十五、疑ってはいけなかった
この記憶が戻ったのは、ラファエルがとある知らせを聞いたときであった。
この日は、ロジュが家族で食事会をする、と言っていた日だ。ロジュの正装のような服がかっこよかった、と思い出しながら、ラファエルは食事をしていた。ラファエルの家族は、ロジュの家族とは違い、家族で食事をすることはよくある。この日も、家族で食事をしていた。ラファエルは兄と弟がいるが、この場に兄はいない。ラファエルの兄は自由な人物で、公爵家の後継者という立場を放棄している。だからこそ、ラファエルは次期公爵という地位に就いているのだが、それは今は関係のない話だ。
とにかく、ラファエルは父、母、弟と共に食事をしていた。そのバイオレット公爵邸に駆けつけてきた人が一人。
「リリアン・バイオレット公爵。ソリス城より至急の連絡です」
バイオレット公爵であり、この国の宰相である、リリアンに緊急の知らせが届くのは不思議なことではない。リリアンも焦った様子もなく、手紙を受け取ったが。
「え……」
彼女は、手紙を見て絶句した。リリアンは、表情を隠すのが上手い。だから、その言葉を失う様子はあまり見るものではなく、家族も食事の手を止めてリリアンの様子を見つめる。
「今すぐ城に向かいます」
知らせを持ってきたソリス城の使用人にそう告げると、リリアンは食事の席を立った。そのまま行こうとしたが、途中で動きを止め、食事の席にいる三人に向き直った。ラファエルは、母親と目が合い、ドクリ、と心臓が嫌な音をたてた気がした。なにか、不穏な気配を感じる。
「ラファエル。一緒に来なさい」
ここで自分の名前が呼ばれたことで、ラファエルは薄紫色の瞳を見開いた。ソリス城からの緊急の知らせ。そして、それを知った母親が自分の名前を呼ぶ理由。それが意味するところはなんだろうか。ラファエルは、勝手に呼吸が浅くなるのを感じた。
「ラファエル。落ち着いてきいて」
リリアンが周囲に人がいないことを確認してから、ラファエルの耳元で囁く。
「ロジュ殿下が、生死を彷徨っているそうよ」
「は?」
何を、言われたかが理解できない。
ラファエルが混乱することはお見通しであったのだろう。しかし、今言わなかったとしても、ラファエルが知らない方が酷だとリリアンは考えた。また、ロジュの側近となったからには、覚悟をしておく必要がある。どんな現実からも、目を逸らさない覚悟を。
「十分後には出発するから、一緒に行くなら準備をしなさい」
「はい。分かりました」
ラファエルは、返事はしたが、意識は向いていなかった。ロジュのことで、頭がいっぱいだ。自分は、何ができる。自分は、どうすればいい。
この、混乱をどこかで味わったことがある気がした。一体、いつだっけ。どこで、感じたのだっけ。
なんとか自室にたどり着いたラファエルは、ソリス城へ行く身支度を整えながら、脳を働かせる。この既視感はなんだ。
今は、あの時とは違って、自分は「ロジュの側近」になれているではないか。「何か」になりたいと嘆いていたあの時とは、違う。
あの時? それは、いつだ? いつのことを。
そのとき、ラファエルの中に洪水のように記憶が流れ込んできた。ラファエルは、想像もしていなかったことに、頭を押さえる。
なんだ。この記憶は。いや。自分は知っているはずだ。これが何かを、知っている。
「ああ。そうか」
ラファエルの中でいろいろと腑に落ちることがあった。なぜ、ラファエルは今回、ロジュに側近になるよう、積極的に嘆願できたのか。普段の自分であれば、躊躇する場面だ。
「時間が、まき戻ったのか」
しかし、その事実にたどり着いたが、疑問が生じる。
「それにしても、時間がまき戻る前と比べて結構変わっちゃっているなあ」
ウィリデが、生きている。それが大きな違いかもしれない。それに、時間がまき戻る前は、シルバ国が鎖国することはなかった。シルバ国近辺が大きく変わっている気がする。それに、今はラファエルは憧れていたロジュの側近になることができている。いろいろ変化している。それは、誰かが意図的に変えているのか。それとも、運命の歯車が狂ったのか。少しのズレが大きな違いを生み出しているのか。
ぐちゃぐちゃになった頭を冷やすため、ラファエルは洗面所へと向かった。顔に水をかける。水の冷たさに幾分か脳は冷静になったようだ。
鏡に映るラファエルの瞳が、いつも以上に刃物のような鋭さを放っていることに、ラファエル自身は気がついていなかった。
ラファエルは、ソリス城でロジュの私室にいた。医者や看護師、薬剤師が部屋を出たり入ったりしている。その様子をラファエルは表情なく眺めていた。
