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悪役令嬢に転生したけど断罪が怖くありません  作者: 秋月 もみじ


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2/10

第2話 任務にお茶出しは含まれませんよね?


一晩で、人生は二回変わった。


一度目は、婚約者に公衆の面前で犯罪者扱いされたこと。二度目は、四十五年分の別の人生が頭の中に流れ込んできたこと。


どっちがマシかと聞かれたら──正直、まだ判断がつかない。


卒業式典の翌朝。私は学園の寮の自室で荷物をまとめていた。


といっても、大した量ではない。ドレスや宝石の類は公爵家から貸与されたものだ。断罪された──正確には仮決定だけど──身では、返却するのが筋だろう。


手元に残ったのは、着替えが数枚と、前世では持っていなかった長い銀髪の手入れ道具と、読みかけの本が二冊。


それだけ。


孤立。


昨夜のうちに、公爵家の使者が来た。父上からの手紙は一通も添えられておらず、使者は事務的に「当面の仕送りは見合わせる」とだけ告げて去った。


まあ、そうだろう。公爵家にとって、断罪された娘は政治的な負債でしかない。元のマリアンヌがどんな娘だったか、前世の記憶が流れ込んだ今の私にはよく分からないけれど──少なくとも父上が「娘を信じる」と言って庇ってはくれなかったことだけは、事実として受け止めるしかない。


(あーあ。前世でもお一人様、今世でもお一人様かぁ)


自嘲が漏れかけたとき、扉が叩かれた。


「シュタルク嬢。王妃殿下がお待ちです」


昨日と同じ侍従だった。



王妃の私室は、想像していたよりもずっと実務的な場所だった。


壁には地図。机の上には書類の山。花瓶はあるが花は萎れかけている。入れ替える余裕もないのだろう。


窓際の椅子に座っていた女性が、こちらを向いた。


イレーネ王妃殿下。


四十代半ばだろうか。華やかさよりも、芯の通った品の良さが先に目に入る。書類焼けした指先。目尻の細い皺。この人は──飾り物の王妃ではない。


「座りなさい、シュタルク嬢」


「恐れ入ります」


対面の椅子に腰を下ろす。侍従がお茶を運んできたが、王妃殿下は自分の書類から目を離さないまま、単刀直入に切り出した。


「昨日の式典を見ていた」


心臓が跳ねた。


「あれは──なかなかの対応だった」


王妃殿下の灰色がかった瞳が、書類から上がって私を捉える。


「あの場で泣き崩れるか、逆上するか、どちらかだろうと思っていたのだけれど。まさか手続き不備を指摘するとはね」


「……恐縮です」


「褒めてはいない。事実を述べている」


空気が張り詰める。


王妃殿下は書類の一枚を指先で弾いた。


「シュタルク嬢。この宮廷には、足りないものが多い。中でも深刻なのは──紛争を処理できる人間だ」


紛争。


その言葉に、前世の血が反応する。


「貴族間の領地問題、水利権の争い、商権の衝突、婚姻契約の不履行。山のように積み上がった案件を処理する部局はあるが、担当する人間がいない。いたとしても、双方を怒鳴りつけて黙らせるか、どちらか一方に肩入れして終わりだ。それでは根本解決にはならない」


王妃殿下はお茶に口をつけ、静かに続けた。


「あなたの昨日の対応を見て、一つ確信したことがある。あなたは、怒っている人間の前で冷静でいられる。それも──相手を追い詰めず、逃げ道を残しながら」


(……見抜かれてる)


あの断罪の場で、殿下に「あなたの名誉のため」と言い添えたこと。クレーム対応の基本中の基本。それを王妃殿下は正確に読み取っていた。


「宮廷調停官。そういう役職を新設する。あなたを任命したい」


息が止まった。


「……私は、断罪の仮決定を受けた身です。公職に就くのは──」


「仮決定は正式な処分ではない。王前会議の裁可がない以上、あなたの身分は宙に浮いているだけだ。私の権限で任命できる」


王妃殿下は書類の山の一番上から、一枚の羊皮紙を引き抜いた。任命状。日付は──今日だ。


「住居は宮廷内の官舎を用意する。月俸もつく。護衛も一名配属する」


護衛。


あるいは──監視役。


(断罪された悪役令嬢を野放しにはしない、ということ……かな)


