第二十二話 自転車とあゆみちゃん 前編
「どうしてそんなに嫌がるの?」
良太さんらしくないと思うわ。
いつもなら、わたしがお願いすればたいていのことは聞いてくれるのに。
今日の良太さんは、なぜだかごねているんだもの。
それでも、何としてもお願いをきいてもらいたいわたしは。
良太さんを説得しようと、試みているのです。
「九月に入ったっていうのに、まだこんなに暑いからだよ」
確かに、新学期が始まっても真夏の暑さが続いていますけれど。
「夏休みの間は、暑い中でも毎日のように隼人さんと外で遊んでいたのに」
「同じ炎天下にいるにしても、好きなことをしているのとでは少し違うだろ」
「わたしのお願いを聞くのは、好きなことじゃないと言うんですか」
「あゆみこそ、どうして自転車に乗る練習をしたいって言い出したのさ?」
そうなんです。
わたしのお願いとは、自転車に乗る練習を手伝ってもらうことなの。
別に、そこまでごねるようなことではないと思いませんか?
「そりゃ、自転車に乗れないからよ」
自転車に乗る練習をしたがるのに、他にどんな理由があるっていうの?
「でも、普段は自転車に乗らないだろ」
「ええ」
「それに、今まで乗れなくても困ることはなかったんだろ」
「まあ、特に困ることはなかったです」
「だったら、今さら自転車に乗る練習をする必要なんてないんじゃ?」
「良太さんと二人っきりで、サイクリングデートに行けるでしょ」
「サイクリングって、まるで昭和のデートだね」
二人っきりで過ごせるなら、昭和どころか明治のデートでもいいわ。
「それに、たとえ自転車に乗れるようになっても僕らは遠出ができないだろ」
「どうしてですか?」
「だって、詩織と菜摘がいるから」
「良太さんは、大きな勘違いをしているようですね」
「何をどう勘違いしているって言うのさ」
「詩織ちゃんと菜摘ちゃんは、わたしの子供ではないんですよ」
「えっ!」
ここで驚いている時点で、勘違いの極みでしょ。
「わ・た・し・は、お母さまから二人を預かっているだけですから」
「遠出ができないってことについては、同じことだろ」
「できるでしょ、詩織ちゃんと菜摘ちゃんをお母さまに預ければ」
「それに、わたしが自転車に乗れないとこれからは何かと不便でしょ」
「今さっき、困っていないって言ったばかりだろ」
「子供ができたら、幼稚園の送り迎えやお買い物では自転車に乗れないと」
「詩織と菜摘だけで手一杯なのに、これ以上誰の子供が?」
「決まっているじゃない、わたしと良太さんの子供ですよ」
「ちょっと待ってよ、いったい何年先の話をしているのさ」
「あっという間ですよ、わたしの予定だとあと十年もないんですから」
そんなにびっくりしないでください。
「大学を出てすぐに結婚をして、これまたすぐに子供が生まれたら」
「そんな具体的なことを、いきなり言われても……」
「十年なんて、あっという間ですよ」
「そのときが近くなったら、練習すればいいだろ」
泥縄の極みじゃない。
「大人になってからだと難しいって聞いたから、今から練習するんです」
「そうだ、あゆみは自転車を持っていないだろ」
良太さんたら、どうにかして断ろうと必死なのね。
「ご心配には及びません、これから自転車を受け取りに行くんですから」
「へっ?」
「お母さまにお願いして、橋の手前の自転車屋さんで買ってもらったんです」
それを聞いた良太さんは、舌打ちと同時に聞こえないような小さな声で。
「僕がねだったときは、買ってくれなかったくせに」
どうにか断れないものかと、あきらめの悪い良太さんは。
「五年生のときに買った僕の自転車は、今じゃ小さいからサイクリングは」
わたしの自転車の次は自分の自転車ですか、あの手この手を使っちゃって。
「それなら大丈夫、良太さんの自転車も買ってもらいましたから」
「まったく、どうかと思うな」
「さっきからうるさいわね、何が不満なの」
「あゆみに言われると、何でもかんでもすぐに買い与えるのって」
お母さまと一緒に自転車屋さんに向かう途中、文句を言っている良太さん。
