5.
あれは夢だったのだろう。
しかし、あれほど心が揺り動かされる夢を、遼はかつて見たことがなかった。
乾いた草原のうえにどこまでも広がる青空を、遼は忘れることができなかった。
野獣のように剣を振るったときの感触はいつまでも手に残っていたし、敵のあげる血しぶきの瑪瑙のようなきらめきも、目に焼き付いている。
主観で断じることが許されるならば、あれは夢を超えたなにかだった。
しかし、その衝撃は、時間とともに薄れていき、そのうち、日常の生活のなかにゆっくりと埋没していってしまった。
そのことを、唐突に思い出すことになったのは、中三の冬休みのことだった。
まわりは受験の追い込みでにわかに慌ただしくなり、遼も朝から晩まで冬期講習に通って、三平方の定理を用いた図式の説き方やら、フランス革命を構成する一連の歴史的なできごとの年号やらを、必死に頭に叩き込んでいた。
割と仲のよかった隣の席の女子が、小ぶりのかわいらしい鼻のしたにシャープペンを挟みながら、
「ねえ槙島くん息がつまんない?」
と声をかけてきた。
「あと二か月の辛抱だよ、がんばろう」
「わたしたちには息抜きが必要だと思うの――」
と言って、その女子はなにかを思いついたように腕をつかんできた。
「ねえ、このあと時間つくれない」
「どこか行きたいとこあるの」
「駅東のタワー・レコードから少し入ったところに新装開店したんだって。
いってみない?」
「カラオケとか?」
有川クミという名のその女子は真顔で首を振って、
「ラブホテル」
と言った。
「スケスケの浴槽が虹色にひかるんだってさ」
「……よく知ってるね」
「お姉ちゃんの友達が言ってた」
遼はともあれ冗談だと思って、調子を合わせた。
「それは是非とも確認しないと」
「でしょ」
「けれど、相当疲れてるね……」
「わかる? ――」
と、クミは言った。
「朝から晩まで勉強漬けだし、親には模擬テストの結果をみせるたびにギャンギャン言われるし。
最近はさ、エロい妄想ばっかりで全然集中できないんだよね」
軽くむせて、
「俺がいまうどんを食っていたら確実に鼻から垂らしてた……」
「切実なんだって」
「そりゃたいへんだけど」
と、遼は言った。
「でも残念。
おかねがない。
もっとおかねを持ってる素敵なオジサマでも誘ってあげて」
「こないだ、お年玉けっこうもらったって話してたけど?」
「………」
「割り勘ならいいでしょ」
「……ていうかマジなの」
クミは悪戯っぽく顔を寄せて声をひそませ、
「どうせ槙島くん童貞でしょ。
そろそろ卒業しといたほうがいいよ」
実を言えば、遼はこの少女に恋をしていた。
突拍子もない冗談を言うのは前からのことだったので、
「いいだろう、俺の初めてのオンナになってもらおうか」
と応えて、八時過ぎに塾を終えてから、ふたりで駅東を散策することになった。
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