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悪役令嬢に転生したけど断罪が怖くありません  作者: 秋月 もみじ


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第7話 書面にて申請ください、殿下


「マリアンヌ。──いや、元婚約者よ」


 廊下の向こうから歩いてきたのは、金の髪に蒼い瞳の青年だった。


 セドリック・ヴァレンティーノ殿下。この国の第一王子。そして──卒業式典の日に私を断罪し、婚約を破棄した人。


 五週間ぶりに見る顔だ。


 両脇に側近を二名従えている。廊下の幅を塞ぐように歩いてくる。すれ違うのではなく、私の前で止まるつもりの足取り。


(……来たか)


 社交界で噂が広がっていることは知っている。「断罪された令嬢が有能らしい」という話。それが殿下の耳に入れば、何らかの反応があるだろうと思っていた。


 ただ、こんなに直接的に来るとは。


「久しぶりだな。随分と──派手に動いているようだが」


 殿下の声は相変わらず講堂の天井まで届きそうな声量で、しかし今は聴衆がいない。廊下に響いて、石壁に跳ね返る。


「お久しぶりでございます、殿下」


 一礼した。浅く、正確に。背筋はまっすぐ。


「宮廷の調停案件を処理しているだけですが、何かご不便をおかけしておりましたでしょうか」


「不便ではない。──問題だ」


 殿下の蒼い瞳が、私を上から見下ろした。あの日と同じ目だ。正義を確信している目。自分が正しいと疑わない目。


「断罪の仮決定を受けた者が、宮廷で影響力を持ち始めている。これは秩序の問題だ。──元婚約者として、管理下に戻す必要がある」


 管理下に戻す。


(……管理下?)


 前世のクレーム対応で「上の者を出せ」と言われた時の気持ちに似ている。いや、それ以上に理不尽だ。「二度と関わるな」と言った相手が、五週間後に「管理下に戻す」と言ってくる。


 クレーム対応の鉄則──感情を飲み込む。声のトーンを下げる。事実で返す。


「恐れ入ります、殿下。一点だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」


 殿下の眉が、僅かに動いた。あの日と同じ反応だ。被告が口を開くことを想定していない顔。


「卒業式典の場で、殿下はこうおっしゃいました。──『二度と、私に関わるな』と」


 殿下の顔色が変わった。


「この発言は式典の公式議事録に記録されており、書記官の署名入りで学園事務局に保管されております。断罪の仮決定と同日に、殿下ご自身の口から発せられた公式な宣言です」


 廊下が、静かになった。


 側近の二人が、顔を見合わせている。殿下の拳が──握り締められていた。


「それ、は──」


「つまり殿下。『関わるな』とおっしゃったご本人が、『管理下に戻す』とおっしゃるのは──公式記録との整合が取れません。殿下のご名誉のためにも、ここは慎重にお進めになるのがよろしいかと存じます」


 卒業式典の日にも使った言い回しだ。「殿下のご名誉のため」。逃げ道を残す。追い詰めない。追い詰めれば王子は暴走する。──前世の経験が、そう告げている。


 殿下の蒼い瞳に、怒りと困惑が混じった。口を開きかけた。


「殿下」


 低い声が、割り込んだ。


 ライナルト卿だった。私の斜め後ろ──護衛の定位置から、一歩だけ前に出ている。


「調停官への公務中の接触は、王宮の管理規則に基づき、書面にて事前に申請いただく必要がございます」


 丁寧語だった。ライナルト卿の口から丁寧語を聞いたのは初めてかもしれない。普段は「任務だ」「問題ない」「不要だ」の三語で生活している人だ。


 王子に対して敬語を使っている。──でも、その声は丁寧であればあるほど、冷たかった。氷の下を流れる水みたいに、表面は滑らかで、芯が凍っている。


「近衛騎士団長──ヴェルナー、か。たかが護衛風情が王子に意見するとは」


「規則を申し上げております。書面にて申請ください、殿下」


 同じ言葉を、同じ声で。


 ライナルト卿の表情は変わらない。灰色の瞳は微動だにしない。ただ──拳が、白い。指の関節が浮き出るほど、強く握り締めている。


(……あの拳)


 私は見てしまった。この人は無表情で、声も震えないし、姿勢も崩れない。でも拳だけが白い。──何に対して、あんなに力を入れているのだろう。王子に対する緊張だろうか。


 殿下は数秒間、ライナルト卿の目を見つめた。それから、唇を噛んで踵を返した。


「……覚えておけ」


 捨て台詞。側近を引き連れて、来た方向へ去っていく。足音が角を曲がって消えるまで、私は微動だにしなかった。


 消えた。


 肺の底から、長い息を吐いた。


「……ありがとうございます、ヴェルナー卿」


「規則を述べたまでだ」


 いつもの声に戻っていた。丁寧語は跡形もない。拳は──いつの間にか開いている。


(この人、王子相手でも本当にブレないな……)


