第6話「団長、それは嫉妬ですよ」
執務室の卓上に、花が増えた。
白い野薔薇。薄紫の鈴蘭。名前の知らない黄色い小花。どれも控えめな花束で、添えられた名刺には貴族家の紋章が押されている。
着任して一ヶ月。調停案件の処理数は十四件。うち解決済みが十一件、継続調査が三件。苦情記録簿は二冊目に入った。
(前世のお客様相談室の月間処理件数が百二十件だったことを思えば、まだ余裕がある……いや、あっちは電話とメールがあったけど、こっちは全部対面だからな。比べるものじゃない)
花は、顧問契約の申し出に添えて届いたものだ。
水利権紛争の解決を皮切りに、商権調停、境界線紛争、婚姻契約の不履行案件。一件ずつ片づけるごとに「あの断罪された令嬢が」という前置きが消えていった。代わりに「あの調停官が」と呼ばれるようになった。リゼットの情報によれば、社交界のお茶会でも「シュタルク嬢に頼めば話が早い」という評判が回り始めているらしい。
(お茶会ネットワーク、相変わらず前世のSNSより速い)
「シュタルク嬢! 今日もお時間をいただきありがとうございます!」
明るい声とともに、執務室の扉が開いた。ノックはあった。ブレンナー男爵とは大違いだ。
アルベルト・シェーンベルク。レーゲンス伯爵家の嫡男。小麦色の髪に碧い目、二十代前半の──まあ、率直に言えば爽やかな好青年だ。ここ一週間で三度目の訪問。
「本日は領地の穀物取引の件で、先日いただいた助言を反映した契約書の案をお持ちしました」
「拝見します。どうぞお座りください」
アルベルト殿は嬉しそうに椅子に座った。書類を広げながら、前のめりに身を乗り出してくる。
「いやあ、先日の助言は本当に目から鱗でした。『取引条件を先に決めるのではなく、双方の困りごとを先に出し合え』というのは、我が領の商会にも伝えましたよ。商会長が感激していました」
「それは前世の──いえ、以前から考えていた方法でして。お役に立てたなら何よりです」
(危ない。前世って言いかけた)
契約書の案を確認する。なかなか筋がいい。一箇所だけ違約金の条項が曖昧だったので指摘すると、アルベルト殿は大きく頷いた。
「さすがです。──本当に、シュタルク嬢には感謝しきれない」
そう言って、アルベルト殿は私の右手を両手で包んだ。
温かい手。大きくて、仕事をしている人の手。目が真っ直ぐこちらを見ている。
(……あ、この人、礼儀正しいなぁ。伯爵家の教育がしっかりしているんだろう)
「調停官殿」
割り込むように、低い声がした。
扉の横。ライナルト卿だ。
「次の案件の時間だ」
時計を見た。──確かに、次の案件まであと十分。時間の指摘としては正確だ。
「あ、すみません。アルベルト殿、本日はここまでで。修正案ができましたらまたいらしてください」
「ぜひ! また近いうちに!」
アルベルト殿は名残惜しそうに──本当に名残惜しそうに立ち上がり、深々と頭を下げて出ていった。
扉が閉まる。
ライナルト卿は元の位置に戻った。──ように見えたが、何かが違う。
(あれ。近い?)
いつもは扉の横の壁に背を預けている。そこから私の机まで、だいたい六歩の距離。でも今日は、五歩半。半歩分、近い。
(気のせいかな。いや、でも──)
「ヴェルナー卿、次の案件って具体的にどなたでしたっけ」
「クラウゼ子爵家の相続問題だ」
硬い。声が、いつもより硬い。「任務だ」の時の無感情とは違う。何か──怒っている?
(私、何かやらかした?)
分からない。でもライナルト卿は口を利かないので聞きようもない。
首を傾げながら執務室を出ると、廊下の角で声が聞こえた。
「──団長、最近やけに歩くのが遅くなりましたね」
聞き覚えのない、明るい声。
「関係ない」
聞き覚えのある、低い声。──ライナルト卿だ。
「いやいや関係ありますって。報告書の提出も早くなったし。あ、もしかして団長、それは嫉妬ですよ? あの伯爵の坊ちゃんが調停官殿の手を握ったの、見てましたよね?」
「──黙れ、ハンス」
足音が遠ざかっていく。
(嫉妬? ……誰が、誰に?)
ハンス、というのはライナルト卿の副官だろう。名前は聞いたことがある。近衛騎士団の副団長。
嫉妬。歩くのが遅い。報告書の提出が早い。──何の話だろう。仕事の話? 騎士団内の人間関係?
