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悪役令嬢に転生したけど断罪が怖くありません  作者: 秋月 もみじ


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5/10

第5話 嘘は、記録の前では長く生きられない


「あの方に……脅されたんです……!」


 王妃殿下の謁見室に、震える声が響いた。


 エルミーラ・フォンティーヌ嬢。男爵令嬢にして聖女候補。涙で頬を濡らし、小さな手を胸の前で握り締めている。細い肩が小刻みに揺れていた。


 再告発。


(……来たか)


 着任してもう三週間。調停案件を片付ける日々の中で、いつかこれが来ると思っていた。いや、来なければおかしかった。卒業式典の断罪が「仮決定」に留まっている以上、向こうには私を正式に追い落とす動機がある。


「シュタルク嬢に、夜の回廊で呼び止められて……『聖女認定試験を辞退しなければ、次はもっとひどいことになる』と……」


 エルミーラ嬢の声は微かに掠れ、ちょうど聞き取れるか聞き取れないかの音量で謁見室に漂う。


(この声量。聞こえにくいから、聴いている人が身を乗り出す。結果、無意識に「聴こう」という姿勢になる)


 卒業式典の時と同じだ。あの涙の技術は、見れば見るほど精巧にできている。前世のクレーム対応で「泣いて同情を引く客」に何度も対応したけれど、ここまで自然にやれる人は見たことがない。


 王妃殿下は椅子に深く腰を据えたまま、灰色がかった瞳で私とエルミーラ嬢を交互に見ている。表情は動かない。


「シュタルク嬢。聞いたか」


「はい、王妃殿下」


「弁明はあるか」


 弁明。


 前世の私なら「弁明」という言葉が来た時点で、まず感情的になるところだ。「やっていません」と言いたくなる。強く否定したくなる。


 でも──クレーム対応のプロは、否定から入らない。


 事実を、出す。


「恐れ⼊ります、王妃殿下。弁明の前に、一点だけ事実の確認をお許しいただけますでしょうか」


 膝の上に載せた帳面を開いた。苦情記録簿。水利権の調停を解決した夜から毎日書き続けてきた、前世式のクレーム管理台帳。


「エルミーラ嬢。脅迫を受けたのは、いつ、どこで、のことでしょうか」


 エルミーラ嬢の涙が、一瞬だけ止まった。──本当に一瞬。すぐに涙は戻ったけれど、私の目はそこを見逃さなかった。前世二十年の経験則。泣いている人間に「いつ」「どこで」と聞くと、本物の被害者は記憶が鮮明に蘇って泣き方が変わる。嘘の被害者は一瞬だけ計算が入る。


「……三日前の、夜……東棟の二階回廊で……」


「三日前の夜。ありがとうございます」


 記録簿のページを繰る。私の指は震えていない。──いや、嘘だ。少し震えている。でも声は震えない。もう慣れた。


「三日前の夜、私は東棟の調停室にて、クライスラー子爵家とベルント男爵家の商権紛争の調停に出席しておりました。調停の開始は鐘が七つ──午後七時、終了は鐘が十──午後十時です。書記官の出席記録と合意書の署名時刻が、ここにございます」


 帳面の該当ページを開き、王妃殿下の方に向けた。


「調停室は東棟の一階です。東棟の二階回廊を通るには、一階から階段を上がる必要がありますが、調停終了後は護衛のヴェルナー卿とともに三階の執務室へ直接戻っております。東棟の階段は一本しかございませんので、二階に立ち寄ることは物理的に──」


「──待ってください」


 エルミーラ嬢が遮った。涙がまだ頬に残っている。でも、その声の震えが──変わった。さっきまでの「掠れた弱さ」が消えて、低い、硬い声になっている。


「三日前ではなくて……四日前だったかもしれません……記憶が、混乱して……」


(日付を変えた)


 前世のクレーム対応で最も多い嘘のパターン。追い詰められると、日時をずらす。


「四日前ですね。確認いたします」


 記録簿を繰る。


「四日前の夜は、ランケン地方の土地登記記録の照会作業を執務室で行っておりました。リゼットが書庫から資料を運び、私は日付が変わるまで執務室を出ておりません。ガス灯の油の補充記録にも、執務室の使用が記載されています」


 謁見室が、静かになった。


 エルミーラ嬢の涙が──止まっていた。


 頬に涙の跡は残っている。けれど新しい涙は流れていない。代わりに、翡翠色の瞳が私を見ている。計算する目だ。次の手を探している目。前世で何百回も見た目。


 王妃殿下が、ゆっくりと口を開いた。


「エルミーラ嬢。日時の記憶が曖昧ということは、訴えの信憑性に関わる。──本件は保留とする。シュタルク嬢には事実確認の結果を書面で報告させよう」


「しかし、王妃殿下──!」


「保留だ」


 一言で断ち切った。王妃殿下の声に感情はない。ただ、石の壁みたいに硬い。


 エルミーラ嬢は口を閉じた。小さく頭を下げて──最後に一度だけ、私を見た。


 涙はもう、なかった。



 中庭のベンチは、春の終わりの陽気でほんのり温かかった。


 謁見室を出てから、足が勝手にここへ来ていた。東棟と西棟に挟まれた小さな庭。菩提樹が一本、若葉を広げている。着任した日に窓から見えた、あの木だ。


 座って、息を吐く。


 手を見る。──震えている。


(……やっぱり、な)


