第二十三話 自転車とあゆみちゃん 中編
彩湖へのサイクリングデートから、数日。
まだ帰宅していない、お父さまを除く。
お母さまと良太さんや、詩織ちゃんと菜摘ちゃんをあやしているわたしが。
夕食後のリビングで、のんびりと過ごしていると。
お母さまから、いつものように唐突な提案がありました。
「東松山の辺りにナシ園がたくさんあるの、週末にナシ狩りへ行きましょ」
何をいきなり、って顔をした良太さんは。
「ナシを食べているからって、ナシ狩りに行こうだなんて安直すぎるだろ」
そうでしょうか。
いつもどおりのお母さまらしくて、わたしには違和感がありませんけれど。
「ナシは今が盛りだし、近所で買うより大玉でとっても甘いのよ」
「だからって、東松山まで行くほどのことじゃないだろ」
乗り気ではない良太さんを、どうにかして説得したいお母さまは。
「あなただって好きでしょ、ナシは」
確かに、デザートのナシを一人でふた玉も食べたんですもの。
「好きとか嫌いとかって問題じゃないだろ、どうして急にナシ狩りなのさ」
「せっかく、あゆみちゃんが自転車に乗れるようになったんだもの」
「何の関係があるんだよ、ナシ狩りとあゆみが自転車に乗れることと」
「前に大家さんと行ったときに、森林公園の駅前で貸自転車を借りたのよ」
「ナシ園が東松山にあるなら、東松山の駅から行けばいいだろ」
「東松山は最寄りの駅ってだけで、ナシ園まで歩いて行ける距離じゃないの」
「森林公園から自転車で行くんだって、似たり寄ったりだろ」
「うるさいわね、あなたがあゆみちゃんとサイクリングをしたから悔しいの」
彩湖へのサイクリングについて、おっしゃっているのでしたら。
あの長い往復は、体力があり余っている良太さんはともかく。
わたしにとっては、それはもう苦行のようなものでしかなかったので。
サイクリングでしたら、当分の間はおなかいっぱいなのですが。
「それが本音か、つまらないことで子供と張り合おうとするなんて」
「つまらないとは何よ、とにかく週末にはナシ狩りに行くからね」
あれ、いつの間にかナシ狩りに行くことは既定路線に?
「ナシ狩りの前に、森林公園の駅前にあるホテルでお昼を食べましょ」
余計なことかもしれませんが。
ただお食事するのではなく、いつものようにお酒を飲むんですよね。
お酒が入ったら、ナシ狩りどころではなくなってしまうのでは?
「飲んでから遊びたいなら、都内にある屋内のレジャー施設に行けば」
良太さんの提案も、本末転倒なのではないでしょうか。
ここまでのやりとりはすべて、ナシ狩りに行くことが前提なのでは?
「近くて涼しいし、施設の中にはおいしいお店もあるよ」
「だめよ、あゆみちゃんとサイクリングをするのが目的なんだから」
お母さまにとっては、ナシ狩りよりそちらがメインなんですね。
「仕方ないわね、だったら食事はナシ狩りの後にしましょ」
「ナシ狩りに行くのはいいけれど、詩織と菜摘はどうするのさ」
まさか、お母さまとわたしが一人ずつ抱っこして?
「どうするって、三人娘に預けるに決まっているじゃない」
良かった、でも……。
あのお姉ちゃんたちですから、どうせ暇を持て余しているでしょうが。
遊びにいくから子守りをして、などと頼んだら。
自分たちも一瞬に行く、ぐらいのことはと言い出しかねませんよ。
「どうせなら、うちの近所からレンタカーを借りて行けばいいのに」
「わざわざ、レンタカーを?」
「詩織と菜摘も連れていけるし、中途半端にサイクリングをしなくて済むし」
う~ん、良太さんにしては正論だと思うけれど。
ナシ狩りの後には、ホテルでお食事をするんですよ。
結局、お酒が入って帰りの運転ができなくなるのでは?
「っていうか、うちはあゆみや詩織と菜摘もいて六人家族なんだから」
おおっ、良太さんからわたしも家族だという発言がっ!
