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狂った博愛主義者を生んだある悲劇についての記録  作者: 栗山大膳
第四章 博愛主義者はだれも一人では歩かせない
69/75

13.


   ***




≪赤い靄≫のむこうに、邪念が渦巻いている。



 それは空間的に、ということではない。



 靄にはなにか、次元を超越した奥行きみたいなものがある。


 月岡はそれをはっきりと感じていた。その意味においての、靄のおくに、ということだ。


 そこに、集合意識レベルの、なにか巨大で漠然とした、身の毛もよだつ思念が、蠢いているのである。



 初めて≪瘴気≫を体験したときは心底おぞましいと思ったものだが、いまでは、たとえば気圧の差から風が起こるようなものだと感じていた。


 それはものごとが自然の流れに沿って進行した結果として起こるものに過ぎない。


 多くの人間が苦しみ、憎しみ、怒りや恐怖といった感情の汚泥にまみれて生きている。


 何千年もまえから、だ。


 もし思念や感情といったものにエネルギーがあるとすれば、それらの負の思念はめぐりめぐってどこかに溜まり、いずれ嵩を増した濁流が堤防を決壊させるようにして、この現実の世界へと流出せずにはおかないのだ。


≪瘴気≫とはようするにそれである。



 生き物はすべて、食らいあうように出来ている。


 人間もおなじで、負の思念をたぎらせて互いに傷つけあい、最後には殺しあうのが自然の帰結というものだ。


 そうして勝者がすべてを奪う。


 人間の歴史はそんなふうにして成り立ってきたのではないか。


 だとすれば、月岡がこれからやろうとしていることを責められるいわれはない。


 誰からも、だ。


 偽善者どもには、言いたいことを言わせておけばいい。



 まずはワンボックスを校門のまえに乗り付けて、防犯カメラを金属バットで叩きおとす。


 襲撃のメンバーがふたりががりで校門にかけられた鎖をボルト・クリッパーで切断する。


 スモークで窓を覆った自働車数台を学校の敷地に乗り入れさせる。


 縁石を踏み、芝生を横断して、寮のまえに乱雑に停める。



 カー・ライトが、寮の無人のエントランスを照らしている。


 なかでは、いくつかの常夜灯が淡いひかりを床やテーブルに投げかけていた。


 消火栓の赤い灯りが見える。


 ロビーはしんと静まり返っていた。


 建物を見上げると、窓にはいくつか明かりがついていた。


 寮生が勉強でもしているのだろうが、それらはすべて無駄な努力になる。


 もうすぐ、男子はことごとく殺され、女子はそのほとんどが拉致されてゆくのだ。


 月岡はにやりと笑った。


 数十人の部下たちは、黒のフェイス・マスクをし、手には木刀や鉄パイプを持っている。


 人数分のスタン・ガンも用意した。


 カード・キーのどこに高圧電流を当てれば扉がバカになるか、皆ちゃんとわかっている。



 あとは寮のエントランスのガラスをぶち破り、寮生どもを部屋から引きずり出して、やりたいようにやるだけだ。



 月岡は数十人の仲間たちを見渡した。


 赤い靄が流れて男たちを覆うと、鬼の群れに変じた。



「準備はいいな。


 遠慮はいらねえ、このムカつく寮を無人の廃墟にしてやれや」



 いっせいに殺伐とした怒号があがり、ならず者たちがバールをドアにさしこんでこじあけ、あるいは叩き割り、どっと雪崩れ込んでゆく。


 月岡はそれを見届けて、自身も悠然とロビーに踏み入っていった。



 まずは受付の小型金庫でも漁るつもりになって、ドアに蹴りをいれようとしたとき、先行させた部下たちが異様な声をあげているのに気が付いた。



 なにかが立て続けに潰れる騒音が響き、水気のものが床に撒かれるような音が続く。



 立ち尽くす男たちをかきわけて、アッと声をあげそうになった。



 頭をかち割られた部下が、床に伸びている。


 瞳孔がひらき、口から泡が滴っていた。



「……寮生を殺しにきたんだろ?」


 と、赤い靄にかすむ奥から、低い声が発せられた。


「なら、これは殺し合いだ。


 こっちもそのつもりでゆくが、構わないよな?」



 靄のなかから、昔ふうのサングラスをかけた大柄な男が、ぬっと現れた。


 その姿が、一瞬、憤怒の相をした明王に変じる。


 いきなり鉄パイプを振るって、男たちを立て続けに殴打。


 頭蓋が砕けて、脳と髄液が窓に飛び散る。


 壁と床が黒く染まった。



「あいにくだが、いま寮生はひとりもいないよ」


 と、男は言った。



「て……適当なことを抜かすな。


 電気がついていたぞ」



「バカかおまえは」


 と、男は鼻で笑った。


「まだ気づかんのか」



「ど、どこにやった」



「答えてやる必要はあるまい」


 男は穏やかに言いながら、鉄パイプを振り下ろす。


 眼のまえの部下が頭を粉砕され、胸の半ばまでめり込んだ。


 その返り血が男の頬にかかる。



「こ、この野郎!


