2.
寮はスタンドの明かりをつけて、それからテーブルをまわって備蓄用の張り紙がしてある棚をひらいた。
紅茶の包装をとり、ケトルに水道の水をいれてIHヒーターにかける。
マグカップをふたつ並べて、ティーバッグを落とし、
「けれども、よくここに入れたね」
「わたし、猫になれるんだ。
猫になると、壁抜けができるの」
遼は、ああ、と言った。
自分でもそれがあいづちの意味なのか戸惑いのうめきなのかよく分からなかった。
まあ、世の中には、そういうこともあるのかもしれない。
マグカップにお湯をそそぎ、テーブルまで運んできて、花の姿が消えていることに気が付いた。
かわりに、ベッドのうえになにか黒いものがいる。
黒猫だった。
猫はぴょんと飛びおり、ドアをすり抜けて、それからすぐに戻ってきた。
「これで信じてくれた?」
まぎれもなく、花の声だった。
なんといえばいいのか分からない。
「……紅茶、ここに置いておくね。
よかったら飲んで」
遼はティーバッグを上下させながら椅子にすわって、ゆっくりと啜った。
「……猫、きらい?」
花は女の子のすがたに戻って、ベッドの端に腰をおろし、うさぎの人形をとって抱えた。
「いや、大好き。
猫吸いしたいくらい」
登校拒否児はスタンドの淡いひかりのなかでみるみる赤くなり、ベッドのうえをあとじさって、壁際までいき、
「こ、このシチュエーションでビミョーなことを言うな!」
遼はそれを見てはじめて、花が猫になれることのリアリティを感じた。
「ごめん……いろいろあってテンションがおかしくなってるんだ。さっきも……」
と、窓のほうを見やり、
「……いや、なんでもない」
「すまん、疲れてたんだな……」
「すごく変なことを聞くけどさ」
「うん」
「前世はもしかして、ネコ?」
花はすこし首をかしげた。
「猫っていえば猫なんだけど、うーん、ていうか、ネコマタ?
わたし、妖怪だったみたいなの」
「そ、そうなんだ」
「猫はね、長く生きると妖怪になるんだよ」
花はベッドのふちまで這ってくると、座りなおしてマグ・カップをとった。
「よくそう言うね」
ほかの人が聞いたら、まったく意味の分からない会話だろうな、と遼は思った。
それでも、いちおう話が通じているのが、自分でもおかしかった。
「江戸時代に大きな商家で飼われてたの」
と、花は言った。
「鈴なんか付けてもらっちゃってさ。
家に福をもたらす猫だって言われて、みんなから可愛がられてた。
病気をすると医者にも見せてくれてね。
それで百年も生きちゃった。
だからわたしの子供も孫もみんな先に死んじゃったけど」
「長生きしすぎるのも、それはそれで辛いんだろうね」
紅茶の湯気が薄明りのなかで白く揺れている。
花の表情は、はっきりと曇っていた。
「……ある晩、商家に盗賊が入ったの。
わたしも必死に抵抗したけど、蹴っ飛ばされて気を失った。
旦那さんも奥さんも、番頭さんも、みんな殺された。
それまでわたしは家に福をもたらすおめでたい猫だったのに、ただの役立たずって罵られ、不幸の猫だってきめつけられ、こんなだったら犬でも飼うんだったって嫌味を言われて、怪我をしたまま通りに投げ捨てられた。
夏の、とても暑い日だった。
目のまえをたくさんの人が通り過ぎていった。
のどがかわいてつらくて、意識をうしなって、気づいたら、たくさんのカラスがわたしの身体をついばんでた。
で、死んじゃったってわけ」
「それを……思い出したんだな」
「一歩間違えれば、魔物になるところだった。
わたしを投げ捨てた下男下女を恨んで死んでいったら、きっと魔物になっていたと思う。
でも、わたしはかわいがってくれた旦那さんや奥さんのことを思い出しながら死んでいった。
だから生まれ変わることができた。
たぶんね」
遼は紅茶をひとくち啜って、それからさっき目玉に鉛筆を突き立ててやった生首の魔物のことを考えた。
あれも激しい恨みを残して死んでいったために、ああなったのだろうか。
「非常口のそとで、黒猫に煮干しを食べさせてあげていたね」
「あれはわたし自身。
ときどきわたしから離れて散歩して回りたいらしいの。
なんたって猫だから。
餌をあげたのは、セルフ供養、みたいなこと。
つらい思いをして死んでいったからね」
「逃げなくてもよかったのに」
花は微笑んで、あのときはマジびっくりした、と言った。
「でも、前世のこと、よくわかったね。
槙島はなにか知っているの?」
「俺も、夢のなかで前世のことをすこし思い出したりしたから」
「へー」
マグ・カップを机に置いて、
「いいものを見せてあげる」
と遼は言った。
そうして晋の武官のことを念じる。
すると豹が忽然と姿をあらわした。
遼の肩に手をのせている。
豹は、
「やあ、お嬢さん」
と、花に微笑みかけ、煙のように消えた。
「かっ、韓流スター!?」
と、少女はうめくように言った。
「槙島、おまえもかっ!」