「そろそろ、二人乗りから大きなワゴンに買い替えればいいのに」
この良太さんの発言にも、一理あると思います。
今年に入ってから家族が増えたのに、お父さまは。
例の二人乗りのオープンカーを、買い替えるつもりがなさそうですから。
「でも、大家さんは今の車を気に入っているもの」
その口調からすると、お母さまも同じようなことを考えてはいたのね。
「今の車を買い替えたくないなら、二台目を買えばいいだろ」
「駐車場はどうするのよ、わざわざ借りるの?」
「空いているじゃないか、隣の家のガレージが」
「うちや三人娘の駐輪場として使っているでしょ、それに蝶野の意向だって」
「九人乗りの車なら三人娘も乗れるから、蝶野さんも喜んで貸してくれるよ」
「大家さんが車を買い替えないのには、理由があるの」
「買い替えても意味がないからだろ、出掛けた先でお酒を飲むから」
いくら良太さんでも、それぐらいは察しがつくのね。
「分かっているなら、文句を言わない」
どうやら、車についての論争はペンディングになったようです。
おうちから森林公園駅までは、途中の駅で急行に乗り換えて一時間ほど。
ちょっとした遠足ですが、今のわたしが感謝しているのは。
土曜日の午前中の下り電車だけあって、乗客が少なくて良かったってこと。
というのも、お母さまが着ているのは。
気合いの入った、新品の真っ赤なトレーニングウェアでして。
ちょっとしたスポーツ遠足に行くんです、って感じに見えます。
しかも、わたしにもおそろいのトレーニングウェアを着させた上で。
隣に座らせているから。
この格好が周りからどう見えているのか、気になってたまないからです。
お母さまに聞こえないように、小声で良太さんに。
「こんなトレーニングウェア、いつの間に買っておいたのかしら」
「そんなに恥ずかしいと思うなら、着てこなければ良かっただろ」
「断れないわよ、お母さまから新品のトレーニングウェアを渡されたら」
まさか、おそろいだなんて思わなかったし。
「母さんったら、どれだけハードな運動をするつもりをしているんだか」
問題なのは、そこではありません。
おそいで真っ赤なトレーニングウェアを着ている、ということですよ。
こんな姿で、一日を過ごすなんて……。
「思っていたよりも普通なのね」
駅前を眺めて、思わずそう口に出しちゃった。
「普通って、何が?」
森林公園なんて駅名に、勝手に想像をめぐらせていたわたしが悪いのかな。
「もっと自然がいっぱいで、解放感に満ちあふれた風景なのかと思ったのに」
建物が低いしお店も少ないから、多少の郊外感こそあるけれど。
ごく普通の駅前なんだもの。
「こんなものだろ、駅を出たらすぐに公園があるってわけじゃないんだから」
それもそうよね、うちからたったの一時間ちょっとですもの。
気分も新たに、貸自転車屋さんに行くと。
先にお店に入っていたお母さまから、残念な報告が。
「どうして落ち込んでいるのさ、母さんから何を聞いたの?」
「それが、二人で乗れる自転車がないんですって」
「別々の自転車でいいだろ、あゆみは一人で乗れるようになったんだし」
「でも、二人用の方がデートっぽいのに」
「保護者が付き添いで来ているのに、今さらデートでもないだろ」
「隼人さんと優紀さんだって、二人で乗れる自転車が良かったはずよ」
「そりゃ、あの二人はデートなんだから」
「良太さんとわたしだって、立派なデートです」
「あれを見てもそう言えるの、母さんが一緒じゃデート感は皆無だろ」
良太さんが指差したのは、屈伸など一連の準備運動に余念がないお母さま。
返す言葉もありませんね。
駅前を出発し、ナシ園へ向かってのプチサイクリングが始まりましたが。
三組に分かれて、それぞれにつかの間のひとときを過ごしているんです。
景色を楽しみ、後ろからのんびりとおしゃべりしながら並走しているのは。
デート感がたっぷりの、隼人さんと優紀さん。
レース並みの激走で先頭を走って、すでに姿が見えなくなりつつあるのが。
体育会系を気取っているお母さまと、それに付き合うお父さま。
二組の中間を、近所へお買い物にでも行くかのように走っているのは。