「僕がねだっても、聞いちゃくれないのに」
「あなたは年がら年中、何でもかんでもねだっているからでしょ」
「だからって」
「めったにない、あゆみちゃんからのおねだりだもの」
「ひいきし過ぎだろ、あゆみばっかり」
そんな感じで、お店に着くまで文句を言っていた良太さんですが。
お店の外に準備してある、サイズ違いの二台のピカピカな自転車を見ると。
「僕のはともかく、どうしてあゆみの自転車までこんなのを」
「そんなことをあたしに言われても、選んだのはあゆみちゃんよ」
「はい、何ごともおそろいなのはいいことですから」
「僕が言っているのは、おそろいってことじゃないよ」
目の前に置かれた自転車は、ピカピカのクロスバイクなんです。
「何が問題なの?」
「これじゃあゆみは乗れないだろ、普段はスカートなんだから」
「いいんです、これはサイクリング用の自転車ですから」
「それにしたって、かごが付いていないから普段使いには不便だし」
往生際が悪いわね。
ピカピカの自転車を押しておうちに戻ってくるなり、お母さまが。
「あゆみちゃんに自転車に乗る練習をさせるなら、言っておくことがあるわ」
「何さ」
良太さんったら、そこまでめんどくさそうに言わなくても。
「どこで練習させるつもり?」
「銭湯の裏に公園があるだろ、あそこで」
「あそこはだめよ」
「どうして、あの公園じゃだめなのさ」
手ぜまだけれど近いし、何より人がいないからいい選択だと思いますが。
「あそこは下が砂利だもの、芝生のところじゃなきゃだめよ」
「下が芝生じゃなきゃだめ?」
「あゆみちゃんがけがしたり、けがの痕が残ったりしたら困るでしょ」
「芝生の上で自転車の練習ができるところなんて、この辺りにはないだろ」
「荒川の河川敷で練習したら?」
「自転車で一時間もかかるし、自転車に乗れないあゆみにどうやって行けと」
「じゃあ小学校の校庭はどう、日曜日には開放しているじゃない」
「校庭は自転車の乗り入れは禁止だよ、小さな子もいるんだから」
手札が切れかけているお母さまに、お父さまから手助けが。
「だったら交通公園はどうだ、自転車を練習するならちょうどいいと思うよ」
「交通公園って、どこにあるの?」
「前に仔犬を見たペットショップがあるだろ、あの近くだよ」
「犬作戦のときのペットショップか、隣駅の商店街の出口に近い」
良太さんの犬作戦を思い出しているのか、複雑な顔をしているお母さま。
「ああ、商店街の出口から川越街道を渡って少し行けば交通公園があるんだ」
「うちから自転車を押して行ったんじゃ、三十分もかかるよ」
「文句を言うんじゃないの、あゆみちゃんのためなんだから」
交通公園へと、わたしと良太さんが出発したのは日曜日の十時過ぎ。
十時過ぎといっても、すでに真夏の午後のようなかんかん照りです。
気温は、ゆうに三十度を超えていますし。
麦わら帽子をかぶり、ハンディファンを手にしているわたしにとっては。
暑いとはいえ、我慢できる程度のお散歩でしたが。
良太さんには、かなりハードだったみたい。
たったのひと駅とはいえ、途中からはだらだらと上り坂が続きますし。
一人で二台の自転車を押して、歩いていたんだものね。
わたしは自分で押すって言ったのに。
この暑い中、わたしにそんなことはさせられないって言うんです。
だったら、良太さんだけでも自転車に乗って。
わたしの自転車は、ハンドルを持って引いていけばいいのにと言ったのに。
歩くわたしにあわせて、ずっと歩いてくれていたの。
あれだけごねていたくせに、優しいんだか優しくないんだか。
さて、ようやく交通公園に着きましたが。
「じゃあ、練習を始めようか」
「少し休みましょうよ、木陰でジュースでも飲まない?」
「歩いたから、喉が渇いたの?」
「良太さんが汗だくで、まだ息を弾ませているからです」
それに、すぐ練習を始めようとしている良太さんには悪いんですけれど。
周りを見ると、この公園にいるのは小さい子供とお母さんばかり。
ここって、小さい子供が交通ルールを学びながら自転車で遊ぶ場所では?
