第3話 お怒りの内容を整理させていただいてよろしいでしょうか
「ふざけるな! あの水路はランクフォート領のものだ! 百年前の条約を読み直せ!」
朝から怒声。
宮廷の調停室は、石造りの天井が高くて声がよく響く。おかげで辺境伯の代理人の怒鳴り声が二割増しで鼓膜に刺さっていた。
「百年前の条約? 笑わせるな! あの条約はシュヴァルツ河の支流について定めたもので、本流の水利権には言及していない!」
反対側に座った子爵も負けていない。テーブルを両手で叩き、書類が宙に舞った。
着任三日目。初めての調停案件。
(……いきなりヘビー級が来たなぁ)
ランクフォート辺境伯領とクロイツ子爵領の間を流れるシュヴァルツ河。その水利権を巡る争いは、書類によれば十二年前から続いているらしい。何度か調停が試みられたが、いずれも決裂。今年に入って灌漑期を前に対立が激化し、両領の民が川岸で睨み合う事態にまで発展している。
書類は着任初日の夜から読み込んでおいた。両領の主張、地図、条約の原文、過去の調停記録。全部で八十七枚。あの菩提樹茶のおかげで朝まで読み通せたのは内緒だ。
目の前では、両者の応酬がまだ続いている。
「そもそもクロイツ子爵領が勝手に堰を──」
「堰の建設許可は二十年前に正式に──」
「あの許可は辺境伯の前任が不正に──」
壁際に立つライナルト卿は、微動だにしない。灰色の瞳が双方の間を静かに行き来しているだけだ。書記官は怯えた顔で羽ペンを握り締めている。
(さて、と)
私は両手を膝の上に置いた。
前世のクレーム対応で学んだことがある。怒鳴っている人間は、怒鳴っている限り解決には向かわない。最初にやるべきことは──相手の怒りを受け止めることでも、正論を突きつけることでもない。
「怒り」と「事実」を分けることだ。
「──失礼いたします」
声を張ったわけではない。でも、二人の間にすっと差し込んだ私の声に、両者が一瞬だけ口を閉じた。
この一瞬が全て。
「辺境伯代理人閣下、子爵閣下。お二方のお怒りはごもっともです。十二年にわたるご懸案、双方の領民の生活がかかっている。軽く扱える問題でないことは十分に承知しております」
まず、共感。相手の怒りを否定しない。
二人の目が私を見た。「断罪された小娘に何が分かる」という目。でも、口は閉じている。
「その上で、一つだけお願いがございます。今から私が整理する内容に、事実と異なる点があれば、その場でご指摘いただけますか。正確な事実の把握が、解決の第一歩ですので」
「……ふん、やってみろ」
辺境伯代理人が鼻を鳴らした。ここが分かれ道だ。
私は書類の束から三枚を選び、テーブルの中央に並べた。
「まず、争点を整理いたします。本件の論点は三つ──一つ、シュヴァルツ河本流の灌漑取水権の帰属。二つ、クロイツ領側の堰の建設許可の有効性。三つ、今年の灌漑期における具体的な水量配分です」
両者が顔を見合わせた。
「十二年間の経緯を拝見しましたところ、過去の調停では三つの論点が常に同時に議論され、感情的な対立に発展しておりました。そこでご提案ですが──本日は三つ目の『今年の水量配分』のみを扱い、一と二は別途、法的な検証を経た上で改めて協議する、という進め方はいかがでしょうか」
沈黙。
辺境伯代理人が口を開きかけた。子爵も何か言おうとした。
「──と申しますのも」
私はもう一枚、書類を広げた。
「今年の灌漑期まで、あと二十三日です。一と二の論点を解決してからでは、どちらの領の畑も干上がります。つまり──本日この場で決めるべきは、今年の田畑をどう守るか。それだけです」
前世のクレーム対応の鉄則。大きな問題を小さく割る。
全部を一度に解決しようとするから感情が噴き出す。今すぐ解決できることだけを、今すぐ解決する。残りは手続きに乗せて先送りする。先送りは悪ではない。適切な先送りは、最も合理的な解決策だ。
子爵が、低い声で言った。
「……田畑が干上がることだけは、我が領も避けたい」
「同感だ。こちらとて、灌漑期に水が来なければ民が飢える」
辺境伯代理人が渋々と頷いた。
そこからは早かった。
論点を「今年の水量配分」に絞ったことで、双方が具体的な数字の話に入った。私は過去の降水量データと両領の耕作面積から試算した配分案を提示し、両者の修正意見を受けて数字を調整し──三時間後、暫定合意書に双方の署名が入った。
「……まあ、暫定だからな。一と二の件は後日だ」
辺境伯代理人は不満そうだったが、署名はした。子爵もだ。
二人が退室した後、調停室に沈黙が戻った。
書記官が合意書の副本を作成している羽ペンの音だけが、静かに響いている。
(……終わった)
背もたれに体を預けて、息を吐いた。手が、ほんの少しだけ震えている。
──また、手だ。声は震えないのに。
「……有効だった」
壁際から声がした。
低い。短い。抑揚のない声。
ライナルト卿だ。三日間の護衛で、業務連絡と「任務だ」以外の言葉を聞いたのは初めてだった。
振り返ると、灰色の瞳がこちらを見ていた。無表情。でも──言葉を選ぶならば──さっきまでとは、ほんの僅かだけ、目の色が違うような気がした。
(気のせいかな)
「ありがとうございます。なんとか形になりました」
ライナルト卿は何も答えなかった。壁際の姿勢に戻り、それきり。
(……三文字で終了。この人の会話にはいつも文字数制限があるのかしら)
◇
調停室を出て、東棟の執務室までは長い廊下を歩く。