日常の延長線上にいるかのような雰囲気の、良太さんとわたし。
さきほど、プチサイクリングと言いましたが。
森林公園の駅から梨園までは、それなりの距離がありますから。
運動が苦手なわたしにとっては、プチというより立派なサイクリングです。
既に、うっすらと汗をかいていますし。
あれだけ文句を言っていたトレーニングウェアですが、正解かもしれない。
そうはいっても、それなりに爽快っていうのかな。
駅から少し離れただけで、建物が少なくなって道も広いからかしら。
こうやって自転車で走っていると、風が気持ちいい。
「もう少しスピードを出したほうが、気持ちがいいんじゃないかしら」
そう言うわたしに、汗ひとつかいていない良太さんは。
「スピードの出し過ぎは危ないよ、自転車に乗れるようになったばかりだろ」
「でも、お父さまやお母さまほどじゃなくても」
「僕はわざとのんびり走っているんだよ、これもデートなんだろ」
それならそれで、もう少しでいいからデートっぽくしてくれてもいいのに。
せっかく、前後のふた組と距離が離れているんですから。
プチサイクリングを終え、梨園に着いて五分ほどしてから。
ようやく息も整い汗も引いてきたわたしが、園内をぐるりと見渡すと。
ナシの樹の下は日陰になっているから、日焼けを気にせずに楽しめるのね。
なんてお気楽なことを思っていたのは、ナシ狩りを始めるまで。
「そんなに走り回って、どうしたのさ」
「だって蜂がこんなに、きゃ~っ!」
こんなに蜂がいっぱい飛び回っているなんて、聞いていないわ。
「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても」
「だって、きゃ~っ!」
「こっちが手を出さなければ、向こうからは襲ってこないって言われただろ」
確かに受付にいた人はそう言っていたけれど、しょせん蜂ですもの。
「周りを見ても、誰も刺されていないだろ」
「わたしの周りにだけ蜂が飛び回っているから危な、おおっ!」
ぎりぎりでわたしの顔の前を横切る、不遜な蜂たちが。
もいだその場で食べる大玉のナシは、甘くてみずみずしいでしょうけれど。
すぐ近くを飛び回っている蜂を避けながらでは、とても食べるどころでは。
はあはあと息を切らしながら、タオルで汗を拭いているわたしに。
涼しい顔で、もいだばかりのナシを食べている良太さんが。
「サイクリングを終えたときよりも、今の方が汗や息切れがひどいね」
「ずっと蜂をよけながらだったから、くたくたなの」
結局、わたしはナシを採っても食べてもいません。
「でも、委員長は平気にしているじゃない」
「優紀さんは隼人さんといられれば満足なんです、蜂なんか気にならないの」
蜂と戯れることが前提となるナシ狩りは、お父さまと良太さんに任せて。
わたしとお母さまは、早々に虫がいない室内へ退散することに。
森林公園の駅前のホテルで、早めの夕食を済ませてから。
帰りの電車の中では、何やら携帯電話で調べものをしていたお母さまが。
「朝霞でブドウ狩りができるんですって、来週はそこに行ってみる?」
間髪を入れずに、良太さんがへきえきした顔で。
「僕はパスだよ、果物はうちの近くで買うので十分だから」
お土産のナシが入った大きな袋を、二つも持たされているから。
まるで、季節外れのサンタクロースが文句を言っているみたいね。
「どうしてよ、楽しいし近所で買うよりずっとおいしいでしょ」
「果物狩りなんて、何年かに一回行けば十分だよ」
「楽しそうにしていたくせに」
「そんなに行きたいなら、父さんと二人で行けば?」
良太さんは、おいしい果物を食べるのが楽しいのであって。
果物狩り自体には、これっぽっちも興味がないのね。
「じゃあ来なくていいわ、大家さんとあゆみちゃんの三人で行くから」
「あの……、わたしもパスでお願いします」
「どうしてよ?」
「良太さんが行かないなら、それに……」
サイクリングに続いて、蜂との戦いに体力を使い果たしたわたしとしては。
同じ果物狩りをするのであれば。
虫がいないイチゴ狩りなどの方がずっと、ず~っと好きだからです。
Copyright 2025 後落 超