もしも。この人達の中にロジュを害そうとする人物がいたとしたら。ロジュは、本当に死んでしまうだろう。だからこそ、ラファエルは監視をしている人間がいる、という状況を作るために、部屋から一度もでていない。
いつものにこやかなラファエルはどこにもいない。研ぎ澄まされた剣のように、そこにあるだけで空気が引き締まる。
「バイオレット公爵令息」
ラファエルに声をかけてくる者がいた。ラファエルは目線だけをそちらに向ける。その人は、ロジュの治療にあたっていた医師の中の代表者であった。
「なんでしょうか」
「おおかたの治療は終わりました。あとは、ロジュ第一王子殿下の回復力を祈るしかありません」
これ以上、できることはない、ということか。ラファエルは椅子から立ち上がった。
「かしこまりました。報告、ありがとうございます」
ラファエルは、頭を下げる。その後、多くの人間が部屋から出て行った。部屋に残ったのは、少数人の看護師のみであった。
コンコン、と部屋の戸を叩く音がする。
「失礼します」
涼やかな声がした。彼が話すだけで、森の中にいるように穏やかな心地がする。
「ウィリデ、国王陛下」
ソリス国の看護師は動揺を隠せず、慌てて姿勢を正す。その様子を気にせず、ウィリデは言葉を重ねた。
「ロジュはどうですか?」
「今の所、安定していらっしゃるようです。医師は、後はロジュ第一王子殿下の回復力次第と言っておりました」
「そうですか……」
看護師の一人からの言葉をきいて、ウィリデは若草色の瞳を伏せた。考え込んだあと、強い色を宿し、部屋にいる人達に向けて言う。
「申し訳ありませんが、少しの間、ロジュと二人にしてもらってもよろしいですか?」
看護師はこっそりと窺うようにラファエルに視線を向けた。ラファエルが会話に割って入らないことから、部屋に潜んでいるつもりであることは伝わったのだろう。ラファエルは看護師に向かって軽く頷く。
「かしこまりました。何かありましたら、外でお持ちしておりますので、お声がけください」
ラファエルは、看護師が部屋から出て行く様子を壁にもたれてながめていた。ウィリデはラファエルに気がつく様子はない。おそらく、彼は動揺しているのだろう。それぐらい、周囲へ注意を向けることができていない。
ラファエルは、ウィリデという人物のことを疑う気は全くない。敬愛するロジュが世界で一番信頼している人物なのだ。疑う理由なんてない。
ただ、ラファエルは分からない。ロジュがウィリデのことをものすごく信頼していることは知っている。ロジュの表情、行動。様々なもので判断は容易だ。それに、ラファエルは知っている。ロジュがウィリデの死を受け入れきれず、太陽を堕としたことを知っている。だからこそ、ロジュはウィリデを大切に思っていることは疑うまでもない。しかし、ウィリデの方はどうなのだろうか。ウィリデは、ロジュのことをどう思っているのだろう。
それは、ラファエルの中で謎だった。弟のように大切にしている、のだろう。それは今回の件で、伝わってきている。ウィリデは、ロジュが生き残るように最善手をとり、最大限の手段を使っている、ということはロジュの部屋に籠もっていたラファエルまで連絡が来ている。わざわざソリス国まで来て、他国との交渉まで乗り出した、ときいた。詳しいことまでは知らないが、ウィリデもロジュを大切にしている、ということはわかった。
それでも、ラファエルはロジュがウィリデを想う気持ちの方が大きい、と勝手に思っていたのだ。
ウィリデがロジュに触れる手つきが、どんな高級品を触るよりも優しいということを見るまでは。
「ロジュ、頼むから。私より先には、逝かないでくれ」
このロジュへの届くはずのない懇願をきくまでは。
この人は。ウィリデ・シルバニアという人間は。ロジュのことを大切に思っている。その気持ちを、疑ってはいけなかった。
その後、何度もそのことを認識することになったな、とラファエルは思い出す。
ラファエルは、ふと我に返った。こんなことをしている時間はない。アーテルと別れてから、結構時間が経ってしまった。早く会場に戻らなくては。ロジュが探しているかもしれない。ラファエルは、今がロジュの王太子になったことを祝うパーティーであることを思い出した。
ロジュへの変わらない敬愛を。ラファエルは胸に抱いたまま、パーティー会場へと歩みを進めていった。そういえば、ウィリデへの接触を図るアーテルは上手くいったのだろうか。
会場に入ったラファエルは、異様な空気が漂っているのに気がついた。騒ぎの中心にいる人物が、自分の名前を呼んだ瞬間、ラファエルはそちらへと駆けだした。