(まあ、組織にはいろいろあるよね。前世のクレーム対応室も、係長と主任の仲が悪くて大変だったし)
結局よく分からないまま、次の案件の準備に取りかかった。
◇
午後三時。宮廷の応接室。
向かいの椅子に座った人物の顔を見るのは、卒業式典以来だった。
シュタルク公爵。ゲオルク・シュタルク。──私の父。
角張った顎。深い皺が刻まれた眉間。銀色に霜がかかり始めた黒髪。座っているだけで部屋の空気が重くなるような威圧感は、公爵という地位だけでは説明できない。この人自身が持って生まれたものだ。
お茶が運ばれてきた。二人とも、手をつけない。
(……緊張している)
前世で修羅場を何百回くぐっても、父の前では肩が強張る。不思議なものだ。断罪の時は声が震えなかったのに。
「マリアンヌ」
「はい、お父様」
──あ。「お父様」と呼べた。卒業式典の後、使者が来た夜には呼べなかった名前だ。
公爵は懐から書類を取り出した。折り目がついていて、何度も開いては閉じたことが分かる。
「お前の断罪について、独自に調べた」
心臓が跳ねた。
「被害報告書の写しを取り寄せた。署名を確認したところ──証人二名の筆跡に、不審な点がある」
(筆跡──)
ブレンナー男爵の件で、宮廷の公文書の筆跡パターンに慣れ始めていた私の脳が、瞬時に反応した。
「加えて、被害報告書の受理日と、学園事務局の記録とが合致しない。受理印はあるが、事務局の受付簿には該当日の記録がない」
受付簿に記録がない。──偽造の可能性が高い。
「つまり──」
「偽造を断定はできん。だが、不正の可能性は否定できない」
公爵は書類をテーブルの上に置いた。厚い指が、紙の端を押さえている。
沈黙。
時計の針が動く音がやけに大きい。窓から差し込む午後の光が、テーブルの上に四角い影を落としている。
「あの夜、使者を送った」
低い声。
「仕送りを止める、とだけ伝えさせた。──お前の言い分を聞きもせずに」
呼吸が、浅くなる。指先が冷たい。
「公爵として、政治的な判断を優先した。王子殿下の断罪に正面から異を唱えれば、公爵家そのものが標的になる。そう判断した」
分かっている。分かっていた。だから恨んではいない。──恨んではいない、つもりだった。
「だが」
父の声が、変わった。公爵の声ではない。もっと低くて、もっと掠れた、ただの父親の声。
「だが、娘を信じないことの言い訳にはならん」
目の奥が、じわりと熱くなった。
「マリアンヌ。──お前を信じる」
「信じたい」ではない。「信じる」。
五文字が、十文字になった。たった五文字の差。でもその五文字の間に、この人は自分で調べて、自分で確かめて、自分の判断が間違っていたかもしれないと認めた。
(……お父様らしいなぁ。遠回りで、不器用で、でも──ちゃんと、来てくれた)
「ありがとうございます、お父様」
声は震えなかった。手は──少し、震えた。
でも今日は、それでいい。
公爵は頷いた。目を逸らし、ようやくお茶に手を伸ばした。一口飲んで、渋い顔をした。
「……冷めているな」
「長話をなさるからですよ、お父様」
父が、ほんの一瞬──口元の端を、僅かに持ち上げた。前世の記憶にはない表情。この身体の、ずっと奥の方に眠っている記憶が、かすかに反応する。
(──ああ。この人、昔はもう少し笑っていたのかもしれない)
◇
夜。
父が帰った後、書類を整理していると、リゼットが小走りでやってきた。頬が紅潮している。走ってきたのだ。
「お嬢様。一つ、気になることが」
「どうしたの」
「先ほど洗濯場に行った帰りに──ロサリオ侯爵家の紋章をつけた使用人が、東棟の三階をうろついているのを見ました。この階です」
東棟の三階。私の執務室がある階。
「何をしていた?」
「壁の窓枠を調べるような素振りでした。掃除の者かと思ったのですが、この階の清掃担当は顔見知りで──あの人ではありませんでした」
(ロサリオ侯爵家の使用人が、この階を調べている)
ブレンナー男爵の威圧が失敗した後、次の手を打ってきた──と考えるのが自然だ。ロサリオ侯爵家の背後にはヴィクトル・ロサリオがいる。あの男は卒業式典でエルミーラ嬢の隣に立っていた。
私が何を持っているか。何を記録しているか。それを知ろうとしている。
苦情記録簿を引き出しから出して、手で触れた。二冊。ここに、着任からの全てが詰まっている。
「リゼット。明日から、記録簿の副本を作ってちょうだい。内容を一字一句、別の帳面に書き写して。副本は──そうね、あなたの部屋に保管して」
「かしこまりました。でも、お嬢様、なぜ──」
「記録は一箇所に置かない。前世の──いえ、昔の職場での鉄則なの。原本と副本を別の場所に保管すること」
リゼットは不安そうな顔をしたが、力強く頷いた。
「必ず。一字一句、書き写します」
「ありがとう。──あと、あの使用人がまた来たら、何もしなくていいから、日時と場所だけ覚えておいて。それも記録に入れる」
記録簿を引き出しに戻す。隣には父の手紙。「娘よ、信じたい」と書かれていた便箋と、今日受け取った調査資料。
引き出しの中身が、着任した日より随分と増えた。
窓の外は暗い。ガス灯の明かりが記録簿を照らしている。扉の横にはライナルト卿が立っている。──今日は上着を着ている。あの中庭の日以来、上着が戻ってきた。
(返したんだった。洗って返した時、「問題ない」しか言わなかったな、この人)
ふと、昼間のことを思い出す。ハンス副団長の声。
嫉妬。歩くのが遅い。報告書の提出が早い。
(やっぱり分からないな。騎士団の人間関係は複雑だ)
考えても仕方がない。今は、記録簿の副本を作ることと、残り三週間で何をすべきか整理することの方が大事だ。
それでも──今日は、少しだけ気分がよかった。
花が増えた執務室。仕事を認めてくれる人たちがいる。父が「信じる」と言ってくれた。リゼットがいる。ライナルト卿がいる。
半年前には何もなかった。今は、全部ある。
記録簿を開いて、今日の日付を書き込んだ。
──もう少し。もう少しで、手が届く。




