7.
四月とはいえ、朝の陽射しはまだ淡く、いくらか冬の名残をとどめていた。
体育館をめざす生徒たちの人影が、渡り廊下のコンクリート敷のうえで揺れている。
皆、あきらかに動揺していた。
雑談の声が、悲惨ないろを伴っている。
(田崎ってひと、知ってる? ……)
(無事なの? ……)
(寮の部屋がすごいことになってた……)
(普通、あんなになる? ……)
(窓から救急車に運び込まれるところを見てたけど……田崎くん、ぐちゃぐちゃになってた……)
(ぐちゃぐちゃってなに……やめてよ……)
生活指導の教員が、無駄話はやめろ、さっさと体育館にすすめ、と威嚇的な声をあげている。
しかし、ざわつきはいっこうに収まらなかった。
遼のすぐ傍をあるく蔵人は、やつれきった顔をしている。
「あのあとamazonから届いた荷物は無事、回収できたの?」
と、遼は声をかけてみる。
蔵人は首を振った。
「手続きの途中でタイム・アウトだよ」
「そっか……やっぱり間に合わなかったんだ」
「で、一晩クラシックを聴きながら文学に親しんできたわけか」
と、扇谷がひとの災難を喜ぶように言った。
「高尚な時間が過ごせてよかったじゃないか」
「そりゃ、やつれるよな」
と、遼はからかうように言った。
「夕べは、もっとひでえ目に遇ったわ。
……『喜べ、スタンプが三つ溜まったから今夜はスペシャル・コースだ』とか言い出しやがってよ」
蔵人はクロサキの声色を真似る。
「ほう、なにがあった」
と扇谷が左目を細める。
「聞かせろ」
遼は先をうながす。
「なんでおまえらそんなに楽しそうなんだよ」
蔵人はため息をつく。
「寮の警備に付き合わされた」
「……あの赤い靄のなかを、か」
扇谷が声のトーンをかえた。
「そうだよ」
蔵人はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように、
「クロサキに鉄パイプを持たされてよ、得体の知れないバケモンを一匹、殴り殺してきた」
「……まじで?」
と、遼は言った。
「……マジで」
蔵人は真顔でうなづいた。
扇谷は、腕を組んであごに手をやり、視線を落とした。
「クロサキさんがまだ準備の整っていない者を警備につれだすことは考えにくいが……」
「あのおっさん、猫の手も借りてえとか言ってたな。
ともかく、夕べは始まりから終わりまでほんと訳が分かんなかったぜ。
おまえら、ちっと、これ見てくれよ。
赤い靄が見えるンなら、これも見えると思うんだよな……」
蔵人の傍に、突如、鎖かたびらをまとった筋骨隆々の美しい男がじわりと現れ、すぐに消えた。
まわりの幾人かの生徒が、脚をとめ、唖然として蔵人を見つめている。
「バカ、ここで出すな!」
と、扇谷が押し殺した声で言った。
「ラウンジでクロサキに捕まって、事務室に連れていかれて、いきなり頭を掴まれたンだ」
蔵人は要領を得ないというように、金髪をかきながら言った。
「鉄拳制裁って雰囲気でもなかったからやらせといたんだけどよ、そしたら幻覚が始まってよ。
俺、深い森に住む蛮族だったンだ。
みんなからジュードって呼ばれてた。
長い金髪をなびかせ、体じゅうにカッコいい入れ墨をいれてたよ。
来る日も来る日もローマからきた小せえやつらと戦ってさ。
石をぶん投げたり、茂みに潜んで不意打ちしたり、落とし穴を掘ったり。
部族の美女たちにモテまくったし、手柄を立てて長老たちからしょっちゅう褒められたし。
なんていうか、部族のヒーローだった。
割と楽しかったな」
「ほう」
扇谷が興味深げに言った。
「覚醒のプロセスを人為的に進行させた、ということだろうな。
それで?」
「そのジュードがさ、俺に言うわけよ。
勇者たるもの郷里の四方10マイルを荒地にしておかねばならぬって。
そうやってよそ者をビビらせて近づけないようにするのが蛮族の誇りらしいんだよな。
そのジュードにとって、魔物がそのへんをうろついてるのは我慢ならないらしくてさ。
俺もなんか知らねえけどすっげえその気持ちが分かったんだよな。
で、気づいたらジュードと心をひとつにして、鉄パイプをとって、寮のそとをうろついている魔物に躍りかかってたって訳だ。
ほんと、訳わかんねえだろ。
クロサキにヤバい薬でも飲まされたのかと思ったよ。
魔物を撲殺したら、クロサキは満足そうに『上出来だ』とか抜かしてやがったぜ」
「ジュードって頭わるそう」
と、遼は感想を述べた。
「うるせえよ!」
「夕べは赤い靄が雲海みたいになってただろ」
「ああ、すごかったな」
「寮のそとでは魔物がうろついてたのか」
「学校の敷地にまで入ってくるのは大した数じゃなかったけど、フェンスのむこう、山側はうじゃうじゃだったな。
サルの群れくらいの数はいた。
あれはやばかった」
「そのうちの一匹が寮の壁をあがってきて鉄柵をはずし、三年の男子を襲ったってことなのか?」
「そういうことなんじゃねえの、知らねえけど」
「しかし解せんな」
と、扇谷は言った。
「鉄柵にはかなり高度な結界の仕掛けがしてあったから、下位の魔物は触れることすらできないはずだし、それなりの魔物でもせいぜいとりついて騒ぎ立てる程度のことだ。
劣化して外れたというのも考えにくい。
寮側は保守点検を欠かさずにやっていた」
「襲われた三年のひと、脱出しようとして自分で鉄柵を外したんじゃね」
「わざわざ、赤い靄が出ている晩に?」
と、遼が疑問を呈する。
「それに、寮から出たところでどこへ行く」
と、扇谷。
「この辺には遊ぶようなところどころか夜を明かせるようなところすらない。
夜中ではバスも電車もこないぞ」
「免許をもってる友達がバイクや車で迎えに来てたとか」
「なるほど、ヤンキーならそれもありうるか……」
それから扇谷は真顔になって、
「竜崎、おまえはそんなことするなよ。
鉄柵を外すのは危険すぎるし、魔物の寮内への侵入を許せば被害が拡大しかねない」
「しねえって。
俺だってあんな物騒な靄のなかを歩くのは勘弁だわ」
「三年を襲った魔物はどうなったんだ?」
と、遼は言った。
「おそらく駆けつけたクロサキさんが片づけたんじゃないか」
と、扇谷。
「たぶんそうだ」
と蔵人は言った。
「見回り中にいきなり悲鳴が聞こえてきてな。
クロサキに『今日はもういいから部屋に戻れ』って言われてさ。
おっさん、寮の裏口のほうへ駆けていったよ」
「クロサキさんて強いの?」
と、寮は訊いてみた。
「かなりのものだ」
と、扇谷。
「めちゃくちゃ、な」
と、蔵人は言った。
「10匹くらいの鬼の群れを木刀一本で瞬殺してたぜ。
どっちか鬼だかわかんねえくらいだった。
クロサキが戦ってるとき、黒くてガタイのいい化け物に変化したように見えたんだけど、なんなんだあれ」
「俺も詳しくは知らないが、インドの古い羅刹とか夜叉とか、そんなところだろう」
と、扇谷。
「それって鬼の類、なんだっけ」
と、遼。
「一部は仏教にとりこまれて護法神になったり明王になったりしているが」
「やっぱ人間じゃねえんだな……」
蔵人がしみじみと言った。




