1.
眠れない。
ベッドの隅で丸くなって頭から布団をかぶっても、耳をふさいでも、眠れない。
相変わらず、カーテンのむこうから、大勢の、ひとのものとも魔物のものともつかない呻き声が、低周波のうねりをつくって押し寄せ、部屋の空気をゆさぶっていた。
それが、いまにも、壁に亀裂を走らせ、窓ガラスを砕いてしまいそうな気がする。
それどころか、寮ぜんたいが大きく揺れ出しそうな予感さえする。
幻聴とは分かっていたが、緊急地震速報のいやなアラームが、耳元で狂ったように鳴っていた。
たぶんカーテンを開ければ、外の景色はなにもかも赤い靄に埋もれ、月さえ赤く染まっているかもしれない。
けれども、どういう訳か、あの忌々しい靄は、寮の部屋のなかにまでは入ってこなかった。
オート・ロックの扉と、転落防止の鉄柵が、靄を食い止める役割をしているのかもしれない。
突然、ガシャンと音がたった。
カーテンのすぐむこうだ。
遼はぞっとしながら、ベッドから降り、ゆっくりと窓辺へ歩いていって、勉強机ごしにカーテンを寄せてみた。
身体が凍りついた。
生首が、鉄柵にかみついている。
瞳孔のひらいた双眸は眼球のうえのほうに張り付き、歯肉から垂れた血がよだれと一緒になってあごに滴っていた。
鼻はくさって削げ落ち、頬は不潔そうなひげで覆われている。
青い月代に、頭髪の薄汚くはりついている様が見苦しい。
それが、ンウ、ングウ、と訳の分からないことをわめきながら、がちがち、ぎりぎりと音をたてて、鉄柵にかじりついているのだった。
あごが動くたびに首が揺れ、断面があらわになる。
まぐろの血合いのような色をしていた。
コイツもクミの身体を浸食していたあの蟲の類なのだろうか。
寮は、そのことに思いを馳せた途端、恐怖が熱い血にかわり、脳めがけて逆流していくのを感じた。
古代中国の将軍――豹とひとつになって大草原を駆けた、あの夢の高揚感が身体に満ちてくる。
衝動のおもむくまま、机に転がっている鉛筆をつかみ、窓をひらき、生首の眼球めがけて突き立てる。
もうひとつの眼球が、恨めしく天を睨んでいる。
むらさきの厚いくちびるがうごめき、おごご、と痰がからんだような音を発した。
そうして鉄柵からずりさがりはじめ、すぐに赤い霧のなかへ沈んでいった。
赤みをおびた月が、黒い稜線のうえで、超然と輝いている。
遼は窓をしめきって鍵をかけた。
呼吸がひどく乱れていた。
カーテンをなおし、なにか飲もうと冷蔵庫をふりかえったとき、遼は入り口のところにまったく予期しなかったものを見た。
おんなのこの幽霊……いや、ちがう。
パジャマ姿の四井花が、うさぎの人形を抱えて、立っていた。
遼はよろけて壁に背をぶつけた。
それから唾を飲み込む。
どうやって入ってきた?
花は、暗がりのなかから、じっと遼をみつめていた。
怯えたような眼だけが、ほんのりと光沢を放っている。
闇に慣れて、花の輪郭がはっきりしてくるにつれ、遼は気持ちが落ち着いてきた。
脳裏に、クミのことが去来する。
そうして、花を見ているうちに、胸がしめつけられるような感覚をおぼえた。
椅子にぐったりと腰をおろして、
「……やあ、いらっしゃい」
と言い、微笑した。
「あのっ」
と、花は言った。
「ここに居させてもらってもいい?」
怖くて、自分の部屋から逃げてきたのかもしれない。
無理もなかった。
遼は髪をかきあげて、
「俺はかまわないけれど……女子のところへ行ったほうがいいんじゃないかな」
花は悲しげにうつむいて、
「わたし、誰ともしゃべったことないから。
話しかけてくれたの、槙島だけ」
「そっか。
そりゃ、頼みづらいよな……」
遼は寮則にすべて目を通しているわけではなかったけれど、消灯時間をすぎて異性を部屋に招き入れることが、学校や寮に歓迎されないのは分かりきっていた。
よし学校にバレなくとも、くだらない噂を立てられる恐れがある。
自分は男だからいいが、花にはつらいことになるかもしれない。
しかし、窓のそとがあの状況では仕方ないだろう。
「オッケー、わかった。
なにもないけど、好きに寛いでよ」
「あ、ありがと」
登校拒否の女の子はベッドにあがると、壁に背をつけ、体育すわりの恰好になった。