「お断りすることは、できますか」


「できる。ただし、その場合あなたに残された選択肢は多くない。公爵家の支援は途絶えている。社交界からも締め出されるだろう。この宮廷で、あなたの能力を評価する人間は──今のところ、私だけだ」


嘘がない目だった。


利用しようとしているのは間違いない。でも、条件は明確で、嘘で飾ってもいない。前世のクレーム対応で培った「この人は嘘をついているか」のセンサーは、今のところ沈黙している。


それに──仕事がある、ということは。


(居場所がある、ということだ)


「……承知いたしました」


任命状に署名する。羽ペンが羊皮紙の上を走る音が、やけに大きく聞こえた。


「よろしい」


王妃殿下の口元が、ほんの僅かだけ緩んだ。


「護衛は今日中に着任させる。近衛騎士団から一名──腕は確かだ」



宮廷の東棟、三階の突き当たり。


それが私の新しい仕事場であり、住まいだった。


執務室と寝室が一つずつ。質素だが清潔で、窓からは中庭の菩提樹が見える。デスクと椅子と、空っぽの書架。前世のあの窮屈なクレーム対応室に比べれば──天国、とまでは言わないけど、悪くない。


「ヴェルナーだ。護衛を担当する」


振り返ると、扉の前に男が立っていた。


昨日の──あの騎士だ。


壁際に立っていた、鋼の無表情。灰色の軍服に長剣を佩いた、背の高い影。


近くで見ると、さらに背が高い。私の頭ひとつ分は優に超えている。切り揃えた暗い髪。温度のない灰色の瞳。顔立ちは整っているが、表情が一切ないので、石から削り出した彫像みたいだ。


「近衛騎士団長、ライナルト・ヴェルナー」


騎士団長。


……近衛の、団長?


(えっ、断罪された令嬢の監視に団長を寄越すの? それはさすがに人材の無駄遣いでは?)


「マリアンヌ・シュタルクです。よろしくお願いいたします、ヴェルナー卿」


一礼する。ライナルト──ヴェルナー卿は無言で頷いた。それだけ。


扉の横に立ったまま、微動だにしない。


……これ、ずっとここに立ってるつもりだろうか。


「あの、お座りになりますか? 椅子がもう一脚ありますが」


「不要だ」


二文字。


「お茶でも──」


「不要だ」


同じ二文字。同じ声の高さ。同じ無表情。


(……会話、終了ですね。はい)


私は内心でため息をつきながら、山積みの書類に向き直った。


王妃殿下は有言実行の人だった。着任して一時間もしないうちに、侍従が書類の束を三回運んできた。貴族間の紛争案件だ。水利権、商権、土地の境界線。どの案件にも長い経緯と複雑な利害関係が絡みついている。


でも──構造は、見覚えがある。


(クレームの分類と同じだ。事実関係の争い、感情のもつれ、利権の奪い合い。分類して、優先順位をつけて、一件ずつ潰していく)


二十年やってきたことと、本質は変わらない。


手紙の山。嘆願書の山。告発の山。


一枚ずつ読み込みながら、私は前世の習慣で──無意識に、呟いた。


「菩提樹茶があったら、もう一杯飲みたいな……」


誰に言ったわけでもない。独り言。書類から目も上げていない。


だから、気づかなかった。


扉の横に立つ影が、一瞬だけ──ほんの一瞬だけ──こちらを見たことに。



気がつくと、窓の外は真っ暗だった。


ガス灯の明かりだけが執務室を照らしている。時計を見ると、日付が変わる少し前。


(……また、やってしまった)


前世でも、気づいたら終電がなくなっていた。あの悪い癖は死んでも治らないらしい。


肩を回そうとした時、視界の端で何かが動いた。


コトン、と。


机の隅に、カップが置かれていた。


白い湯気が立っている。琥珀色の液体。鼻先を掠める、甘くてほんの少し青い香り。


菩提樹茶。


「……え?」


顔を上げる。ライナルト卿は扉の横に立っていた。何時間も前と寸分違わぬ姿勢で。


「あの、これ──」


「任務だ」


三文字。目も合わせない。


(任務にお茶出しは含まれませんよね?)


