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狂った博愛主義者を生んだある悲劇についての記録  作者: 栗山大膳
第四章 博愛主義者はだれも一人では歩かせない
61/75

5.


   ***




 なにか取り返しのつかないことをしてしまったような、焦燥感。



 ハッとして身体を起こす。


 机のデジタル時計を見ると、10時を過ぎていた。


 完全に寝過ごした。


 目覚ましのアラームは、設定した時刻にたしかに鳴った。


 それを、身体を引きずるようにして止めにいき、血圧があがってくるのを待つつもりで、ベッドに座った。


 そこからさきの記憶がない。


 横になって二度寝してしまったようだ。


 完全な遅刻のパターンだった。



 スマホは二通のメールを着信していた。


 一通は扇谷からだった。


『疲れているのは分かるがさっさと起きろ。


 遅刻するぞ』


 二通目は担任の広瀬弥生からだった。


『昨夜は遅くまでお疲れさま。


 体調不良で遅刻、ということにしておきます。


 眼が覚めたらメールしてね』


 これにはハートマークが添えてあった。



 遼は、扇谷に、



『先に行きやがって、この薄情者が』



 と打って送り、担任の広瀬には、



『すみません今起きましたすぐに登校しますごめんなさい』



 と、書き送った。



 ひどい寝ぐせだったが、放置せざるを得ない。


 顔を洗って歯を磨き、部屋着をティーシャツごと脱いでトランクスひとつになり、ワイシャツにそでを通し、靴下とスラックスを穿き、ブレザーを背中にまわす。


 財布とスマホをポケットに突っ込み、ネクタイと鞄をつかんで、寮室を出た。



 廊下では、私服と制服の警官が慌ただしく行き来していた。


 鑑識らしき恰好の人が写真を撮り、ダーク・スーツの刑事が寮の職員になにか尋ねている。


 テレビドラマの殺人現場でよく見る、黄色い規制線と、床を人型に囲う白いテープ、番号の小さな立て札などが、遠巻きに見えた。



 制服の警察官から声をかけられた。


 すみません寝坊しました、と正直に答えたら、苦笑いして、急ぎなさい、と言ってくれた。



 ワイシャツのボタンをとめながら階段をおりていき、ビーサンを下駄箱につっこんで革靴を引っぱり出す。


 ワイシャツの裾が出っぱなしだがこの際仕方ない。


 体育館から漏れてくる授業の声を聞きながら、植え込みのなかを突っ切って、昇降口を目指す。



 駐車場には警察の車両がたくさん停まっていた。


 校門のむこうにはちょっとした人だかりができている。


 デジカメを手にする者や、撮影のクルーっぽい集団がいることを考えると、マスコミ関係かもしれない。



 スマホがメールを着信した。


 扇谷からだった。



『クラスの女子の幾人かが、夕べ、おまえが戦っているところを目撃している。


 ひどく心配しているぞ。


 はやく顔をみせてやれ』



『うちのクラスに死者は?』


 と、その場でメールを返す。



 すぐに返信が来た。



『さいわい、ひとりも出なかった。


 花もがんばって登校している。


 いいから早くこい』



 スマホを内ポケットにおとして、顔をあげると、つつじのあいだになにか黒っぽいものが挟まっていることに気がついた。


 近づいてよく見ると、それは体育座りをした女子だった。


 ひざの頭に頬をあて、居眠りをしている。



 まわりこんで横顔を確かめ、ようやく、武蔵野いとだとわかった。



 なぜこんなところで寝ているのか、謎だったけれど、放っておく訳にもいかない。


 かといって、いとは夕べ、負傷者の癒し手として、明け方ちかくまで立ち動いていたはずで、疲れているに決まっていた。


 起こしてしまうのも気が引ける。



 思慮をめぐらせているうちに、ふと、遼は、自然の精妙なエネルギーの流れを感じた。



 植込みのつつじやポプラなどの樹木から、青色に淡くひかる気体のようなものが流れ出て、それがいとのちかくに集まってきて、ふわふわと漂っている。


 また地面からも、金色の火の粉のようなものがさらさらとたちのぼって、大きな渦をえがき、いとの身体をとりまいていた。



 それらが交錯し、混じりあい、緑の波打つような美しいグラデーションを形成している。



 きっと、夕べ怪我人たちを癒すことで消耗したエネルギーを、こうやって補充しているのだろうと、遼は直感的に思った。



 とすれば、起こすべきではないだろう。



 すでに植込みのなかに入り込んでしまっていたが、なるべく物音をたてないよう、通り過ぎようとした。



「はっ!?」



 だしぬけに、いとが声を発した。


 可愛らしい口の端から、すこしよだれが垂れていた。


