第8話 あなたはもう十分です
護衛解任の辞令は、朝食の前に届いた。
封蝋は近衛騎士団のものではなく、宮廷人事局のもの。公式の書式に、公式の印。差し替えも偽造もない、正規の命令書だった。
『宮廷調停官マリアンヌ・シュタルクに配属された護衛任務(近衛騎士団長ライナルト・ヴェルナー)を、本日付をもって解任する。今後の調停官の安全管理は、王妃殿下管轄の宮廷警備に移管すること』
読み終えて、静かに命令書をテーブルに置いた。
(……やってくれたな)
王子派閥。セドリック殿下が直接動いたのか、ヴィクトル・ロサリオが裏で根回ししたのか。どちらにしても、近衛騎士団の人事権を使ってきた。正規の手続きを踏んでいる以上、覆すのは難しい。
王妃殿下なら抗議できるかもしれない。でも──。
ゲームの記憶が、頭の奥で灯った。
暗い画面。テキストウィンドウ。攻略対象の一人──近衛騎士団長の結末。
聖女ルート。近衛騎士団長はヒロインの味方になり、権力者の陰謀に巻き込まれ、左遷される。
王子ルート。近衛騎士団長はヒロインを庇い、王子の怒りを買い、地方の辺境に飛ばされる。
隠しルートの存在は知らない。一周しかプレイしていないから。でも、攻略サイトの情報は少し覚えている。──どのルートでも、近衛騎士団長は不遇の結末を迎える。
どのルートでも。
(ライナルト卿が、あの結末を辿るのを──見たくない)
命令書を畳んだ。指先が冷たい。
あの人はもう十分すぎるほど助けてくれた。菩提樹茶を淹れてくれた。歩幅を合わせてくれた。剣を抜かずに守ってくれた。上着をかけてくれた。王子の前に立ってくれた。
これ以上、巻き込んではいけない。
◇
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。
ライナルト卿は、扉の横のいつもの位置に立っていた。灰色の軍服。まっすぐな背筋。温度のない灰色の瞳。六週間、毎日この場所にいた人。
「ヴェルナー卿。お話があります」
「何だ」
いつもの二文字。いつもの声。
命令書を差し出した。
ライナルト卿はそれを受け取り、一読した。表情は変わらない。──変わらない、はずだった。
目が。
灰色の瞳が、ほんの一瞬──揺れた。水面に小石が落ちたような、微かな波紋。それだけ。すぐに消えた。
「……承知した」
沈黙が長かった。「任務だ」なら一秒で返ってくる。「問題ない」でも二秒。けれど今の「承知した」は、五秒以上の沈黙の後だった。
私は、もう一つ言わなければならないことがあった。
命令書を見せるだけなら、ここで終わっていい。人事局の辞令だ、と告げるだけでいい。でも──それでは、足りない。
「ヴェルナー卿。あなたはもう十分です」
声が、出た。
「これ以上は、私の問題です。あなたを──巻き込むわけにはいきません」
ライナルト卿は何も言わなかった。
灰色の瞳が、私を見ている。無表情。いつもの無表情。けれどその奥に、何かがある。読めない。この人の表情を読むのは、六週間経ってもまだ難しい。
「……承知した」
同じ言葉を、もう一度。
踵を返した。軍靴が石の床を叩く。一歩。二歩。三歩。
背中が遠ざかる。灰色の軍服。広い肩。切り揃えた暗い髪。六週間、毎日見ていた背中。
扉が閉まった。
廊下に、足音が消えた。
──静か、だ。
右手を見た。震えていない。手は、今日に限って震えていない。
代わりに。
(……あれ)
声が。
「あなたはもう十分です」と言った時の、あの声が──震えていた。
手は震えなかった。声が、震えた。
六週間、一度も震えなかった声が。卒業式典の断罪でも、王子との対面でも、エルミーラ嬢の再告発でも震えなかった声が。
今、初めて。
(……なんで)
分からない。分からないけれど、喉の奥が痛い。菩提樹茶の温度を思い出す。歩幅が揃う靴音を思い出す。中庭で肩にかかっていた上着の重さを思い出す。
(──やめなさい、片桐真帆。これは正しい判断だ。あの人を巻き込んではいけない。ゲームの知識がそう言っている)
目を閉じた。三回、深く息を吸った。吐いた。
