第10話 期限は、終身で
名誉が回復された朝は、思ったよりも静かだった。
王の謁見室。正面の椅子に座った陛下が、短い勅令を読み上げた。
『マリアンヌ・シュタルクに対する断罪の仮決定を撤回し、一切の嫌疑を取り消す。名誉を回復し、シュタルク公爵令嬢としての身分および宮廷調停官の地位を正式に認める』
それだけだった。
拍手もない。音楽もない。卒業式典の断罪があれほど派手だったのに比べると、名誉の回復はひどく地味だ。
(まあ、そういうものか。壊す時は大きな音がして、直す時は静かなんだ)
前世のクレーム対応でもそうだった。問題が起きた時は大騒ぎするのに、解決しても誰も褒めない。
隣に立つ父が、私の肩に手を置いた。大きくて、角張った、政治家の手。──でも今日は、ただの父の手だった。
「よく、やった」
短い。この人も言葉が少ない。ライナルト卿と気が合いそうだ。
「ありがとうございます、お父様」
王妃殿下が、遠くから小さく頷いた。「褒めてはいない、事実だ」と言いそうな顔。──もう三回目だ、あの表情。
◇
昼。宮廷の食堂は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。
リゼットと向かい合って、遅い昼食を取っている。スープが温かい。パンが柔らかい。こんな当たり前のことが、今日はやけに嬉しい。
「お嬢様、聞きましたか。セドリック殿下は今朝のうちに王都を発たれたそうです」
「早いわね」
「地方のグリューネヴァルト領で研修、という名目ですが──実態はほぼ左遷と、侍従の方が」
リゼットはスープをすすりながら、声を落とした。この子は情報を伝える時、必ず声のトーンを変える。前世の後輩にも欲しかった資質だ。
「ヴィクトル・ロサリオ卿は、侯爵家の屋敷で謹慎中です。継承権停止ですから、弟君が次の嫡男になるとか」
「エルミーラ嬢は?」
「聖女候補の資格を剥奪されて、フォンティーヌ男爵家にお戻りになったそうです。……治癒魔法の腕は確かだったそうですから、どこかの神殿で術師として働くのではないか、という噂です」
(治癒魔法の腕は本物だったんだ。──あの才能を、真っ当に使っていれば)
思ったけれど、口には出さなかった。私が言うことではない。
「おや、調停官殿」
聞き覚えのある明るい声が、背後から降ってきた。
振り返ると、近衛の軍服を着た青年が盆を持って立っていた。ライナルト卿より少し背が低く、人懐こい笑顔を浮かべている。──ハンス副団長だ。
「昨日は大変でしたね。団長が割り込んですみません、緊急の案件って言ったの、実は大したことなかったんですよ。──あ、これは内緒で」
(大したことなかった? じゃあなんで走ってきたんですか副団長)
「ところで調停官殿。団長がさっきからそわそわしているんですが──いや、そわそわは言い過ぎですね。あの人が『そわそわ』したら、まばたきが一回増える程度なんで、普通の人には分からないんですけど。十年一緒にいると分かるんです」
「はあ……」
「何か報告があるとか言ってましたよ。昨日の続きだと思いますけど。──あ、団長には私が言ったって言わないでくださいね」
ハンス副団長は片目を閉じて去っていった。残されたリゼットと目が合う。
「……お嬢様。あの副団長、なんだか楽しそうでしたね」
「そうね。なんだかよく分からなかったけど」
(報告。昨日の続き。──何の報告だろう)
◇
午後。執務室。
机の上に、新しい書類の束が三つ。
着任直後を思い出す。あの時も書類の山だった。──でも今は一人じゃない。リゼットが仕分けを手伝ってくれるし、書類の読み方も七週間で格段に速くなった。
「お嬢様、こちらが国境付近の通商紛争、こちらが港の荷揚げ権の問題、こちらが──あ、これは花束ですね。アルベルト殿からです」
「花束は案件に入れないで」
(前世より忙しい気がするのは気のせいだろうか。いや、前世は年間三千件だったから、それに比べれば──でもあっちは電話があったし。ここは全部対面だし。……どっちもどっちか)
羽ペンを取って、一件目の書類に目を通す。
ふと、窓の外に目をやった。中庭の菩提樹が、初夏の風に揺れている。葉が茂って、木陰が濃くなった。着任した日には小さな若葉だったのに。
(七週間で、あんなに育つものなんだ)
木だけじゃない。七週間で変わったものは、たくさんある。
書類を置いて、立ち上がった。
「リゼット、少しだけ外の空気を吸ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ。──あ、お嬢様」
「何?」
リゼットが、少しだけ口元を緩めた。
「中庭の菩提樹の下に、誰かいらっしゃるかもしれません」
(?)
意味が分からなかったが、リゼットはそれ以上何も言わなかった。
◇
中庭の菩提樹の下に、灰色の軍服が立っていた。
壁に背を預けてもいない。腕も組んでいない。ただ、木の下に立っている。風が葉を揺らし、木漏れ日がまだらに灰色の肩に落ちている。
ライナルト卿が、こちらを向いた。
「……来たか」
「ヴェルナー卿。こんなところで何を」
「待っていた」
三文字。でも、今日の三文字は「任務だ」とも「問題ない」とも違う。
「昨日、途中になった」
「報告、でしたっけ」
「ああ」
ライナルト卿がベンチの方へ歩いた。座る──のではなく、ベンチの端に手を置いて、私が座るのを待っている。
座った。ライナルト卿は隣に──いつもの護衛の距離ではなく、もう少し近い位置に腰を下ろした。
沈黙。
菩提樹の葉が風に鳴っている。遠くで鳥の声がする。午後の陽射しが穏やかで、ベンチの木が温かい。
「護衛任務の延長を申請したい」
唐突だった。
(え? 護衛任務? でも、解任されたんじゃ)
「ヴェルナー卿、護衛の辞令は人事局が──」
「人事局の話ではない」
ライナルト卿の灰色の瞳が、こちらを向いた。
無表情。いつもの無表情。
──でも、耳が赤い。
灰色の髪の下から覗く耳の縁が、はっきりと赤くなっている。六週間と五日、毎日この人の顔を見てきたけれど、この色は初めてだ。
「期限は──終身で」
風が止まった。
いや、止まっていない。菩提樹の葉はまだ揺れている。鳥もまだ鳴いている。世界は動いている。止まったのは、私の頭だ。
護衛任務の延長。期限は終身。
(……終身?)
