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狂った博愛主義者を生んだある悲劇についての記録  作者: 栗山大膳
第三章 博愛主義者は死の宴の夢を見るか?
40/75

1.

 クミをこの手で逝かせるという決断をしたあの日から、遼は、自分のなかでなにかが音をたててゆっくりと壊れていく感覚に苛まれていた。


 何気なく日常を過ごしているつもりでも、ときおり、あの生々しい記憶が蘇って、鋭いギロチンの刃となり、遼の意識をザクリと断絶させていく。


 そのとき決まって考えるのは、クミが蟲に憑りつかれたと気づいてからどんな思いで日々を送ってきたかということだった。


 あのヒロという男に、5万あげるから写真を撮らせてと誘われ、それに応じたときに植え付けられたと、彼女は言った。


 そのような発端であったうえ、ふつうの医者には診断どころか認識すらできない存在に憑りつかれたからには、誰にも相談できず、ひとりで身の毛もよだつような恐怖に耐えていたに違いなかった。


 そのあいだ噛みしめていたであろう羞恥と後悔は察するにあまりある。


 けれども塾で毎晩のように顔をあわせるクミには、そんなそぶりは露もなかった。


 いつも飄々として、可愛らしく、すこしあざとい女の子であり続けた。


 クミは既に、蟲にのっとられて、ひどい困惑や絶望を表現することができなかったのかもしれない。


 いずれにせよ、遼は勘づいてあげることができなかった。


 その事実はかわらない。


 そうしてものごとの表層と核心のあいだに横たわる隔たりを、落差の断崖を、そら恐ろしく思うのだった。


 つらつら考えていると、なにを信じていいのか、わからなくなってくる。


 自分の目に映っているこのあたりまえの世界のどこに、身の毛もよだつ悲劇が潜んでいるか、知れたものではなかった。



 遼はなるべく、クミの心象世界のことを考えまいとしてきた。


 想いを馳せるのに、あれほど救いのない闇はない。


 覗きこむのに、あれほど悲しい深淵はない。


 耐えられそうになかった。


 けれども、好むと好まざるとにかかわらず、そこから触手のように伸びるなにかが、遼の意識を蝕み続けている。


 そのことは、疑えなかった。


 そうして深淵の底で悶え苦しんでいるクミの亡霊が、なんの変哲もない日常のなかに突如たちあらわれて、遼をひどく幻惑するのだった。


 クラスの女の子たちの影に、クミの亡霊が見える。


 人形をかかえて暗がりからじっと自分を見つめる四井花の瞳のむこうに、その幻がちらつく。


 自分を鋭く詰問する支倉ありさの揺れるポニー・テールに、身悶えするクミの可憐な裸体が投影される。


 寮はそんなとき、文字通り、身を切られるような想いに駆られる。


 あのとき声をかけておけばよかった、もっと優しくすればよかった、自分がもっと頼りがいのある男だったら、もっと親しみやすい人間だったら、という、本来クミにむかって発せられたはずの後悔の念が、それらの女の子たちにむかって、激しく暴れ、疾走していくのだ。



 たぶん、自分はだれの眼にも、女性になら誰にでも優しい、軽い男として映っていることだろう。


 そうして微笑の仮面のすぐ裏にかくれた悶絶に歪みきった表情を、情けない泣きっ面を、(ひとりの友を別にすれば)だれも知らないだろう。


 それでもまだ余裕はあるのだ。


 だから冗談を飛ばすことができる。


 心を柔らかくしてなんでも受け止めようと努めることができる。


 けれども、今日はじめて、その余裕を消し去ってしまう女と出会った。



 星宮アヤメだ。



 あの美しい上級生の影には、ひときわ瞭然として、クミの亡霊がはりついていた。


 なぜそのように感じるのか、遼は自分でも分からない。


 ともあれ、あの苛烈なものを秘めたような双眸を見つめていると、身が爛れていくほどの焦燥を覚えるのだった。


 その灼熱の焔が自分をこう詰問するのだ。


 人生が二度ないのとおなじように、チャンスは一度きりだ。


 しくじることはできない。


 あのひとの影にひそむ、地獄の拷問のような苦しみにあえいでいるクミを、おまえは救うことができるのか。


 すると脚がすくみ、悪寒が背筋をかけあがる。


 アヤメという女性に、底のしれない恐怖がこみあげてくるのだ。


 そうしてアヤメのほうはおそらく、なにもかも見抜いている。


 あのひとは甘いひとではない。


 あるいは意識的にではないかもしれないが、彼女の無意識や魂といったものは、それにはっきりと気づいている。


 彼女に投げつけられた、


「ハッキリしない奴」


 の言葉に、それが端的に現れている。



 遼は春霞にぼんやりと溶けていくような自然のパノラマを眺めながら、俺はたぶん、星宮アヤメにいら立っているんじゃない、怖気づいているんだ、と思った。

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