突っ込みたかったが、飲み込んだ。代わりに、カップに手を伸ばす。


一口。


温かい。


びっくりするほど温かくて、不意に、目の奥がじわっと熱くなった。


断罪されて、婚約を破棄されて、父に見捨てられて、寮を追い出されて。たった一日でこれだけのことが起きて──それなのに、こんな深夜に温かいお茶が出てくる。


「……美味しいです。ありがとうございます」


返事はなかった。


扉の横の影は微動だにせず、灰色の瞳はまっすぐ前を向いている。


(無愛想な人)


でも──お茶は、温かかった。


温度が、ちょうどよかった。猫舌の私が火傷しないくらいの、絶妙な。


……まあ、偶然だろう。


私はカップを両手で包んで、もう一口飲んだ。



それから十分もしないうちに、もう一つの奇跡が起きた。


執務室の扉を叩く音。こんな時間に。


「お嬢様!」


扉を開けた瞬間、小柄な影が飛び込んできた。


「リゼット──!?」


栗色の巻き毛に、そばかすだらけの頬。丸い目にいっぱいの涙を溜めた、見覚えのある──いや、前世の記憶ではなく、この身体の記憶が覚えている顔。


リゼット。マリアンヌ付きの侍女だった少女。


「お嬢様、ご無事で……! ずっと、ずっと探していて……!」


「落ち着いて。大丈夫、私は元気だから」


泣きじゃくるリゼットの肩を支える。細い。この子、いつからちゃんと食べていないのだろう。


「あの、もうお屋敷には戻れなくて……旦那様が、お嬢様に関わった使用人は全員解雇だと……」


胸が痛んだ。


この子は、私のせいで居場所を失ったのだ。


「リゼット。あなた、ここで働く気はある?」


涙でぐしゃぐしゃの顔が、きょとんとした。


「宮廷調停官付きの侍女。給金は──たぶん、前よりは少ないと思うけれど」


「お嬢様のお傍にいられるなら、お給金なんて──!」


「いいえ、お給金は大事です。労働の対価はきちんと受け取ること。これは絶対」


(前世の反省。サービス残業は人類の敵です)


リゼットは泣き笑いの顔で頷いた。


落ち着いたリゼットにお茶を──菩提樹茶の残りを分けようとして、ライナルト卿が既にもう一杯用意していることに気づいた。いつの間に。


(……この人、本当にいつ動いてるの?)


リゼットがカップを受け取り、一口飲んで、少し落ち着いた頃。


彼女が、声を低くした。


「お嬢様。一つ、お伝えしたいことがあります」


「何?」


「あのエルミーラ嬢が──聖女認定試験の日程を前倒しするよう、女神教団に働きかけているそうです。お屋敷を出る前に、出入りの神官が話しているのを聞きました」


聖女認定試験。


前世のゲーム知識が、ざわりと警鐘を鳴らす。


聖女に正式認定されれば、エルミーラ嬢の証言は「聖女の神託」と同等の権威を持つ。そうなったら──断罪の「仮決定」を覆す手段が、ほぼなくなる。


「……日程は、いつに?」


「はっきりとは。ただ、年末の予定を大幅に繰り上げるという話でした」


年末。今は春の半ば。もし前倒しが通れば──猶予は数ヶ月あるか、ないか。


(のんびりしている暇は、ない)


ガス灯の火が揺れた。窓の外では、夜風が菩提樹の枝を揺らしている。


仕事がある。居場所がある。味方も──たぶん、一人と半分くらいはいる。


半分というのは、扉の横に立っている無表情の騎士団長のことだ。味方かどうかはまだ分からない。でもお茶は温かかった。


「リゼット、明日から早速動くわ。まず、今ある案件を全部片付ける。私の実力を宮廷に見せなきゃいけない」


「はい、お嬢様!」


机の上には、まだ半分も手をつけていない書類の山。


前世では、これを「本日処理分」と呼んでいた。


右手に羽ペン。左手に菩提樹茶。背中には、扉の横の無言の気配。


──さて、お客様相談室、異世界支店。本日より営業開始です。

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