12.
遼は筋トレで消耗した身体をベッドのうえに投げだし、ぼんやりと白い天井を眺めながら、息が整うのを静かに待った。
机のデジタル時計は、九時半を指している。
ランドリー・ルームで洗濯機にかけておいた衣類の、脱水がそろそろ終わる頃だった。
あまり長く置いておくと、待っている人の迷惑になるかもしれない。
遼は起きあがって右腕をかるくまわし、それから財布をとってカード・キーがちゃんと入っているのを確認し、ポケットに突っ込んだ。
部屋には最新式のオート・ロックが備わっていて、扉が閉じて二分経つか、消灯時刻がくると、自動で錠がかかる仕組みになっている。
うっかりカード・キーを忘れて部屋を出てしまった場合には、寮のひとを呼んで開けてもらうしかないのだが、学校の用務員を兼ねる寮の管理者は、曰くつきの人物で、たいていの寮生から畏怖され敬遠されていた。
遼も、そのクロサキという人物の手をわずらわすことになるのは、なるべく避けたかった。
ビーチ・サンダルをつっかけて扉を出、廊下を歩く。
すこし行くと、クラスの女子の集団から声をかけられた。
浴場から戻ってきたところらしく、みな髪を濡らして部屋着を身につけ、手には洗面器を抱えていた。
やばい、と遼は思った。
まだクラスの女子たちの苗字と名前を覚えきっていない。
「槙島くん、どこいくの?」
「洗濯物を取りにいくところ」
と、遼は答えて、
「みんなは浴場からの帰り?」
女子たちは、口々にそうと言った。
「お風呂あがりの女の子たちってどうしてこんなに可愛く見えるんだろうね」
と、軽くもちあげて、
「浴場も混浴にすればいいのに」
と、真顔で言った。
女子たちは口々に非難を浴びせてくるが、表情は楽しげだった。
「槙島くんって眼鏡かけてなかったっけ?」
「ああ、勉強するときと本を読むときね」
「どんな本を読むの?」
「村上春樹とか」
うわあ、それっぽい、と女子たちは口々に言った。
「そういえば休み時間に読んでたね。1Q84」
と、背のたかい子。
「わたし、お母さんに、人前で村上春樹を読む男だけはやめなさいって言われた」
と、ショートの子が言う。
「えっなんで」
「経験から言って、八割はナルシストだって」
うわあ、わかるー、と女子たちは言う。
「当たってるかも」
と、遼は言った。
「俺、シャワー浴びたあとに鏡のまえでポーズキメたりしてるし」
と、ボディビルダーを真似て見せる。
やだあ、きもいー、と女子たちは笑う。
それから槙島くんは誰かに似てるんだけど思い出せない、と小柄なロングの子が言い出し、女子たちから、90年代の男女のユニットの男のほうだとか、アメリカの映画俳優だとか、アニメの悪役とか、お笑い芸人とかの名前がいくつも出てきた。
遼は、苦笑いしながら、洗濯機があくのを待っている人がいると悪いから、みんな湯冷めしないようにね、と言って、階段を駆けおりた。
なんとか無事に切り抜けられたことに、胸を撫でおろす。
そうして半ばまで降りた頃、さっきの女子たちが、
(なんか赤い靄が出てない? ……)
というのを耳にしたような気がした。
寮の一階まで降りてくると、たしかに水銀灯のあたりに、ごく淡い靄が漂っていた。
赤くぼんやりと光っている。
その先に、緑の非常口の案内板があり、扉が開いたままになっていることに気付いた。
通りがかりにのぞいてみると、踊り場のところに、アディダスのジャージを着た細身の女の子があぐらをかいて座っていた。
小皿に載せた煮干しを、黒毛の野良猫に食べさせている。
遼のほうに背をむけていたけれども、誰だかすぐに分かった。
この子も、おなじクラスの女子で、名を四谷花という。
ただ、学校には二度ほど登校しただけで、あとはずっと寮の部屋に閉じこもっていた。
いわゆる登校拒否に近い状況だった。
遼はすこし戸惑ったあと、思い切って声をかけてみた。
「こんばんは。
四谷さん、だよね」
女の子はびくっとしたように振り返った。
セミロングの黒髪が肩のうえで跳ねる。
顔立ちは整っていたが、15歳とはとても思えない童顔で、ややもすると小学校の三、四年生くらいに見える。
「まっ槙島!」
「名前覚えていてくれたんだ」
と、遼は微笑んで、
「猫に餌をあげてるの? 優しいね」
「べっべつに! そんなことないし!」
花は遼と目をあわそうとせず、皿を置きっぱなしにしたまま、廊下を転げるように走っていった。
そうして自分の部屋のドアを開けようとするが、もちろん開かない。
すこしあたふたしたあと、ポケットからカード・キーを取り出し、リーダーに差し込む。
それから首をすくめて遼をそっとふりかえる。
遼がおやすみと言って小さく手を振ると、お、おやすみ! とうなるように言ってドアを開き、部屋に入っていった。
遼はもういちど、非常口から外を眺めた。
月のひかりが大きないちょうの枝葉を透過して、舗道にまだら模様を描いている。
そこに赤い靄がかかって、ひかりを淡く立体化させた。
足許では、黒猫が悠長に煮干しを食んでいる。
遼は腕を組んで、考えた。
学校の敷地内で、野良猫に餌をあげるのは、かならずしも褒められたことではないだろう。
かりに花が寮の管理者や先生に叱られることになったら、もっと学校に通いづらくなる。
となると、小皿と煮干しを放置しておく訳にもいかない。
どこかに隠すような場所はないかと、辺りをうかがう。
赤い靄はいぜんとしてあちこちに漂っていた。
その靄がゆったりと流れてきて黒猫にかかったとき――
猫の着ぐるみをまとった女の子のすがたに一変した。
ぺたっと座り込んだバニー・ガールのような趣がある。
女の子は口をもぐもぐさせながら、不思議なものでも見るような眼で、遼を見つめていた。
「……こ、こんばんは」
と、遼は言った。
「心配しないで。
お皿ならあたしが片づけとくから」
「そ、そっか」
「それよりあんた、さっさと洗濯物を取りにいったほうがいいんじゃない」
猫娘はさいごの煮干しを肉球でつまんでぽいと口にほうると、小皿をとって、廊下をすたすたと歩いていき、花の部屋のドアをすり抜けていった。
遼は、
「また、見てはいけないものを、見てしまった……」
と、小声でつぶやき、それから非常口を閉めてロックをかけた。




