17.
扇谷は、寮がなぜこんなことになっているのか、承知しているはずだった。
もう知らぬふりを決め込むのは限界かもしれない。
かれとこの赤い靄について話そう。
遼はそう心に決めて、眼を閉じた。
思えば、扇谷と出会ってすぐその話をすべきだったのかもしれない。
かれとは、クミに蟲を植えつけたヒロという男を撲殺した直後に知り合った。
かれは高架下の闇のなかからふらりと現れて、男の死体のそばに片膝をつき、上着に手をつっこんでスマホを取り出し、それをしばらくいじったあと、盛大にため息をついた。
「おい、おまえ」
と、少年は遼に呼びかけてきた。
「殺すなとは言わんが、もうすこしなんとかならなかったか。
せめて生きているうちにスマホの暗証番号を聞き出すとか」
遼はなにが起こったのかうまく飲み込めずにいた。
まず殺人の現場を他人に見られた。
第二に、かれはそのことに驚きもせず、被害者のスマホを取り出していじっている。
そして彼はおそらく殺人犯と断定しているであろう遼のことをまったく恐れていないし、強く咎めだてる様子もなかった。
「なんだ……アンタ」
と、遼はようやくのことで言った。
「俺は扇谷というものだ。
いろいろと事情があって、この男のことを調べていた」
「警察か」
扇谷は鼻で笑って、立ち上がり、
「俺をよく見ろ。
どう見ても中学生高校生ていどだろうが」
と言い、遼の傍まで歩いてきた。
「じゃあ何だよ」
「説明すると長くなる。
おまえ、名は?」
「………」
隠したところで無駄なような気はしたが、それでもこの状況で名前を名乗るのは気がひけた。
「言いたくないか。
ならこれでどうだ」
扇谷は遼が放った金属バットをひろいあげて、死体の頭に鋭く一撃をくれた。
頭蓋骨が砕ける、嫌な音がした。
「さあ、これで俺たちは共犯だ。
バットに指紋が残るからな」
それでも名乗らなかったらおまえをチキン認定してやる、と言わんばかりに、扇谷はかるく顎をあげた。
「……槙島」
「けっこうだ、槙島くん。
まあ、実をいうとすでに知っていたがな。
けれども、交友の始まりは、互いに名乗るところからであるべきだ」
扇谷は、自分の携帯を取り出してどこかに電話をかけ、一分ばかりやりとりをした。
遼は、その隙に逃げようと思い、ゆっくり遠ざかろうとした。
すると扇谷は携帯から顔を離して、
「待て」
と厳しく静止した。
「……まったく、度胸があるのかないのかよく分からん奴だな、君は」
と、扇谷は携帯を畳みながら言った。
「……まだなにか用?」
「そう警戒するな。
俺は君のことが気に入っているんだ。
そんな態度を取られると悲しくなる」
「調子のいい奴だな」
「君はさっきまで有川クミさんとラブホテルにいたな。
監視室の映像をざっと見させてもらった」
脳裏にあの凄惨な体験が蘇り、遼は気が滅入ってきた。
「映像を見た? 適当なことを言うな」
「本当さ」
「どうやって入った?」
「こうやって」
扇谷は、刀印を結んで薄く目をとじ、なにやら呟いた。
するとその姿が忽然と消えた。
そこにはただ落書きに埋もれたコンクリートの壁があるだけだった。
「は!?」
「隠身の術だよ。
まともな修験者ならこれくらいは誰でもできる。
まあ、俺は修験者ではないが」
そうして、ふたたび姿をあらわした。
「姿を自在に消せるのなら、ホテルの部屋にも警備室にもかんたんに忍び込めるってわけか」
「信じてもらえたかな」
そうして扇谷は穏やかに微笑んで、
「ひとのプライベートをのぞき見る趣味はないが、今回ばかりはやむを得なかった。
なにしろ男との繋がりが疑われる少女の遺体がベッドに横たわっていたのだから。
それで君とクミさんのやりとりの一部始終を見た。
もういちど言うが、俺は君が気に入ったよ」
「そりゃどうも」
「『力』にも覚醒しつつあるようだな。
それもなかなかの代物だ」
「力?」
「魔物と戦う力、祓魔・調伏の力のことだよ。
君のなかには気高き魂――古代中国の将軍の魂が宿っている」
「豹のことか」
「その存在を大切にするんだ。
いずれ比類なき力となる」
それから扇谷は小太りの死骸に一瞥をくれ、
「ところで、君はあのゴミを始末してひとくぎりつけたつもりでいるのか」
「これであいつはもう誰もあんな目には遇わせることができない」
扇谷はハッと鼻をならし、
「もっと頭を使いたまえ」
と、上から目線の態度を隠さずに言った。
「あの男が使役していた蟲はどこから来たと思う。
元を断たねばまたおなじ被害が生まれるぞ」
言われてみれば、たしかにそうだった。
「スマホはその元をたどるための有力な情報源だが、中身を見るためには暗証番号が要る。
にもかかわらず君はあの男を問答無用で殴殺してしまった。
頭が痛いとはまさにこのことだ」
「わ、わるかった……」
「だが安心しろ。
ほかの仲間が別のルートを辿って蟲を売りさばいている男を特定した。
これからちょっと行って懲らしめてこようと思うんだが、どうだ、君も来ないか」
「……いいのか」
「もちろんだ」
扇谷はチェスター・コートのポケットに手をつっこみ、高架下の通路を西口の方面へむかって歩き始めた。