 待ち伏せてやがったな!」



「だとしたら、なんだ」


 と、男は言った。


「いま降参すれば楽に死なせてやるが、どうする?」



 間違いない、と月岡は思った。


 この男が黒崎だ。


≪鬼道衆≫のだれもがこの男を恐れていた。


 会えばまず殺されると思ったほうがいい、という話だ。


 クソッ、古館にハメられた。


 月岡は失敗を悟った。



 じりじりと後ずさり、それから黒崎に背をむけて、一目散にエントランスへと走った。



 その先には、黒装束をまとった美男が立ちはだかっていた。


 月明りに、白い横顔が浮かんでいる。


 優雅な立ち姿だったが、その眼つきだけが嗜虐の狂気をたぎらせていた。



「逃がすわけないだろうが、下種どもが」


 そうしてすらりと刀を抜き、その刃先をちろりと舌先で舐め、


「ここで全員、皆殺しにしてやるよ……」



 幾人かの男たちが、金属バットやバールをふりあげて、どっと黒装束の男に押し寄せる。


 一瞬だった。


 刀が光沢を閃かせたかと思うと、鮮血があちこちで繁吹しぶいた。



 たくさんの得物がいっぺんにコンクリートの床に落ち、甲高い音をたて、残響を引いた。



 月岡はぞっとなった。


 到底、かなう相手ではない。



 ロビーからガラス張りの温室ようなところへ逃げ込む。


 そうして非常口を見つけ、ひどく震える指でなんとか鍵をひらき、外へ飛び出る。



 そこには、袴に胸当てのようなものをまとった、美貌の女が待ち構えていた。



 なにもいわず、ただすらりと刀を抜く。



 その刀身が、月のひかりを受けて、白く浮かびあがった。



 女は、面倒くさそうな表情を浮かべて、無造作に近づいてくる。



「お……おれが悪かった!


 反省している!


 降参する!


 許してくれ、この通りだ!」



 月岡は、土下座をした。


 この際、プライドなどどうでもいい。



 女は黙って、じっと自分を見下ろしているようだった。


 頭のうしろに、痛いほど視線を感じる。



「おれを殺さないほうが得だぞ!


 あんたたちに、提供できる情報もある!


 すべてを話そう!


 まだ計画があるんだよ!


 あんただって知りたいだろう!」



 女がため息をつき、剣を鞘に収めるカチリという音が、月岡の耳朶をうった。


 月岡はいまをいてほかにないとばかりに、手に砂まじりの砂利を掴み、顔をあげるなり、女めがけて投げつけた。


 そうして立ち上がり、転げるように走った。


 植込みに飛び込み、茂みのなかを這うように進む。



 心臓が激しく、脈を打っていた。


 胸を割って飛び出してきそうなほどだ。


 また、例の痛みが始まった。


 いつもより桁違いに疼く。


 まるであばら骨に五寸釘を打ち込まれているかのようだった。


 けれどもうめき声をあげる訳にはいかなかった。


 あげて見つかれば、今度こそ問答無用で殺されるだろう。


 かといって、茂みから出て校門までたどりつくのも困難に思えた。


 あれだけ周到に待ち伏せをしていた連中のことだ。


 簡単には逃がしてくれないだろうし、ここから逃げおおせたとしても、≪討魔衆≫の連中にどこまでも追い込みをかけられるだろう。



 クソッ。


 クソッ、クソッ。



 こんなところで死んでたまるか。


 なんとかこの場をしのぎさえすれば、暇に飽かせて合成ドラッグに酔い、カネがなくなれば強盗殺人をし、気に入らないヤツがいれば拷問して殺害するという、自堕落でなんの不満もない生活を送ることができるのだ。


 そう思うと死ぬのが心底おそろしかった。


 黒崎の鉄パイプで頭を潰されたくなかった。



 声をあげてはいけないというのは分かっていたが、喉の奥から勝手にうめき声がこぼれるのを、どうすることもできなかった。



 そうだ、キュクロプス!


 俺には強い味方がいた。


 あの悪魔なら、この窮地を脱する方法を知っているかもしれない。



「おい、答えてくれキュクロプス。


 おれはどうすればいいんだ。


 まだ死にたくない。


 頼む、力を貸してくれ」



 とつぜん、背後から肩を掴まれた。


 おおきくてずしりとした手だ。


 黒崎か! ぞっとなって首をまげる。


 そうして息をついた。


 月明りを受けて、濃緑にぬめる指。


 キュクロプスの手に違いなかった。



「た、たすけてくれ!


 おまえだけが頼りだ!」



 巌のような異形は、ひとつ目で月岡をみおろし、野太い声でこう言った。



『おまえ自身を、我に捧げよ……』



 言わんとするところが、うまく呑み込めない。



「……なにを言っているんだ」



『我が生贄となれ……そうすれば、あの者どもを片付けてやろう……』



 棘のような睫毛に縁どられた眼が、じっと自分を見つめている。


 両生類の卵を連想させる虹彩が、なめらかな艶を帯びていた。



「ば、ばかを言うな」



『ほかに手はないぞ……クク、諦めろ……』



「い……いやだ……や……やめろ!」



 キュクロプスは、有無をいわさず月岡を掴みあげる。


 必死にあがきながら、月岡の瞳に最後にうつったのは、粘液にまみれた薄汚いギザギザの歯と、白い苔がびっしりと生えた巨大なナメクジのような舌だった。


 視界が闇に覆われるとすぐに、すさまじい痛みに胸をつらぬかれた。


 ぬるぬるしたものに頭を挟まれ、悲鳴をあげるつもりが、くぐもるばかりで声にならなかった。……


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