 ハンカチをブレザーのポケットからとりだして、口にあてる。それから遼を見上げた。



 緑のひかりが、濃淡をかえながら、渦を描いて流れ、いとをまるでおとぎの世界の妖精さながらに照らしている。



 ひとに見せたくなるような、幻想的な光景だった。



「……スマホで撮らせてもらってもいいかな?」



「えっ……」


 いとは、ぎゅっと膝を抱えて、眼を伏せた。


「いいけど……」



 遼は茂みをわけて、いとのとなりに入っていき、スマホを取り出し、自分といとに向けた。


 画面を確認しながら、親指を立てて、シャッター代わりの音量ボタンを押す。


 さっそく画像を確かめてみると、緑のひかりがそっくり消えていた。


 ただ、植込みのなかで、いかにも厚かましい男子と、恥ずかしそうな女の子が、並んで写っているだけだった。



「おかしいな……どうしてキラキラが消えてるんだろ」



「たぶん、こころの世界で起こっていることだから」



 これも、扇谷が言っていた、概念というやつなのだろうか。


 肉眼ではたしかに緑のひかりが見えている。


 いとは相変わらず、制服を身にまとったシルフのようだった。


 しかしスマホのなかでは、ただの可愛い女の子に過ぎなかった。



 記念にしたかったが、写らないのなら仕方がない。



「それより、こんなところでなにをしていたの?」


 と、遼は尋ねてみた。


「充電的なことなのかな」



 いとはこくりと頷き、



「夕べ、≪生気≫を使いすぎちゃったから、補充していたの」


 と言った。


 そうして遼の顔をじっと見つめて、


「槙島くんもここで吸収していったほうがいいよ。


 心がすごく疲れてる」


 腰をずらして、隣にスペースをあけてくれた。



 心の疲労については、自覚するところだった。


 戦いが終わって≪瘴気≫が去り、自室に戻ってからの気持ちの落ち込みようは、普通ではなかった。


 いまでも心が腐敗していくような倦怠感が続いている。


 遼は、いとの言うとおりにしたほうがいいと感じた。



「じゃあ……おじゃまします」



 肩をぴったりとつけて、渦をえがく緑のひかりの流れを内側から眺める。


 きっと傍目には、そうとうにシュールな絵面になっているのだろうなと思った。


 いとはとても気持ちよさそうにグーに結んだ手をゆったりと持ちあげて伸びをする。


 その様に、嫌でもクミの面影が重なった。


 クミも塾でよく伸びをしていた。



 たしかに、こうしていると心身が癒される気がする。


 マイナスイオン的ななにかが、魂を洗い清めてくれるようだった。



 それにしても、いとは授業に出なくて平気なのだろうか。



「その……長いあいだ、お医者さんの世話になっていたんだってね」


 と、遼はどこから切り出そうかと迷ったあげくに言った。


「学校とか、つらかったりしない?」



 いとは、うーん、と考え込むような顔をして、



「みんな優しくしてくれるし、つらくないよ」


 と、言った。


「あ、うそ。


 べんきょうがたいへん。


 もう、ぜんぜん分かんない」



 それで授業が嫌になって抜け出し、ここでこうしているのかもしれない。



「そっか。


 学校に通えなかったんだよね。


 無理もない」



「わたしね、昔のこと、なにも覚えてないの」



「そうなんだ」



 遼はメンタル方面のことはよく分からなかったけれど、記憶を失うような精神の不調といえば、かなり重度のものになってくるのではないか、と思った。


 たとえば、解離性障害などだ。


 扇谷の話では、いとは幼少のころに≪魔物≫に襲われたという。


 そのときのショックで、精神に変調をきたした、という筋は、ありそうに思えた。



「いちばん古い記憶は、いつごろのものなの?」



「今年の初め、かな」


 と、いとは言った。


「ある朝、とても気持ちよく眼が覚めたの。


 お屋敷の板の間で、ね。


 お兄さまが枕元にいた。


 お香のキツい匂いがしていたな」



「病院じゃなく、実家で?」



 いとは子供みたいに頷く。



 遼は、なぜかは分からなかったけれど、武蔵野は、いとについて、すべてを話していないような気がした。


 あの男は二重人格だ。


 普段はともかく、戦闘のときに露出するあの裏の人格は信用できない。


 いとがその被害を被っていなければいいが、と、つい考えてしまう。



「……お兄さんは優しい?」



 いとは無邪気に微笑んだ。



「うん、とっても」



「なら、よかった」



 遼はつられて笑みを浮かべた。


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