10.
けれども、クミを置いて逃げ出すことだけはできない。
ここでなにかの決断をくだす必要がある。
しかし、それにはあまりに情報が不足していた。
また、声が意識にわりこんできた。
(……どのみち、あの娘はもう助からない)
大きな鏡のなかから、赤い靄が垂れこめてくる。
むこうが霞むくらいの、濃い靄だった。
それがゆったりと流れて、クミに触れた途端――
皮膚がただれて赤黒くなった屍のすがたに変わった。
「見ないで!」
と、クミは叫んで、テーブルから飛び降り、ダブル・ベッドのシーツを剥がし、頭から被った。
そうして、背をむけてうずくまる。
しかし、遼はすでに、屍の頭蓋骨を割って脚をくいこませている大きな蜘蛛と、おなかの空洞に大量に蠢くおおきなミミズとも回虫ともしれないものを見ていた。
テーブルのうえの、クミのスマホが鳴った。
「あたしの言っていることが信じられないなら、そのスマホに届いたSNSのメッセージを見て」
と、クミは言った。
とりあげて、言われたとおりに暗証番号を入力する。
『送信者・ヒロ 21時34分 お友達からお年玉を巻き上げられた? 次の予定が入ったから、早く連絡しろ』
「そいつに……埋め込まれたの」
シーツにくるまれた小さな背中が震えている。
「……つまり、蟲を?」
クミは頷いた。
「写真を何枚か撮るだけっていう話だった……それだけで五万円をくれるっていうから……ほんと、バカだった……」
掌のなかで、クミのスマホがぎりっと音をたてた。
少女が、耳をそばだてる小動物みたいに、身体を起こした。
「……ねえ、あたし感じるよ。
槙島くんのなかに、もうひとりの槙島くんがいるのを。
灰色のマントを肩にかけた、韓国の時代劇の俳優みたいな人……」
「豹のこと?」
「その人だったら、あたしの身体から蟲を引き剥がすことができると思う」
(……その通りだ)
と、声が言う。
「でも、待って」
と、遼は言った。
「クミちゃん、さっき言ったよね。
『動いていられるのは、そのへんな生き物のせい』
だって。
蟲を取り除いたら、クミちゃんは……」
少女は悲しげにうめいて、
「さっきのあたしのすがた、見たでしょう。
あれがほんとうのすがた。
もう死んでいるんだよ。
意識だけが僅かに残っているの。
でも、それもいずれ消える。
だから、お願い、もう終わらせて……」
遼は奥歯を食いしばり、腹立たしいほどチープな天井の飾り照明を見上げる。
たぶん、いま起こっていることは、常識を超えている。
自分ごときが浅知恵をめぐらせたところで、どうなる問題でもないのだ。
ほかに、どうしようもなさそうだった。
「豹、頼む……」
と言った。
(……すぐに済ませる。
遼はむこうをむいていろ)
すぐ傍にふっと現れた古代中国の武官は、鎧の金具をさざなみのように鳴らしながら、ゆっくりとシーツに包まった屍のそばへ歩いていった。
(……言い残したいことはあるか)
「全ておわったら、槙島くんに抱きしめてほしい」
遼はたまらず振り返った。
「いまはダメ!」
と、クミは鋭く言った。
「こんな姿、きみに見せたくない。
でも、これが済んだら、きっときれいな身体にもどれると思うから……」
「かならず、そうする」
「ありがとう」
遼はぐっと壁をにらみつづけた。
ぱさりと、シーツが床に落ちる音がする。
ああっ、というクミの悲鳴。
なにかビニール製のものを万力でしめあげるような、ぎりぎり、という嫌な音がたち、得体のしれない耳障りな鳴き声があがる。
すぐに、鞘走りの音がたち、静かになった。
びちゃっと、粘液状のものが床に落ちる音。
遼はふりかえって、シーツに包まれて息絶えた少女のもとにひざまづき、長いあいだ、そのきれいな横顔を、自らの胸におしつけつづけた。
そうして、クミをベッドのうえに運んでそっと寝かせ、スマホをとり、
『10万円ゲットしたよ。どこにもっていけばいい?』
と、ヒロに返信した。
三〇分後、遼は、高架下にあらわれた金髪の小太りの男を、金属バットで殴殺した。




