8. 対価①
日の光が差し込むことのない魔王城の大広間──
明かりが灯っているはずなのに、どこか仄暗く感じられる。
その部屋で、魔王は玉座に座り、侍従長と話をしていた。
しかし、その最中だというのに、侍従長が『おや?』と何かに気を取られた。
この初老の侍従長は、魔王の父親でもある先王の時代から仕えていることもあり、魔王に対してどうも敬意が足らない。
魔王は常日頃からそう感じている。
それでも魔王が侍従長の態度を咎めることができないのは、侍従長の人柄ゆえのことだ。魔族らしからぬ情を持っている。それと親しみやすい笑顔も。
「人間界から呼び出しがかかっておりまして、退席してもよろしいですか?」
侍従長は笑顔で魔王に伺いを立てながら、ソワソワし始めた。
「魔王である僕より人間を優先するんだな」
咎めはしなかったが、小言は溢れた。
深淵のような漆黒の瞳で、気もそぞろな侍従長を見つめ、魔王はもったいぶるように長い足を組み替えた。
瞳だけでなく髪まで闇のように黒い魔王の、そのダークな印象はますます濃厚になった。
しかし、人外の美形が漂わせる物憂げな空気にも、侍従長は慣れたもので全く動じない。
「前回も前々回もそう言って魔王様が拗ねるから、主人をずいぶんと待たせてしまったんですよ? これでは使い魔失格です。私のことを切って、別の使い魔と契約されでもしたら、どうしてくれるんですか!」
(知ったことか。いっそ切られてしまえ!)
魔王は意地の悪い気持ちになった。
「人間なんかに仕えるだけでは飽き足らず、『ラーシュ』なんて人間のつけた名前を魔界でも名乗って……本当は***のくせに」
「わー、わー、わー! 本当の名を不用意に呼ばないでください。どこで誰が聞いてるか分からないんですから」
「大丈夫だよ。僕は誰かの名前を呼ぶときは、その者以外には聞き取れないように必ず魔法をかけてる」
魔王は、『ふん』と鼻をならした。
「ふう、心臓に悪い……だとしてもです! 私のことは『ラーシュ』と呼んでください」
「わかったよ、ラーシュ。これでいいんだろう?」
侍従長は『ええ』と満足気に頷く。
「長い付き合いの魔女でして。ずっと見守ってきましたから、すっかり娘みたいな感覚なんです」
「娘って……魔界から人間界へと漏れ出ている我々の魔力を、ちまちまと吸収して使ってるだけの小っぽけな存在だろ?」
「それが微々たる魔力なのに、工夫して上手いこと使ってるいるんですよ! いじらしいこと、この上ないです。ああ、私のことを人間界に召喚してくれるのも、そのひとつでした」
魔王は鼻に皺を寄せ、1度目よりも勢いよく『ふんっ!』と鼻をならした。
「それで、私は人間界に行ってきてもよろしいですね?」
魔王はぷいっと横を向き、頬杖をついた。
「行けばいいよ、行けば」
「それでは行ってまいります」
侍従長は魔王のことを一切気にかけることなく一礼すると、その姿を真っ黒なカラスに変えた。
それから間もなくすると、徐々にカラスの体は透けていき、しまいには完全に消えてしまった。
「***はいいよな。ラーシュなんて名前をもらって……」
侍従長がいたはずの空間を眺めながら、魔王は独りごちた。
「魔王城から出られて……」
魔王は自分の言動が、子ども染みたただの八つ当たりだと自覚していた。
もっとも、侍従長だってそんなことは承知している。だから過度に受け止めることはせず、毎回笑って適当な返しをしてくれているのだ。
魔族が人間界に行くには、人間のそれも魔女と呼ばれる限られた者たちに召喚してもらうしかない。
そして、魔族なら誰でも魔女の声が聞こえるというわけではない。ごく運のいい者だけだ。
そう、まさに侍従長のような。
まだ幼かった頃、侍従長からその話を聞かせてもらうのがお気に入りの時間だった。
侍従長は毎回、『その声が不意に聞こえたんですよ』と語り始めた。
しかし、どうして自分にだけ聞こえてきたのかまでは分からなかったという。
それでも、この声がそれだと理解できた。魔女が自身と契約してくれる小動物を呼んでいる声だと。
魔女たちはお使いのような簡単な仕事をさせるために、小動物と契約を結ぶ。
そのための召喚魔法が、どうしてだか魔界にまで届いてしまうことが稀にあるのだ。
魔族の姿のまま召喚に応じたせいで、魔女にパニックを起こされ逃げられてしまった、という過去の事例も知っていた。
契約締結に失敗すれば直ちに魔界に引き戻されることになる。
だからカラスに化けたのちに、人間界への招待に応じた。
そうして魔女の使い魔になった。
侍従長は誇らしげにそう締めくくった。
「僕もいつか人間界に行けるかな?」
まだ子どもだった魔王は、期待に胸を膨らませた。
「あー、どうでしょう……使い魔になる以外の方法が見つかればいいのですが……そもそも使い魔とは、人間の家来になるようなものなんです。決して魔族の頂点に立つ魔王様が結ぶような契約ではありません。そして、貴方様は何といっても魔王様のご子息であり、次期魔王となるお方ですから、」
このとき、魔王は気持ちはどこまでも沈んでいった。
「たとえ魔女の声が聞こえたとしても、使い魔になるのは適切ではないのですよ」
そう告げられたときには、自分の世界が完全に閉じられてしまったように感じた。
侍従長は魔王には使い魔になることを禁止しておきながら、自分が人間界に呼ばれたときには決まってうれしそうに出かけていった。
魔界に閉じこめられている魔王のほうが、よほど不自由でつまらないと思う。
魔女のことを『小っぽけな存在』と揶揄したのは、自身に呼びかけてくれない悔しさゆえにだ。
魔界で誰よりも人間界に憧れているのは自分だと、魔王は自負していた。
魔界はまるっと魔王のものなのだ。細部に至るまで掌握していて、何もかも知り尽くしている。
この世界が大事であることには違いないが、今さら魅力的に映るはずもない。
侍従長のような、人間界に招かれたことのある運のよい者たちから聞く話はどれも新鮮だった。
侍従長はああ言っていたけれど、使い魔になるにはカラスだかネズミだかに化けなければならないのだから、魔王だとバレることはないはずだ。
だったら……と思う。
(もし幸運にも魔女の声が聞こえるという奇跡が起こったなら、魔王が人間の使い魔になったって構わないじゃないか)
契約してみて何か問題が生じたなら、そのときは二度と召喚に応じなければいいだけの話だ。
使い魔になるのが単なる小動物だったら、そんな芸当はできないだろう。
だが、魔族は違う。魔女ごときの召喚魔法など、鼻息で吹き飛ばせる。
侍従長だってやろうと思えば、それができるはずだ。
にも拘らずそれをしないのは、人間界で魔女の家来として働くのが楽しいからに他ならない。
(僕にも聞こえればいいのに)
目を閉じて願った。
この無限の檻から出てみたい。
空を見上げるという行為がどれほど爽快なのか知りたい。
(僕にも聞こえてくれよ)
強く念じていれば何か聞こえてくるような気がしてきた。
(いや、そんなはずはないか……)
魔王はため息を吐いた。
(そんなはずが……)