付き添いの人はともかく、中学生どころか小学生でも高学年はいないのに。
中学一年生の女子が自転車に乗る練習をする場所としては、どうかと。
「背筋を伸ばすんだよ、目線は前方十メートル先に置いて」
そう言うと、自転車にまたがるわたしを心配そうに見ている良太さん。
フィールドアスレチックでは、見事に池に落ちてみたり。
ボート釣りでも、乗り込むときに派手に海へと片足を突っ込んだり。
そんな運動音痴のわたしだもの、心配するのも無理はないわね。
「初心者は怖がって、ペダルをゆっくり踏むからふらつくんだ」
「はい」
「ちゃんと踏み込んでスピードが出れば、安定して前に進むんだよ」
ふうん、慣性の法則ね。
「じゃあ、ペダルを踏んでみようか」
「えいっ!」
「何だよ……」
ふくれっ面で、そうつぶやいている良太さん。
当人のわたしにとっても、望外なことが起きておりまして。
「良太さんの教え方が良かったのよ、きっと」
そう言って機嫌を取ってはみたけれど、これといった効果はなさそうです。
「教えるも何もないだろ、勝手に走っていっちゃうんだもの」
と、いうのも。
後ろからしっかりと荷台をつかんでもらって、そろりそろり。
自転車に乗る練習なんて、そんなイメージだったけれど。
練習を始めてから三分もしないで、乗れるようになっちゃったんですもの。
「中学生にもなると、始めてでも何とかなっちゃうものなのね」
小さい子だらけのこの公園から、少しでも早く抜け出したい。
そんなわたしの願いが通じて、奇跡が起きたんだと思います。
「こんなにあっさりと乗れるなら、うちの前で練習すれば良かったな」
確かにそうでしょうが、わたしまでそう思ったらおしまいのような気が。
「これだって、後になれば二人の思い出になるのよ」
「思い出といっても、暑い中に自転車を押した上り坂の思い出じゃね」
交通公園からおうちまで、わたしの初サイクリングを終えて。
一時すぎに、おうちに帰ってきてからは。
涼しくて快適な良太さんのお部屋で、冷えた切りたての桃を食べながら。
「自転車に乗れるようになったから、サイクリングデートができるわね」
「一難去ってまた一難か、やれやれ……」
良太さんたら、お皿の桃に目を落としながらげんなりしているわ。
「で、あゆみはどこに行きたいの?」
「荒川の上流に彩湖っていう貯水池があって、周りが公園なんですって」
「彩湖ならおととしに隼人と行ったな、笹目橋のずっと先にあるよ」
「笹目橋って初めて聞くわ、どこにあるの?」
「高島平の先、戸田橋の次にある橋だよ」
「ふうん、戸田橋ならうちから中山道で一本でしょ」
「中山道は幹線道路だから車が多いよ、初心者が走るには危ないと思うな」
「確か、自転車が歩道を走ってもいい標識があったわ」
幹線道路で、歩道が広いからなのね。
「こんなに暑いのにサイクリングなんて、十月に入ってからでいいだろ」
「せっかく乗れるようになったんだもの」
「はあ……」
「戸田橋から彩湖までは、土手がサイクリングロードになっているって」
「いつ調べたんだよ、そんなこと」
「土手なら、風を切って走れるでしょ」
「風といっても、熱風じゃ」
「来週末には、暑さも一段落するってニュースで言っていたわ」
自転車の練習に続き、ここまでごねるとは。
しかたないから、とっておきの奥の手を出しますか。
「せっかく、おいしいお弁当を作ってあげようと思っていたのに」
やっぱり、お弁当って言葉に反応しているわ。
「エビフライに、カニクリームコロッケでしょ……」
「分かったよ、いついくの?」
「来週末、土曜日にしましょ」
わたしって、いけない子かしら。
夏休みに入ったころ、わたしの水着を買うのについて行きたいからと。
釣りざおを買ってあげることや、当日の食事のランクアップをえさにした。
お母さまみたいな手を使っちゃった。
同じような手であっさり釣られる、良太さんも良太さんだと思うけれど。
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