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悪役令嬢に転生したけど断罪が怖くありません  作者: 秋月 もみじ


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4/10

第4話 剣を抜かなかった理由を、聞いてもいいですか


 執務室の扉が、ノックもなく開いた。


 反射で顔を上げる。朝の光が廊下から差し込んで、逆光の中に人影が立っていた。


 大きい。横にも大きい。


「──シュタルク嬢とは、貴様か」


 太い声が、挨拶を飛び越えて名前を叩きつけてきた。


 五十がらみの男。恰幅がよく、顔は日焼けと怒気で赤い。胸元に留められた紋章は金縁の獅子──見覚えがある。前世の記憶ではなく、ゲームの記憶だ。


(……ランケン地方の領主紋。ロサリオ侯爵家の分家筋)


 ヴィクトル・ロサリオ。あの男の家の縁者。


 男の背後、廊下に従者が二名控えているのが見える。扉を押さえるように立っている。逃げ道を塞ぐ配置。


 従者二名。


 前世の分類が走る。──クレーマー・レベル3。取り巻きを連れてくる人間は、最初から話し合いをするつもりがない。


「断罪された身で宮廷の公職に就くとは、笑止千万」


 男は椅子に座らない。立ったまま、こちらを見下ろしている。


「何の後ろ盾もない小娘が調停官とは、王妃殿下もお人が悪い。道化を飼って、宮廷のお遊びですかな」


(……道化、ときましたか)


 前世なら「お気持ちはよく分かります」から入るところだ。でも今は、少し事情が違う。


 この男の名前と顔を、私は知っている。


 ゲームの知識。『星詠みの聖女』の三章、ランケン地方イベント。確か──辺境の土地取引に関するサブクエストがあった。プレイヤーが調査すると、ランケン領主が隣接する男爵領の農地を不正に安値で取得した記録が出てくる。ゲーム内では選択肢次第でスルーもできたけれど、私は全部のサブクエストを回収する派だったから覚えている。


 目の前の男が、あの「ランケン領主」と同一人物かどうかは断言できない。ゲームと現実は違う。


 でも、紋章は一致する。


「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 立ち上がり、浅く頭を下げた。声は低め。速度はゆっくり。クレーム対応の受付モード。


「ヴァルター・ブレンナー男爵だ。ロサリオ侯爵閣下のご縁者として──」


(ロサリオ侯爵家の名前を出した。自分から)


 メモする必要もない。この男は名乗りと同時に、自分の後ろ盾を明かした。前世のクレーム対応で言えば「うちは大口の取引先だぞ」と脅す客と同じ構造。権威を借りないと話もできない人間だ。


「ブレンナー男爵閣下。ご足労いただきありがとうございます。ご懸念の内容を正式に伺いたいのですが──」


「聞く必要もなかろう! 断罪された令嬢が公職に就くなど、法を知らぬ者のすることだ!」


 声が大きくなった。机の上のインク瓶が震える。


(また「法」か。法を盾にする人に限って条文を読んでいないのは、異世界でも同じらしい)


 水利権の調停をした日の夜に始めた苦情記録簿を、引き出しの中で指先が探る。ここに記録するために、まずは相手に喋らせる必要がある。


「お怒りはごもっともです。ただ──」


「ただ、もなにもない! 今すぐ辞職して王妃殿下に謝罪しろ! さもなくば──」


 男の太い手が、机を叩こうと振り上げられた。


 ──その手が、振り下ろされることはなかった。


 音はしなかった。気配もなかった。


 ただ、男と私の間に、影がひとつ。


 灰色の軍服。まっすぐに伸びた背筋。執務室の扉の横に立っていたはずの姿が、いつの間にか男の一歩前にある。


「近衛騎士団長、ライナルト・ヴェルナーだ」


 低い声。低い、のだけれど──いつもの「任務だ」の低さとは、何かが違った。温度が、さらにもう一段下がったような。


「この執務室は王妃殿下の管轄である。無許可の侵入と調停官への威圧行為は、王宮警備規則に基づき記録する」


 男爵の顔から、赤が退いた。蝋みたいに白くなるのは一瞬だった。


「わ、私はただ意見を──」


「記録する」


 同じ言葉を、同じ声で繰り返した。


 それだけ。剣に触れてもいない。腕を組んでもいない。ただ立っている。立っているだけなのに、男爵の身体が半歩退がった。


(……すごい)


 前世で見たどのマネージャーよりも効果的な「上席エスカレーション」だった。しかもこの上席は腰に剣を佩いている。実際に抜いていないのに、「抜くかもしれない」の圧が全身から出ている。


 男爵は何か言いかけ、ライナルト卿の灰色の瞳を見て──口を閉じた。踵を返し、従者を引き連れて廊下を去っていく。


 足音が遠ざかる。扉が閉まる。


 私は椅子に座り直して、ゆっくり息を吐いた。


 指先が冷たい。……また、手だ。声は平気なのに、手だけが正直に震えている。


「ありがとうございます、ヴェルナー卿」


「任務だ」


 いつもの三文字。でも、元の位置──扉の横──に戻りかけて、ライナルト卿の足が止まった。


「ブレンナー男爵。ロサリオ侯爵家の食客だ。領地はランケン地方」


 振り返りもせず、事実だけを置いていくように。


(やっぱり──ランケン地方)