開ける。
扉の横に、誰もいない。
六週間で初めて見る、空っぽの壁。
◇
異変が起きたのは、その夜だった。
夕食後に執務室に戻ると、引き出しが半開きになっていた。
朝、出かける時には閉めたはずだ。鍵はかけていない──宮廷の官舎に鍵の習慣がなかったから。
(まさか)
引き出しを開ける。中身を確認する。父の手紙。調査資料。文具。──苦情記録簿が、ない。
一冊目も、二冊目も。
「お嬢様!」
リゼットが息を切らせて飛び込んできた。
「やっぱり──来ていました。私が洗濯場に行っている間に、見知らぬ使用人がこの階の廊下を歩いていたと、隣室の侍従が」
「記録簿が消えている」
リゼットの顔が青ざめ──そして、すぐに変わった。青ざめた顔の中に、別の色が浮かぶ。
「お嬢様。副本は無事です」
言い切った。リゼットの声には、怯えの欠片もなかった。
「あの日、お嬢様にお命じいただいた通り、副本は私の部屋の衣装箪笥の二重底に保管してあります。一字一句、書き写しました。──それから」
リゼットが、エプロンのポケットから小さな帳面を取り出した。
「原本は、昨日のうちに移しておきました」
「……え?」
「ロサリオ家の使用人が西棟の事務局を嗅ぎ回っていると報告した時、お嬢様が記録簿の安全管理を気にされていたので。──念のため、原本は私の部屋に、引き出しにはダミーの帳面を入れておきました」
呆気に取られた。
(この子──私より先に動いていた)
「リゼット。あなた、いつからそんなに──」
「お嬢様の侍女ですから」
胸を張った。小柄で、そばかすだらけで、涙もろくて──でも、この子は強い。前世の私に欲しかった後輩だ。
「それで、原本と副本を照合していた時に──一つ、気になるものを見つけました」
リゼットの声が低くなった。
「お嬢様がいつも筆跡を気にされていたので、私も癖がついてしまって。卒業式典の議事録の写しと、この前お父様からいただいた被害報告書の写しを並べて見ていたら──」
小さな帳面を開き、二つの書類の写しを隣に並べた。
「被害報告書の証人欄の署名と──こちらを見てください。ロサリオ卿が調停局に提出した商権に関する意見書です。日付はお嬢様が着任されてから二週間後のもの」
二枚の紙を、ガス灯の下で見比べる。
被害報告書の証人欄。二名の署名のうち一名──角張った文字の中に、特徴的な癖がある。「r」の末尾が鋭く跳ね上がり、「t」の横棒が右に長く伸びる。
ロサリオ卿の意見書。署名欄のヴィクトル・ロサリオの名前。「r」の末尾が鋭く跳ね上がり、「t」の横棒が右に長く伸びる。
(……一致する)
「お嬢様。この筆跡──被害報告書の証人署名と、ロサリオ卿の書簡が一致します」
心臓が鳴った。
被害報告書は断罪の根拠だ。その証人署名がヴィクトル・ロサリオの筆跡と一致するなら──証人署名は偽造。偽造の実行犯は、ヴィクトル・ロサリオ。
(これで──王前会議に持ち込める)
苦情記録簿の日時データ。エルミーラ嬢の証言矛盾。セドリック殿下の公式発言のブーメラン。被害報告書の受付簿との不一致。そして──筆跡の一致。
全部、揃った。
記録は嘘をつかない。前世で二十年かけて信じてきたことが、今──証明されようとしている。
「リゼット」
「はい」
「王妃殿下に面会を申し込んで。伝える内容は一つだけ──『調停案件の報告がございます。王前会議への出席をお許しいただきたい』」
リゼットの目が光った。
「すぐに参ります!」
小走りで出ていくリゼットの足音が廊下に響いて、消える。
一人になった執務室。
扉の横に、誰もいない。空っぽの壁。灰色の軍服の影はもうない。
菩提樹茶のカップに手を伸ばした。──冷めている。ここ数日、お茶がいつも冷めている。前は、気づくと温かいお茶が机の端に置かれていたのに。
(「任務だ」って言ってたっけ、あの人)
喉の奥が、また少し痛んだ。
でも。
今は、泣いている場合ではない。
記録簿の副本を開いた。リゼットの丸い、丁寧な筆跡が並んでいる。一字一句、漏れなく。
あと少し。
王前会議まで、あと少し。