 感心する。いつか聞いた「抜けば斬る。斬る必要はなかった」の言葉が蘇った。あの哲学は、剣だけでなく言葉にも適用されるらしい。抜けば斬る。だから丁寧語という鞘に入れたまま、切っ先だけを見せる。



 執務室に戻ると、リゼットが目を丸くした。


「お嬢様、お顔が真っ青です」


「そう? 気分は悪くないんだけど」


「嘘です。お茶を淹れます」


 有無を言わさず給湯室に消えるリゼットの背中を見送りながら、椅子に座った。手が震えている。いつも通り。本番が終わった後に来る。


 リゼットが菩提樹茶を持ってきてくれた。一口飲む。温かい。いつの間にか茶棚が菩提樹茶だけで埋まっているのは、リゼットの仕業に違いない。


「お嬢様。殿下と廊下でお会いになったと──もう噂が回っています」


「速い」


「『王子殿下が元婚約者に関わろうとしたが、ご自分の公式発言で退かれた』と。東棟の侍従たちの間では『殿下のお言葉がご自分を縛った』という表現で──」


(噂の伝播速度、本当に前世のSNSを超えてるな)


「好意的な噂?」


「どちらかといえば。殿下の信用に──少し、傷がついたようです。『断罪を命じておいて、管理下に戻すとは矛盾している』と」


 ざまぁ、と思うべきなのかもしれない。でも、不思議とそういう気持ちにはならなかった。ただ──疲れた。あの蒼い瞳と向き合うのは、やはり消耗する。


「リゼット。一つ聞いてもいい?」


「何でしょう」


「ヴィクトル・ロサリオ卿について、最近何か動きはある?」


 リゼットの表情が引き締まった。


「直接的なものは確認できていません。ただ──ブレンナー男爵の件以来、ロサリオ侯爵家の使用人がこの階に来なくなりました。代わりに、西棟の事務局周辺で見かけるようになったと、清掃の方が言っていました」


 西棟の事務局。──調停案件の公文書が保管されている場所だ。


(なるほど。直接この執務室を嗅ぎ回るのをやめて、公文書の方から攻めようとしている?)


 苦情記録簿を開いた。


 ヴィクトル・ロサリオ。


 前世の記憶を探る。ゲーム『星詠みの聖女』で、ヴィクトル・ロサリオは──王子の側近B。セリフは数行。攻略に関わる場面は一つもない。名前付きのモブ、というのが正確な位置づけだった。


 なのに。


 この世界では、ブレンナー男爵を使嗾し、エルミーラ嬢の背後で動き、公文書を調べさせ、記録簿の排除を画策している。ゲームのヴィクトル・ロサリオとは、まるで別人のように。


(ゲームにいなかったキャラじゃない。ゲームに「いたけど描かれなかった」キャラだ)


 背筋が冷たくなった。


 ゲームの知識は、メインストーリーの表面しか教えてくれない。攻略対象の性格と主要イベントは覚えている。でも──物語の裏側で何が起きていたかは、画面の外だ。知りようがない。


 ヴィクトルの政治的野心。ロサリオ侯爵家の勢力拡大計画。シュタルク公爵家の利権を付け替える謀略。──そんなもの、乙女ゲームのシナリオに書くわけがない。


(私の知識は、ここから先を教えてくれない)


 羽ペンを置いた。



 深夜。


 ガス灯の火が揺れる執務室で、一人きりの机に向かっていた。ライナルト卿は当直の交代で去り、廊下には王妃管轄の宮廷警備が立っている。


 記録簿の最新ページを眺める。ブレンナー男爵。エルミーラ嬢の矛盾。セドリック殿下の発言記録。調停案件の処理履歴。ロサリオ家使用人の目撃記録。


 全部、点だ。


 点と点を繋ぐ線が、まだ足りない。ヴィクトルが何を企んでいるのか。被害報告書の偽造──父の調査で不審な筆跡と受付簿の不一致は分かった。でも、「誰が」偽造したのかを証明する証拠がない。


(ゲームの知識に頼るのは、もうやめよう)


 帳面を閉じて、目を閉じた。


(私には記録がある。前世の二十年で積み上げた「記録を読む力」がある。ゲームの地図は大通りしか載っていなかった。でも──路地裏の地図は、自分で描ける)


 苦情記録簿を、もう一度開いた。


 ページの端に、小さく書き足す。


「V・R卿関連:行動パターンの照合。公文書の閲覧記録。筆跡サンプルの確保」


 知らない展開が始まっている。でも、記録は嘘をつかない。


 窓の外は真っ暗で、春の夜風が菩提樹の枝を揺らしている。聖女認定試験まで、あと二週間と少し。


 残り時間は少ない。けれど──手元にあるものは、もうゼロではない。


 記録簿と、父の信頼と、リゼットと。それから、廊下に立っていた灰色の軍服の背中。あの白い拳の理由は、まだ分からないけれど。


 分からないことは、記録しておく。いつか、分かる日が来る。


 ──前世の私は、それを二十年かけて学んだ。

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