 ゲームの記憶と繋がった。


 ロサリオ侯爵家の縁者で、ランケン地方の領主。この男爵にはゲーム内で「不正な土地取引」のイベントがあった。隣接する小領主の農地を、税の未納をでっち上げて差し押さえ、安値で自分の領地に編入した──というものだ。


 ゲームではサブクエストの一つに過ぎなかった。でも、今この状況では意味が変わる。


 苦情記録簿を引き出しから出した。


 受理番号〇一〇。ブレンナー男爵。訴え内容──調停官への威圧行為。背景──ロサリオ侯爵家縁者。


 そこに、もう一行。


「ランケン地方・土地取引記録の照会。要確認」


 前世のクレーム管理と同じだ。苦情は一件ずつ処理するものだけれど、同じ人物から来た苦情には必ずパターンがある。そのパターンの裏には、表に出していない「本当の問題」が隠れている。


 ブレンナー男爵が私を威圧しに来た理由は、私が邪魔だからだ。でも、なぜ「私」が邪魔なのか。調停官として私が記録を続ければ、誰の不正が明るみに出るのか。


 その答えは──きっと、記録の中にある。



 夕方。


 書庫への資料請求を済ませ、執務室に戻った廊下でのことだった。


「ヴェルナー卿」


「何だ」


 前を歩く背中に声をかけた。広い背中だ。灰色の軍服が皺一つなく張りついている。


「今朝の件なんですが──一つ、聞いてもいいですか」


 ライナルト卿の足が止まった。振り返る。灰色の瞳が、無表情のまま私を見下ろす。


「なぜ、剣を抜かなかったんですか」


 沈黙。


 廊下に差し込む西日が、壁の石を橙色に染めている。どこかの部屋から、夕餉の支度をする物音が聞こえた。


「……抜けば、斬る」


 短い。いつも通り短い。でも、その後にもう一文が続いた。


「斬る必要は、なかった」


(──ああ)


 この人は、力を持っているから力を使わないのだ。


 前世のクレーム対応室にも一人いた。体格の良い男性スタッフで、どんな怒鳴り込みにも声を荒げず、ただ穏やかに対応する人。「いつでも取り押さえられるから、取り押さえなくていい」と笑っていた。


 それと同じだ。──いや、同じではない。この人は笑わない。でも、根っこにあるものは似ている。


「ヴェルナー卿は、怖い人だと思っていました」


 思わず口をついて出た。


 ライナルト卿の眉が、ほんの僅か──本当に僅かだけ動いた。寄ったのか、上がったのか、判断がつかない程度の変化。


「……怖くないのか」


「怖い人は、斬る必要があるかどうかを考えません」


 ライナルト卿は何も言わなかった。灰色の瞳が一瞬だけ揺れて──それから、前を向いた。


「戻る」


 二文字。歩き出す。


 でも、その靴音がいつもより少しだけ遅いことに、私は気づいていた。水利権の調停を終えた日の帰り道と、同じ速度。


(……この人、やっぱり歩くの遅いな)


 大柄な騎士の歩幅が、私の小さな歩幅と揃っている。きっとゆっくり歩くのが好きなのだろう。騎士団長なのに、のんびり屋というのも変な話だけれど。



 執務室に戻ると、リゼットが封書を手にして待っていた。


「お嬢様、お手紙が届いています。……シュタルク公爵家の封蝋です」


 心臓が、不意に跳ねた。


 受け取る。蝋封に押された紋章を指でなぞる。獅子と星の盾──私の、家の紋だ。


 封を切る。中身は便箋一枚。筆跡は見覚えがある。角張った、厳格な文字。


『マリアンヌ。


 お前の無事は聞き及んでいる。


 一つだけ伝える。──娘よ、信じたい。


                シュタルク公爵 ゲオルク』


 それだけだった。


 「信じたい」。──「信じる」ではない。


(……お父様らしい)


 あの人は昔からそうだった。断定を避け、慎重に言葉を選ぶ。公爵としての政治的判断が、父親としての感情よりいつも先に出る。


 でも──「信じたい」と書いた。


 卒業式典の夜に届いた使者は「仕送りは見合わせる」とだけ告げて去った。あの時の冷たさを思えば、この五文字は──遠いけれど、確かな変化だ。


「お嬢様……」


 リゼットが心配そうに私の顔を覗き込む。


「大丈夫。嬉しい手紙よ」


 嘘ではない。嬉しい。ただ、もう少しだけ、時間がかかる。お互いに。


 便箋を丁寧に畳んで、苦情記録簿と一緒に引き出しにしまった。父の手紙と苦情記録簿が同じ引き出しに入っているのは、我ながらどうかと思う。


(でも、どっちも私の武器だから)


 記録は嘘をつかない。手紙も嘘をつかない。少なくとも──あの角張った筆跡は、嘘をつくのが下手な人の字だ。


 窓の外で夕日が沈みかけている。着任して十日。手元には苦情記録簿と、ゲーム知識と、それからまだ開ききっていない父の信頼。


 全部、足りない。でも、全部、ゼロではない。


 扉の横で、ライナルト卿が無言で立っている。今日もあの灰色の瞳は前を向いたまま──でも、この人がここにいるというだけで、不思議と、引き出しの中身が少しだけ頼もしく感じられた。

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