前世のクレーム対応二十年の頭脳が、全速力で回転する。護衛任務。延長。終身。──雇用契約でいえば、これは無期雇用。いや待って、「終身」って。
「あの──ヴェルナー卿。それは、プロポーズですか?」
聞いてしまった。聞いてから、自分の声の間抜けさに気づいた。
ライナルト卿は無表情のまま答えた。
「そうだ」
二文字。
(二文字!? 人生で一番大事な質問に二文字!?)
──でも、この人はそういう人だ。
菩提樹茶を黙って淹れる人。歩幅を合わせて何も言わない人。上着をかけて柱の影に戻る人。王子の前に立って拳だけ白くする人。「巻き込まれたいと言っている」と、たった一度だけ感情を言葉にした人。
全部、行動だった。言葉じゃなくて、行動で。六週間と五日分の行動が、今ようやく一つの言葉になった。
「あの時のお茶も──偶然じゃなかったんですね」
「……何の話だ」
「着任した日の夜。私が独り言で呟いた銘柄を、覚えていたんですね」
ライナルト卿は答えなかった。耳が、さらに赤くなった。
「上着も」
「……」
「中庭で、私が目を閉じている間にかけて、十歩離れたところに戻って。──あれも、任務でしたか」
「…………」
沈黙が長い。耳の赤さだけが雄弁だ。
「もう上着をかける口実がなくなりますね」
「……口実は、必要なくなる」
──ああ。
目の奥が、じわりと熱くなった。
前世の四十五年間、一度も言われなかった言葉だ。恋人いない歴イコール年齢。仕事しかなかった人生。クレームと胃薬と終電だけの毎日。誰にも「終身で隣にいたい」と言ってもらえなかった。
この身体の十八年間でも、言われなかった。悪役令嬢。断罪。婚約破棄。父に見捨てられ、社交界から締め出され。──誰かに選ばれることなんて、もうないと思っていた。
(なのに)
この人は、最初から見ていた。卒業式典の日、私の手が震えているのに声が震えていないことを。
ずっと見ていた。声は震えない。手は震える。その両方を見て、それでも隣に立つと決めた人。
「……承知いたしました」
声が出た。前世の口癖。クレーム対応の定型句。二十年間、何千回も繰り返した言葉。
──でも今、この言葉は、全く違う意味を持っている。
涙が落ちた。
堪えられなかった。声は震えていない。手も震えていない。ただ、涙だけが勝手に流れる。六十三年分──前世の四十五年と今世の十八年、全部合わせた分の涙が、初めて溢れた。
ライナルト卿の手が、私の手を包んだ。
大きい。温かい。剣を握る手だ。人を守る手だ。菩提樹茶を淹れる手だ。上着をかける手だ。
──この手が、私を選んだ。
「……泣くな」
「泣いてません。これは業務上の──」
「嘘が下手だ」
初めて聞いた。ライナルト卿の声に、笑いの気配が混じっていた。声は変わらず低くて、表情も変わらず無表情で。でも──確かに、一瞬だけ。口元が動いた。
見逃さなかった。六週間と五日、この人の顔を見てきた私は。
◇
夜。
執務室に戻って、書類の山に向き合った。隣にはリゼットが座っている。目が赤いのは菩提樹茶のせいだと言い張ったが、リゼットは「はいはい」と笑っただけだった。
扉の横に、灰色の軍服が立っている。
正式な護衛任務ではない。人事局の辞令は出ていない。──でも、そこにいる。
窓の外は暗い。ガス灯の明かりが、新しい書類の山を照らしている。
右手に羽ペン。左手に菩提樹茶。背中に、もう「任務だ」とは言わない人の気配。
(前世では、仕事しかなかった)
毎日がクレームで、定時で帰れたことなんて一度もなくて、恋人もいなくて、友達と呼べる人も少なくて。最後は──たぶん、過労で死んだ。
でも。
あの二十年がなかったら、私は断罪の場で泣き崩れていた。手続き不備なんて指摘できなかった。苦情記録簿もつけなかった。エルミーラ嬢の矛盾も見つけられなかった。ライナルト卿の──あの人の、お茶の意味にも気づけなかった。
(だから、前世の私に言いたい)
記録簿の最後のページを開いた。今日の日付の下に、何も書いていない。
羽ペンを取った。
業務記録ではない言葉を、初めて書く。
『お疲れ様でした、片桐統括課長。あなたの二十年は、無駄じゃなかったですよ。ちゃんと、誰かの役に立っています。──それから、ちゃんと誰かに選んでもらえました。だから安心して。あなたの仕事は、終わりません。場所が変わっただけです』
羽ペンを置いた。
インクが乾くのを待つ間に、窓の外を見た。中庭の菩提樹が、夜風に揺れている。葉擦れの音が微かに聞こえる。
「ヴェルナー卿」
「何だ」
「明日の案件、一件目は朝の鐘が八つからです。遅刻しないでくださいね」
「……遅刻はしない」
「知ってます」
菩提樹茶の最後の一口を飲んだ。
温かかった。いつも通り、ちょうどいい温度で。




