17.
刀身にありったけの闘気を込めて、衝撃波を放つ。
赤い靄と植込みが三日月のかたちに歪んで疾走し、巨人のゼリー状の表皮を撃つ。
激しく渋いて筋線維や腱が露出する。
しかしそれからが続かない。
まるで濁流に逆らって進もうとしているかのようだった。
仕方なく、巨人に大きなダメージを与えるのは諦め、こちらに関心をひきつけ、校舎から引き離そうとしたが、巨人は玩具に魅せられた子供のように、アヤメを無視して校舎を破壊し続けている。
中庭へと踏み込み、巨大な腕を壁に叩きつける。
地震のように辺りが振動して、窓ガラスがいっせいに砕けた。
破片が月影にきらめいて降ってくる。
アヤメは頬にひとすじの水気を感じた。
拭ってみると、それは血だった。
巨人の尻や腿、ふくらはぎめがけて、衝撃波を乱射するが、厚く覆うゼリーはいかんともしがたい。
舌打ちをし、股をぬけて正面にまわる。
見上げると、巨人の威容が闇夜にむかって聳えている。
胸のあたりに、金色に輝くものがある。
それが液状の表層のおくで、ゆらゆらと揺らいでいた。
あそこに衝撃波を叩き込みたくとも、届かない。
ダメージを最大化するには、至近距離から攻撃を放つ必要があった。
危険は承知だった。
自分は≪魔物≫との戦いに命を賭す用意がある。
生徒会長としての責任も、壇上で誰も聞いていない話をべらべらと喋ってアピールすることでではなく、実際の行動で果たすつもりだ。
星宮家のことは、もはやどうでもいい。
命を賭す覚悟もない人間が、命を賭す覚悟のある人間にむかって、勝手に期待をし、勝手に失望していた、と気づいたとき、あの連中はどんな顔をするだろう。
恥を知る人間であれば、穴があったら隠れたい気持ちになるだろう。
けれど、世間というものは、その程度の羞恥心すら持ち合わせていない、ということを、アヤメは経験からよく分かっていた。
だからなにも期待しない。
ただここで、黙って責任を果たすだけだ。
自分で自分に課した責任を。
せめて、巨人の手首や足首の腱を断つことができれば、と思う。
衝撃波を放つたびに全身の生気が抜けていく気がする。
それほど消耗する。
威力が減じていくことはあっても、増していくことはない。
最初の一撃がそこまで届かなかった時点で、勝敗は見えていた。
けれどもアヤメには、最早、そんなことはどうでもよかった。
自分は一介の兵士でいい。
兵士が勝手に勝ち負けを考えて進んだり引いたりを決めていたら、戦いは成立しない。
アヤメは狂ったように刀を振るい続けた。
巨人の表皮が波紋に揺れている。
それが月影に不気味な光沢を放っていた。
腕をあげるのさえ、つらくなってきた。
一つ目の虹彩の、おぞましいグラデーション。
ガラスの破片や瓦礫が雨のように降り注ぐ。
脚がもつれて、刀を支えにしようとしたとき、ゼリー状のものがぶうんと空気を唸らせた。
気づくと、アヤメは身体ごともちあげられていた。
ゼリー状の表皮にとりこまれて、そこから外を見ている。
視界が揺れているので、それが分かった。
呼吸ができない。
自分の口から洩れた呼気が泡になっている。
さらに身体がもちあげられる。
かなたに、黒い丘陵の線と、暗灰色の雲が見える。
眼下には、ぎざぎざの薄汚い歯と、唇にふちどられた昏い穴があった。
巨人はそこに自分を落とすつもりだろう。
アヤメは、自分でも不思議になるほど澄んだ気持ちで、その穴を見下ろしていた。
これで、すべてが終わってくれる。
死んだら、槙島は哀しんでくれるかな。
そんなことを想うと、悲しい笑みさえ浮かんだ。
汚い死体を晒すことにならなければいいけれど。
そんな姿で、かれの記憶に残るのはいやだった。
ふわりと、身体が宙に投げ出される。
屋上のフェンスのかなたに、天の川が見える。
燦然として、美しかった。
それを背にして、なにか黒い影のようなものがよぎった。
すぐには分からなかったけれど、やがて、それは、あの朝、体育館で見かけた男の子のすがただと気づいた。
凛としたふたつの眼がこちらをまっすぐに見ていた。
もしかしたら、あの瞳はアヤメではなく、アヤメのすぐうしろにいる、死に別れた女の子のことを見つめているのかもしれない。
けれど、いまはそれでもよかった。
槙島遼が一陣の風となり、アヤメにむかって懸命に手を伸ばしてくれている。
幸せな気持ちに包まれた。
抱き上げられた。
次の瞬間にはもう、実習棟の三階のガラス窓をやぶって、音楽室に転がり込んでいた。
制服すがたの槙島が、ゆっくりと立ち上がる。
破れた窓から射す月明かりのなかで、美しい武人の姿に変じ、また戻った。
優しい笑みを浮かべていた。
「間に合ってよかった」
と、彼は言った。
アヤメは、いろいろな思いが胸にいっぺんに押し寄せてきて、涙がとまらなくなった。