 声は震えなかった。記録簿のページを繰る指も、なんとか持ちこたえた。でも今、膝の上に置いた両手が小刻みに震えている。いつもそうだ。前世からずっと。本番中は大丈夫で、終わった後に全部まとめて来る。


(お疲れ様です、片桐統括課長。……本日のクレーム対応、なんとか及第点です)


 目を閉じた。


 風が菩提樹の葉を揺らす音が聞こえる。どこかで鳥が鳴いている。午後の陽射しがまぶたの裏を橙色に染める。


 しばらく、何も考えないでいた。


 ──肩が、温かい。


 はっとして目を開けた。


 肩に、上着がかかっている。


 灰色の、使い込まれた軍服の上着。裏地がまだ温い。ほんの少し前まで、誰かが着ていた温度。


 振り返る。


 十歩ほど離れた柱の影に、ライナルト卿が立っていた。


 壁に背を預けて、腕を組んでいる。こちらを見てはいない。中庭の出入口の方を向いている。──護衛の姿勢だ。「中庭にいる調停官を、誰にも邪魔させない」という配置。


 いつ近づいたのだろう。上着をかけたのは、いつ。


 気づかなかった。あの大きな身体が十歩の距離まで近づいて、肩に上着をかけて、また十歩戻った。その間ずっと、私は目を閉じていた。あの重い軍靴の足音を、一度も聞かなかった。


(近衛騎士団長って、猫みたいに歩けるものなの……?)


 突っ込みたかったけれど、声にはしなかった。


 代わりに、上着の襟を引き寄せた。大きい。私の身体がすっぽり入るくらい大きくて、温かくて。


(──この人は、近づきすぎない)


 声をかけない。隣に座らない。「大丈夫ですか」とも聞かない。ただ上着を置いて、離れたところに立つ。


 前世の二十年で、こういう人に会ったことはなかった。怒っている客には寄り添い、泣いている客には手を差し伸べ、私自身が疲れている時には──誰も何もしなかった。それが当たり前だと思っていた。


(護衛対象の体調管理、ということなんだろうな。任務に含まれているのかしら)


 聞けば、きっと「任務だ」と返ってくる。分かっている。でも、聞かないでおく。


 上着が温かい。それだけで、十分だった。



 執務室に戻ると、リゼットが深刻な顔をしていた。


「お嬢様。女神教団から通達が届いています」


 差し出された公文書を開く。教団の正式な書式。蝋封には三日月と星──女神の紋章。


 内容は短かった。


『聖女認定試験の実施日程を、本年度末より本年度第六月の末日に変更する。試験会場は王都の女神神殿。受験者──エルミーラ・フォンティーヌ』


 第六月の末日。今は第五月の最終週。


「……一ヶ月」


 残り、一ヶ月。


 聖女認定試験にエルミーラ嬢が合格すれば──聖女の証言は「女神の神託」と同等の権威を持つ。そうなったら、私がどれだけ記録を積み上げても、「聖女が嘘をつくはずがない」の一言で全部ひっくり返される。


 苦情記録簿を開いた。今日のエルミーラ嬢の矛盾。ブレンナー男爵の不正記録。水利権紛争の調停記録。着任からの全ての記録が、ここに並んでいる。


 足りない。


 一ヶ月で、仮決定を覆すための決定的な証拠を揃えなければならない。エルミーラ嬢の月初パターン、ブレンナー男爵の背後にいるロサリオ侯爵家の動き、そしてまだ見えていない──断罪の「被害報告書」そのものの信憑性。


 帳面を閉じて、引き出しを開ける。父の手紙が、苦情記録簿の隣に入っている。


『娘よ、信じたい』


 あの角張った筆跡が、暗い引き出しの中で白く光っている。


「リゼット」


「はい、お嬢様」


「明日から、過去の調停案件の照合作業を倍の速度でやるわ。記録簿の転記、手伝ってもらえる?」


「もちろんです!」


 小柄な侍女が、拳を握って力強く頷いた。


 一ヶ月。短い。でも──前世のお客様相談室では、年度末の三月に一ヶ月分のクレーム処理を二週間で片づけたことがある。あの地獄に比べれば。


(……いや、あの時は胃薬を一箱空にしたんだった。比べるものじゃない)


 窓の外はもう暗い。ガス灯の橙色の光が、記録簿の表紙を照らしている。


 肩に、まだ上着の温もりが残っている。返さなければ。──でも、もう少しだけ。


 扉の横で、ライナルト卿が上着のないまま立っている。軍服のシャツだけの姿は初めて見た。少し寒くはないのだろうか。


(……聞いたら「問題ない」って言うんだろうな、この人は)


 聞かなかった。代わりに、記録簿を開いて羽ペンを取った。


 嘘は、記録の前では長く生きられない。


 あと一ヶ月。──それだけあれば、十分だ。

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