10.
「ちょっと話は変わるけど……扇谷に聞きたいことがあるんだ」
「なんだ」
「武蔵野先輩の妹さんのことなんだけど」
「ああ……いとさんのことか」
「扇谷は親しいの?」
あれほどクミとうり二つなら教えてくれてもよさそうなのに。
そういう意味も込めて、尋ねてみた。
「いや、面識はない」
と、扇谷は言った。
「いとさんは小さいころにその……魔物に襲われてな。
なんとか一命はとりとめたらしいが、以来、ほとんど人前に出たことがない。
正月やお盆の集まりでも見かけたことがないな。
……記憶が定かではないんだが、小学校の頃に治療の甲斐もなく亡くなったという話を聞いたような気がする。
かわいそうなことだったが……それがどうかしたか?」
「え、亡くなった?」
「いや、そんな覚えがあるというだけだ。
もしかしたら、まだ生きているかもしれない。
ただ、仮にそうだとしても……」
扇谷の表情が曇る。
「さっき、会ってきた」
「なに?」
「わたしも」
と、花が言った。
「猫に化けて非常階段で遊んでたら見つかっちゃってさ」
「武蔵野いとさんに、か」
扇谷が信じられないという顔をする。
「うん。
うちの制服を着てたけど小学生の女の子みたいだった。
無邪気っていうか、子供っぽいっていうか」
「おまえもだろ」
と、蔵人。
「否定はせんけど話の腰をおるなヤンキー。
でな、抱き上げられてめっちゃ撫でられてさ。
気持ちよかったもんだからついそのまま過ごしちゃった。
人間のすがたに戻ってからもちょっと話したんだけどさ、こっちが心配になっちゃうほど女の子してた」
「あれから仲良くなれた?」
と、遼。
花はうなづいて、
「高校でできた初めての同性の友達だな。
ていうか……」
指をおって数え、
「小学校以来かもしれん……。
電話番号とメアドの交換をしようとしたらスマホ持ってないみたくてさ。
だからわたしのを教えてあげた。
そしたらすぐに寿先輩の携帯からメールが来た。
わたしもがんばって猫に変われるようになるから、そしたら一緒にお散歩しようねって。
それに寿先輩の、いとと仲良くしてあげてください、っていう追伸が添えられてた」
「よかったじゃん」
「フフンまあね」
「そうか……いとさんは回復したんだな」
と、扇谷は言ったが、ちょっと信じられないという顔つきだった。
「いや、いいことだ。
喜ぶべきだな」
「なあ扇谷、有川クミさんのこと、覚えてる?」
「忘れるわけがない」
「うりふたつなんだ……」
と、遼は言った。
「いとさんとクミちゃん」
「ほう……珍しいこともあるものだな」
「ただ、性格とか表情の作り方とかは全然違っててさ……」
扇谷はそれについてなにも言わなかった。
ただ、腕を組んでテーブルを見つめている。
「おい」
と、蔵人がガラス張りの外を指さす。
「えらいことになってンぞ」
「すっげ。こんなの初めて見る」
と、花。
赤い靄が津波のようになって、外灯のならぶ舗道をこえてくる。
芝生を飲み込み、やがてガラスの窓をすり抜け、寮のラウンジに流れ込んで、床を埋めつくした。
テーブルや受付のカウンターが、雲海に包まれた孤島のようになる。
まばらにいた寮生たちが、異様な雰囲気を察して、引き揚げていく。
この瘴気の濃さでは、遅かれ早かれ消灯の連絡がくるだろう。
ほぼ無人となったラウンジは、まるでこの世のものではないような様相を呈してきた。
廊下を埋める勢いの赤い靄のむこうに、おおきな人影があった。
近づいてくるにつれ、丸いサングラスに刈り上げたパーマ、カーキのジャケットが浮かび上がる。
「ま……まだ消灯じゃないっスよね」
と、蔵人が声を上ずらせる。
「おう、竜崎」
と、クロサキは言った。
「おまえはすでに寮の防衛の頭数にいれてある。
以後は消灯時間のことは気にしなくていい。
よかったな」
口の右端をつりあげてニヤリとし、それから遼と花を見やり、
「おまえらも、だよ」
相変わらずの迫力だった。
遼は思わず、生唾を飲み込んだ。
「……実戦になるだろう。
気合い入れていけ」
と、クロサキは、そとを塞がんばかりの瘴気を見やりながら言った。
遼たちは、だまって頷いた。
「それからな、槙島」
と、クロサキは言った。
「おまえが星宮に腹を立てるのはもっともだが、ひとつ堪えてくれないか。
あいつにもよく言っておくから。
≪魔物≫どもとやりあう覚悟があるんなら、手打ちをしたほうがいい。
こっちとしても、そうしてくれたほうが助かるンだ。
ま、無理にとは言わねえが、考えといてくれ」
「どつかれて生徒会室まで連れていかれるかと……」
と、遼は率直に言った。
この寮長は、上から物を言うことがあまりない。
クロサキは喉で笑い、
「こんなナリをしてりゃあ、そう思われるのも無理はないわな。
でもな、おまえの七つまえの前世のほうがよほど凄みが利いているよ。
俺はたんに元ヤクザってだけだが、おまえは将軍だったんだぞ?
万単位の人間の生き死にに責任を持ってたンだ。
立派なもんだよ」
廊下のむこう、赤い靄のなかから、人影が近づいてくる。
靴音が高い。
クロサキが振り返った。
寮の職員が、小走りにやってくる。
「どうした」
「数人の寮生が、寮から抜け出したようで……」
職員の息が弾んでいる。
「おそらく、また交番に駆け込むつもりではないかと……」
「警察から連絡は」
「いえ、まだです」
「いつごろ、出た」
「ついさっきです。
正門の防犯カメラに映っていました」
「おまえは消灯の手配をしてくれ。
俺は様子を見てくる」
クロサキは軽く頭をふって、長い夜になりそうだ、と呟き、エントランスのガラスの二重扉を出て、靄のなかへ埋もれていった。
遼は、クロサキが霞んで消える寸前、その姿が、黒い鬼神のようなものに変じるのを見た。
それからすぐに、四人のスマホが相次いでアラームを鳴らした。
学校のアプリだ。
消灯五分前の報せだった。
「……今日はひときわ、濃いな」
扇谷は立ち上がって、ガラス張りのむこうを眺めた。
外灯のひかりが赤い靄に滲んでいる。
いちょうの木の影が、流れる靄のうえに延びて、揺らいでいた。
「ビビってても仕方ねえ。
行こうぜ」
蔵人が下駄箱から靴をおろしながら言った。




