13.
寮のラウンジを折れた先のガラス張りの一角が、ランドリー・ルームに充てられていた。
土曜の夜はたいていごったがえすが、平日は割とすいているときもあった。
今日はすいている日のようだった。
遼は洗濯機のふたを開いて、ほのかに洗剤の匂いを漂わせる下着やワイシャツ、靴下を、かごのなかにいれた。
これから部屋のエアコンをドライにいれて、洗濯ロープに吊るさないといけない。
ここで一人暮らしを始めて最初に学んだのは、洗濯物を生乾きのまま放置するとどんな目に遇うか、ということだった。
ランドリー・ルームは寮の棟からすこし張り出したようになっているため、昼間は温室のような趣があるが、陽が沈むとグラウンドの照明や外灯のひかりのせいで、空港の待合のような様子にかわる。
この待合室の長椅子にひとりじめの態で座り、悠然と脚を組んで新聞を開いている少年がいた。
長めの黒髪が明かりを受けてつやめいている。
前髪は右目を覆い、隙間からその視線を紙面にそそいでいる左目はけわしい。
近眼乱視のせいだ。
しかし彼はかたくなに眼鏡をかけなかった。
「なにかの拍子で頭をどこかにぶつけて、レンズが割れ、眼球が傷ついたらどうするんだ」
という。
遼としては、じゃあ好きにすれば、としか言いようがなかった。
少年の名を、扇谷雅数という。
遼が確信をもって、一連の不可解なできごとについての詳しい背景を知っていると目する友人である。
扇谷はまわりのことに無関心なのか、あるいは新聞によほど面白いことが書いてあるのか、遼にまったく気づかない様子だった。
遼はこの畏友とすこし話をしたかったが、新聞に釘付けになっているものだから、さてどうしたものかと、長椅子に腰をおろして、様子を伺った。
ランドリー・ルームにも、赤い靄がうっすらと漂っていた。
駐車場からガラス張りをすり抜けてゆっくりと流れ込み、それが打ちっぱなしのコンクリートに吸い込まれるように消えていく。
すこしすると、扇谷は黒い瞳をまったく動かさないまま、
「ヒグマが集落に降りてきて、青少年育成センターを襲撃し、24人の死者と16人の怪我人が出たそうだ。
被害に遭ったのは合宿に来ていた中高生」
と、言った。
「ここからそう遠くない場所だ。
きみの部屋から山の斜面が見えるだろう。
そのむこう側だよ」
「冬眠あけ?」
「きみはそう思うか」
と、扇谷は聞き返してくる。
「人間は見たくもないものを見せられたとき、たいていそれにもっともらしい理由をつける。
山間の、けっして脆くもない現代的な建物のなかでそれだけの死人と怪我人が出たのなら、きっとヒグマの仕業だろう、という訳だ」
いつのまにか、辺りは静まり返っていた。
寮は段階的な消灯が始まっており、ラウンジの方はすでに薄暗い。
「洗濯、終わったんじゃないか?」
と、遼は脚を組み、この空気を茶化すようにクールに言った。
「さっさと回収して干したほうがいい。
生乾き臭のするワイシャツに袖を通すことほどつらいことはない」
扇谷は端正な口元をすこし曲げて苦笑し、
「きみは相変わらずだな」
と、言った。
「まあいい。
それより俺の道楽にすこし付き合わないか」
「道楽って」
遼は最後にとまった洗濯機のほうを気にしながら言った。
「占いだよ。梅花易数というやつなんだが」
「バイカエキスウ?」
扇谷は新聞を畳むと、遼にむきなおり、左目を爛々とかがやかせて、
「北宋に邵雍という儒学者がいてな。
ある日かれの前で、二羽の燕がもつれながら地に落ちた。
かれはそれをなにかの『兆し』と捉え、陰陽五行論に基づいて読み解き、王安石の台頭と宋の衰退を予言したのだが、そのときに用いた術がその梅花易数だと言われている。
のちに明の初代皇帝となる朱元璋は、かれの軍師の劉伯温にむかって覆いをした皿を出し、中身をあててみろと言った。
伯温は、それはきっと龍が半分ほど齧った月であろうと答えた。
むろん龍というのは皇帝や並外れて権威のある人の譬えであり、朱元璋そのひとを指すのだが。
果たして覆いを取ると、食べかけの月餅があった。
伯温がそのとき使った術が、その梅花易数だという説がある。
……ちなみに劉伯温は、三国志演義の諸葛孔明のモデルになったとも言われているんだが、あの有名な赤壁の戦いで用いられた奇門遁甲の術も……」
「へえ」
遼は椅子にのけぞって、わるいけどまったく興味がない、というニュアンスがどうか上手く伝わりますようにと願いながら、露骨にそっけなく言った。
そうして一方では、この畏友なら春秋時代の晋の将軍やら古代の呪術やらに詳しいのではないか、と考えた。
しかし、思い切って聞いてみる気にまではなれなかった。
(´・ω・`)
需要は……
ございませんか……




