15.
「ほら、いと」
と、武蔵野は穏やかな声でうながす。
「ご挨拶しなさい。
このひとは――扇谷くんは、僕の大切な仲間のひとりだ」
「こ、こんばんは……」
いとは床を見つめながら言った。
武蔵野はどことなく気まずそうに扇谷から顔をそらす。
それから、いとにむかって、
「さあ、さっそく始めてくれ。
あっちに重傷者がいるだろう」
「うん……」
いとはスカートを揺らして走っていき、怪我人の傍にぺたりと座った。
その姿が、古い時代の女官のような格好に変じる。
歴史の資料集で似たようなものを見た覚えがあった。
たしか、奈良時代の命婦礼服。
遼は、いとの様子を見守った。
若き高級女官は、怪我人にむかってうすく瞼を閉じ、両手をかざす。
その手が、蛍のように緑色のひかりを帯びる。
遼はわが目を疑った。
傷口がみるみる塞がり、瀕死の様相だった表情に、生気がみなぎってくる。
いっぽう、いとのほうは少なからず疲弊するようで、苦しみがはっきりと顔色にあらわれていた。
いとは怪我人の回復を見届けると、ぎこちなく微笑みかけて、立ち上がり、つぎの怪我人のそばに座った。
そうして、また緑のひかりを起こす。
「武蔵野さん」
扇谷が、抑制的ながら、けわしいものを孕んだ声をあげた。
「話がある。
ちょっと来てもらえますか」
「ああ……ちゃんと説明する」
扇谷は武蔵野をうながして、学食の隅のほうへ行き、なにやら話し始めた。
武蔵野は腕を組み、窓のそとに視線を投げかける。
カウンターのほうでは、腕章をつけた生徒を詰め寄る連中の声が、だいぶ大きくなっていた。
「ふざけるな、いいかげんにしろ!」
と、男子生徒がキレている。
「さっきからのらりくらりと、なんなの」
女子生徒が怒鳴った。
「明日一番の電車でうちに帰るから。
もういいでしょ、部屋に戻っても」
十数人の集団が、ぞろぞろと出口へむかう。
それに気づいた武蔵野と扇谷は、会話をやめて、駆けつける。
「いま、ここを出るのは危険です」
と、武蔵野は言った。
「もう少しで赤い靄が晴れると思う。
それまでここで待機していてください。
皆さんのことは僕たちが責任をもって守ります」
「どうしてもここを出るというなら、命の保証はできません」
と、扇谷は言った。
「皆さんも見ていたでしょう。
襲われますよ、魔物どもに」
「ここにいたって、らちがあかないでしょ」
と、女子生徒がヒステリーじみた声で言った。
「よせ、こいつら生徒会だろ」
と、男子生徒。
「学校のイヌになにを言っても無駄だよ」
「ろくに説明もしてくれず、警察も救急車も呼んでくれない」
と、べつの女子生徒が涙声で言った。
「あなたたちのこと、信用できるわけないでしょう」
「二次被害を避けるためには仕方ないんです」
と、武蔵野が説明する。
「山で遭難したときだって、天候がおちつくまでは救助には来てもらえない。
それとおなじことです」
「全校集会で理事長が話したはずです」
と、扇谷。
「然るべきタイミングで生徒の皆さんには事情を説明をする。
いまはともかく、ここにいてください。
寮に戻るのは危険だ」
男子生徒は、もはや問答は必要ないとばかりに、ドアを押しひらく。
「わかりました……なら僕がみなさんの護衛につきます。
最善は尽くしますが、命の覚悟はしておいてください」
武蔵野は、苦々しくそう言うと、扇谷を振り返り、
「悪いけど、ここは頼めるかい」
扇谷はうなづき、
「気をつけて」
「それから……ひとり借りたいんだけど」
と、武蔵野は言った。
ふと遼に視線をとめ、
「槙島くんを連れていっても、いいかな」
遼は呼ばれていることに気付いて、歩いていった。
「怪我してるのに、すまないね」
武蔵野は遼の左腕を見やり、顔をしかめた。
「いま、いとに治療をさせる。
……おーい、ちょっと来てくれるかい」
と、妹を呼ぶ。
いとは、疲労でふらふらだった。
「なーに、お兄さま」
と、目をこすりながら言った。
「槙島くんの腕を治療してあげてくれないか」
「うん、いいよ……」
「いとさん、大丈夫?」
と、遼は言った。
「ひどく疲れているみたいだけど。
無理はしないで」
いとは無言で遼の腕に手をかざす。
蛍のようなきれいな光が包帯へと注がれる。
クミとうりふたつの横顔が、その光に染まっている。
痛みが瞬時にひいていくのがわかった。
「すごいね……」
遼は、疲れがすべて飛んでいくような思いだった。
二つ結びの少女は、遼を見上げて少しだけ微笑んだ。
生徒たちはすでに赤い靄のなかを歩き始めている。
「いこう」
と、武蔵野は言った。




