七週間の全てが、ここに入っている。


 ──お疲れ様です、片桐統括課長。本日の案件、処理完了です。


 唇が、勝手に笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
王が自分の子供に「殿下」と呼びかけることはあり得ません。 「殿下」は敬称です。
些細な点ではありますが「一歩後ろに、灰色の軍服の足音がついてきた。」という表現に違和感を覚えます。 足音と続く場合は軍服よりも軍靴のほうが表現としてはポピュラーではないでしょうか。 作品としてあえて軍…
殿下は敬称なので、王が息子を公式で呼ぶ際にも使わないと思われます。名前そのままか、名前〜王子、第一王子などとなるのではないのでしょうか
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