行きは緊張で早足だった。というか、ほとんど小走りだった。ライナルト卿の長い脚は余裕でついてきていた。
帰りは違う。張りつめていたものが緩んで、足取りが自然にゆっくりになった。
ライナルト卿の靴音が、隣で同じ速度で響いている。
(……あれ。この人、行きよりだいぶ遅いな)
大柄な騎士の歩幅が、私の小さな歩幅とぴったり揃っている。偶然だろうか。もともとゆっくり歩く人なのかもしれない。騎士団長が、のんびり屋というのも変な話だけど。
「ヴェルナー卿」
「何だ」
「今日の調停、率直にどう思われましたか? もし問題があれば、次回の参考にしたいのですが」
仕事の感想を求めただけのつもりだった。
ライナルト卿は数歩分の沈黙の後に、口を開いた。
「剣を使わずに人を止めた」
……それは感想なのか、事実の報告なのか。
「それは──褒めていただいてる、のでしょうか?」
「事実だ」
あ、これ王妃殿下と同じ返しだ。この国の偉い人たちは揃って「褒めてはいない、事実だ」と言うのが好きらしい。
でも、ライナルト卿の声には──さっきの「有効だった」の時と同じ、僅かな色があった。温度、というほどでもない。普段が氷点下だから、零度になっただけかもしれない。
それでも。
(なんだろう。この人に「有効だった」と言われると、悪い気はしない)
執務室に戻ると、リゼットが温かいお茶を用意してくれていた。今日の銘柄も菩提樹茶。もう三日連続だ。なぜか執務室の茶棚には菩提樹茶だけが不自然に充実している。誰が補充しているのか──たぶんリゼットだろう。
◇
夜。
ガス灯の下で、私は新しい帳面を広げていた。
罫線を引く。日時。場所。訴えの内容。訴え人。被訴え人。証人の有無。対応結果。備考。
前世のクレーム管理台帳。あの、使い込んでボロボロになった茶色いファイル。毎日毎日、苦情の内容を記録して、分類して、傾向を分析した。
「記録は証拠。証拠は武器」
声に出したわけではない。心の中で呟いただけ。
でもこの習慣が、私を──前世の私を──二十年間守ってくれた。理不尽なクレームに対しても、記録があれば事実で返せる。感情論に巻き込まれない。
この世界でも、同じはずだ。
今日の水利権紛争を皮切りに、王妃殿下から降ってくる案件を片端から記録していく。一件ずつ、正確に、漏れなく。
リゼットが、書類の仕分けを手伝いながら言った。
「お嬢様、今日のことがもう噂になっています」
「噂?」
「ヴァイス子爵夫人のお茶会で、『卒業式典で断罪された公爵令嬢が、十二年来の水利権紛争を一日で解決したらしい』と。来ていた令嬢方が驚いていたそうです」
……もう広まっているのか。この世界のお茶会ネットワーク、前世のSNSより速いのでは。
「良い噂なのか、悪い噂なのか、どっちかしら」
「半々、というところでしょうか。『さすが公爵令嬢は教養が違う』という声と、『断罪された身で公職につくとは厚かましい』という声と……」
「まあ、そうでしょうね」
悪い噂は想定の範囲内だ。前世でも、クレーム対応室は社内で「火消し部隊」と陰口を叩かれていた。でも、実績が積み上がれば、評価は変わる。変わらなかったとしても、記録は残る。
「リゼット、過去一ヶ月分の宮廷内訴訟の記録を借りてきてくれる? 案件の傾向を掴みたいの」
「かしこまりました!」
小走りで出ていくリゼットを見送りながら、今日の調停記録を帳面に書き込む。羽ペンの先がさらさらと紙の上を滑る。
一時間後。
リゼットが抱えてきた書類の山を、一枚ずつ帳面に転記していく。日時、訴え人、内容、結果。機械的に、淡々と。
そして──三十件ほど記録したところで、手が止まった。
「……ん?」
目の前に並んだ記録を、もう一度読み返す。
聖女候補エルミーラ・フォンティーヌ嬢に関わる訴え。被害届。嫌がらせの報告。不当な扱いへの苦情。
それ自体は不思議ではない。聖女候補は注目を集める立場だ。トラブルに巻き込まれることも多いだろう。
おかしいのは、日付だ。
全ての訴えが──月の第一週に集中している。
四月の第一週。三月の第一週。二月の第一週。一月の第一週。
月をまたいでも、ずっと第一週。まるで──月初めに、まとめて計画したかのように。
(偶然……かな)
偶然にしては、綺麗すぎる。
でも、だからといって何かを断定できるわけではない。エルミーラ嬢が特別にトラブルに遭いやすい体質で、たまたま月初めに集中しているだけかもしれない。
(もう少しデータが必要だわ。半年分、いや、一年分を見たい)
帳面を閉じる前に、ページの端に小さくメモを書いた。
「E嬢関連:日付の偏り要検証」
前世の習慣。気になったことは必ずメモする。結論は急がない。ただ、記録だけは残しておく。
記録は嘘をつかない。
窓の外では、春の夜風が菩提樹の枝を揺らしていた。三日前に比べると、少しだけ葉が茂ったように見える。
帳面を抱えて立ち上がると、扉の横にライナルト卿の影があった。今日も一日、ほとんど無言でそこに立っていた。
「ヴェルナー卿、本日もお疲れ様でした。もうお休みいただいて構いませんよ」
「……交代は日付が変わってからだ」
五文字。昨日の四文字より一文字増えた。
(順調に語彙が拡張されている)
小さく笑って、もう一度帳面に目を落とす。
月の第一週。
偶然か、必然か。
答えはまだ分からない。でも──前世の私は知っている。偶然が四回続いたら、それは偶然ではない。




