4.
いつのまにか、居眠りをしていたようだ。
気がつくと、事務室のソファに座っていた。
応接用のテーブルにカウチ、それにターン・テーブルとレコード一式、文庫本で半分ほど埋まった三段の本棚、そのうえに紙袋があるのを別にすれば、他にはなにもなかった。
窓は北向きで、昼でも薄暗い。
黒崎はあえてここを仕事部屋に選んだ。
日当たりのいい南向きの部屋は、いるだけで苦痛だった。
続きの給湯室で顔を洗い、口を濯いだ。
壁に掛けた時計を確認する。
短針は九時と十時のまんなかくらいを指している。
それでようやく用事のことを思い出した。
寮生のひとりをここに呼び出していた。
授業を抜けさせることになるが、学校には了承を取っている。
逃亡される恐れはあったが、電話でかれが話したとおり、時間通りに来てくれることを信じたかった。
来なければ、駅なり黄幡市内の実家なり、探しに行かねばならない。
確認を怠るわけにはいかないことを、確認しなければならなかった。
気が重くないといえば嘘になった。
扉がノックされた。
黒崎は、
「入ってくれ」
と言った。
三年生の男子の滝本が、なぜ呼ばれたのか分からないという顔を、のぞかせた。
黒崎と目が合うなり、首をすくませる。
それから、部屋のなかを見渡した。
彼は消灯時間を過ぎて寮をうろついたことがなく、寮生の間で罰ゲームと呼ばれている処置を経験したことがなかった。
噂には聞いていただろう。
だから物珍し気に部屋を見回しているのかもしれない。
「そこにかけろ」
と、黒崎は手でカウチを示した。
滝本は、言われたとおりにした。
「授業中にすまないな」
と、黒崎はソファに座りながら言った。
「おまえにいくつか確認したいことがある」
「はい、何スか」
「おまえは昨日の朝に殺害された田崎の、ちょうど真下の部屋に入っていたな」
「そうですけど……」
「田崎が襲われる寸前に、鉄柵がゴリゴリと鳴る音を聞いた、と言っていたらしいが、間違いないか」
「えっと……どうだったかな」
「おまえの友達がそう聞いたと証言しているんだが」
「ああ、そうだったかもしれないです」
「ところがな」
と、黒崎は言った。
「田崎の隣の部屋に入っている寮生は、そんな音は聞いていないと言っている。
いきなり鉄柵が落ちる音を聞いたそうだ」
滝本は、なぜそんな細かいことを、という顔付をしていた。
「おまえが昨日、学校に行っているあいだに、寮室を調べさせてもらった。
こんなモンが出てきたンだ」
黒崎はたちあがって、本棚のうえに置かれた紙袋をとり、なかから縄梯子とピアノ線、ドライバーのセットをとりだして、テーブルに置いた。
「ちょ、プライバシーの侵害じゃないですか」
「すまないな。
緊急事態だったものだから、いちいち許可を取っていられなかった」
滝本は視線をおとした。
「俺はこう考えたんだ。
おまえが『ゴリゴリと鳴る音』を聞いたと言ったのは、≪魔物≫がそとから鉄柵をこじあけたという印象を与えるためじゃないか、とな」
黒崎は滝本がなにか喋るのを辛抱強く待ったが、無駄に終わりそうだった。
「……この件では、ひとが一人、死んでいる」
寮生は唇を咬んで、依然、黙っていた。
「もうひとつ、確かめたいことがある」
と、黒崎は言って、ジャケットの内ポケットから一枚の広告を取り出して開き、滝本にむけた。
「校内の掲示板に貼ってあったものだ。
学食の運営会社の名前で、学食の割引券を無料で差し上げます、とある。
日時は昨夜の10時だ。
ここにQRコードがあるけれども、ご丁寧に、偽サイトまで作られていた。
が、実際には、配布はされなかった。
この話を信じた寮生が、学食に大勢集まった。
昨夜の事件のことはおまえも知っているだろう。
このデマのせいでかれらは孤立し、逃げ遅れ、多数が死亡した」
滝本の、膝のうえで握りしめている手が、小刻みに震え始めた。
もう、自白は取れたようなものだった。
これ以上問い詰めるのは酷な気もしたが、
「この広告は、どうして掲示板に貼ってあったのだろうな。
職員も先生も、みな知らないと言っている」
かれは、なにも言わなかった。
「言いたくないのなら構わない。
ただ、ひとつだけ聞かせてくれ。
ほかに、なにかやったか?
わかるだろうが、寮生の命に係わるかもしれない大事なことなんだ。
おまえにダンマリを決め込まれると、困るんだよ。
仕事が増えちまう」
「……弟が、ヤクザの女に手を出したンです」
と、滝本は声を絞り出すように言った。
よくある手口だ、典型的な美人局だな、と黒崎は思ったが、黙って先をうながした。
「それで拉致られて、俺んところに呼び出しの電話がかかってきたンです。
駆けつけたら、そのヤクザにへんな連中に引き合わされて。
いますぐ謝罪金の100万を作ってくれば弟は解放してやるが、作れないのなら、この連中の言うことを聞け。
おまえに仕事を振ってくれる。
その報酬を、俺がもらう。
それでチャラだ。
通報したら問答無用で弟を殺す、だれかに喋っても殺す、と言われました……」
「なぜ、相談してくれなかった」
と、黒崎は言った。
「おまえが『仕事』を実行するまえなら、いくらでもやりようがあった。
だがもう手遅れだ。
おそらく、助からんだろう」
「どうしてですか。
俺、ちゃんと言われたとおりにしたのに」
「連中の目的は、おまえに工作をさせることだ。
それが済んだら、弟にはもう用がない」
黒崎は、額を支えて視線をおとし、ため息をついた。
すぐに、滝本のスマホが鳴った。
黒崎は、出るように促した。
耳にあてるなり、哀れな寮生の身体の震えがひどくなった。
みじかい受け答えのあと、通話を切る。
「弟が……ひき逃げされたみたいです。
病院に搬送されたけど、心の準備はしておけって。
オヤジからでした……」
黒崎は内心、気の毒に、と思ったが、口に出しては、
「なんとか助かることを祈ってる」
と言った。
寮生が、嗚咽を始めた。
「今後、連中から連絡があったら、すぐに俺に知らせろ」
滝本は、あごを引いた。
その先から、涙が滴り落ちた。
「それから、このことは他言無用だ。
おまえは知らぬ存ぜぬで通せ。
いいな」
黒崎は穏やかに、もう行って構わない、と言った。
「こんな俺を……まだ寮に置いてくれるんですか。
田崎が殺されて、ヤバいことをさせられているとちゃんと気づいていたのに、黒崎さんに報告しなかった」
「居心地は悪いだろうが、我慢しろ。
出るよりはマシなはずだ」
「本当に……すみませんでした……」
滝本は号泣した。
寮長は、かれに聞こえないように、静かにため息をついた。
「反省の言葉なら聞きたくない。
俺はもうなんども他人に裏切られてきたンだ。
はっきり言って済まないけれど、おまえには期待していない。
けれど、おまえの本心はおまえ自身が分かっているはずだ。
それで十分だろう?」
黒崎は、滝本が落ち着くのを待つあいだ、インスタントのコーヒーを淹れてやった。
それからすぐに、かれのスマホが鳴った。
弟が息を引きとったという報せだった。




