015.ギリギリの生還
熱いなあチクショウ…
深い怪我を負うと痛いより熱いって感覚が人を襲うって聞いてたけど、本当だったんなあ…
ああ、そういえば小次郎に噛まれた時も、そんな感覚だったっけ…
粗相を注意した俺に必死な顔で反抗してきてさ、思わず感情的になって手の平を振りかざした瞬間に、アイツはいつも「やっちまった」って顔して俺を見てたなあ…
感情を押し殺して、代わりに叩いた床の表面に、俺の血痕が幾つか散らばってさ、ジンジンとする手の平の痛みと、噛まれた箇所の痛みが二重に連なって襲ってきてさ、俺は何に対して怒ってるんだろうって、訳も分からず涙が出た。
…そんなあの時の痛みは今でも忘れらんねえ。
だけど、何より痛いのは心の奥だった。
自分より遥かに小さい動物を叩こうとした情けねえ馬鹿が住む心の奥だった。
暴力で支配して、一時の制圧感に酔いしれて、反抗する術をそれしか知らない小さな命に勝ち誇ろうとした馬鹿を、俺は心の中で殴り付けた。
テメエ、いったい何様なんだよってな。
尻尾を垂れ下げて、瞳いっぱいに涙をためながら、俺以上に涙をためながら、上目遣いで見てたアイツの顔は今でも忘れらんねえ。
動物にだって感情はある。
どんな生き物にだって感情はある。
だから、俺を殺そうとしたグレアウルフにだって感情はある。
自分の領域を侵されたくなかったか、それとも森の奥に案外小さな子狼がいたか、もしかしたら人間に怯えるか弱い仲間がいたりしたのかも知れねえ。
…分からねえけど、もしかしたら単純に俺を美味そうな獲物だと捉えただけかも知れねえけど、生存本能に身を任せたか、闘争本能に身を委ねたか、あるいは庇護欲を刺激されて何かを護ろうと必死になったのか、理由はどれだか分からねえけど…
分からねえけど俺は、俺はこの異世界で初めて生きてる何かの命を奪った。
殺らなきゃ殺られてたみたいな状況だったから仕方なく思えるかも知れねえけど、俺は身勝手な自己犠牲精神を盾にして、誰かの命を奪ってテメエが生き残る道を選んだんだ。
アイルの為だとか言って、本当は死ぬのが恐かったのかも知れねえ、心の奥底では本当は生きてみたかったのかも知れねえ、手を繋いで、笑って、温かい夕飯を共に囲んで、そんな幸せな日々がいつの間にか俺に「生きたい」と、思わせてたのかも知れねえ。
だから闇雲に剣を突き刺したのかも知れねえ…
……なんだっけな?確かこういうの「後悔先に立たず」とか、言うんだっけな?
仏教ではそれを『慚愧の念に堪えない』とか言うらしいけど、だけど俺は己のした行いをどうしても深く恥じたりは出来なかった。
ピクリとも動かなくなった尻尾を見ても、俺が死ねば良かったのかな?とは思えなかった。
だってそうだろう?
俺が死んだらアイルはきっと…
きっと馬鹿な選択をするに決まってるんだから…
◆
「あの… あのすみません。だ、大丈夫ですか? 息、出来ますか…?」
暖かい何かに包まれる感覚がして、柔らかい声で誰かが呼ぶのが聴こえて、冷たかった手足に痺れを通して血液が流れ込んでくる感覚がした後、そんな誰だか分からない優しい女性の声の主に、肩を揺すられながら、自問自答の波を彷徨っていた俺は目覚めた。
「……げほっ、げほげほっ…」
「ああ、良かった。息があった。…目覚めなかったらどうしようかと思った」
カラカラになった口の中からどうにか唾液を分泌させて、呼吸を遮っていた血の塊と混ぜ合わせ、溶かした痰をまだ赤い草原に吐き出した。
「なんで俺、生きて… げほっ、げほっ…」
「ああ!? まだ無理しないで! 簡単な治癒魔法しか掛けていないのですから、無理に起き上がろうとしては駄目です!」
震える手を支えにして起き上がろうとする俺を、優しい声の持ち主は必死に止めてきた。
魔法だなんだの言って、黒いローブの下にある顔を長い前髪で半分以上隠して、なんとも頼りない細い杖を持った怪しい雰囲気の女性は、致命傷を負っていたハズの俺の肩を掴んで慌てて止めたのだ。
「……魔法だと?」
押さえられた箇所は不思議と痛くなかった。
「えと、はい。すみません、本当に本当に簡単な治癒魔法しか掛けていないというか、掛けられないというか、未熟な私が第一発見者で本当に申し訳ないというか… とにかく、本当に、さっきまで息をしてなかったのですから、急に動こうとだけはしないで下さい!」
既に起こしてしまった上半身から周りを見る。
圧し掛かっていたグレアウルフは、その細い身体でどうやって動かしたのか分からないが、先ほどまで横たわっていた俺の隣に綺麗に退かされていた。
何も映さない瞳を開いて、呼吸を発さない口を開いて、もう何も噛み付けない牙の間から舌を垂らして、剣が突き刺さった喉から血を垂れ流したまま、力なく力なく脱け殻で横たわっていた。
「これ… アンタが退かしてくれたのか?」
「は、はい… えと、簡単な… 本当に初歩の初歩の重力魔法でですけど… 私にはそんな大きな動物は、その距離を動かすので精一杯ですけど…」
申し訳なさそうに、俺の知らない力を駆使して助けてくれた女魔法使いは言う。
俺にとっちゃ未知なる力で、死ぬ直前だった傷を塞いでくれただけでも、めちゃくちゃ有難いのに、その女魔法使いは必要以上に謙遜して必死に弁明するのだ。
「ごめんなさい… 私にもっと強い魔力があれば、貴女に傷は残らなかったかも知れないのに…」
濃い燕脂色に染まった服の間から、大きな穴の空いた服の隙間から、噛まれた箇所を覗いてみれば、確かに彼女の言ったとおり、鋭い牙で噛まれた痕が幾つも、まっさらだった俺の肌に痛々しく残されていた。




