十四、ウィリデの愛の定義
コンコン、とロジュの部屋のドアを叩く音が聞こえた。現在部屋にいるのはロジュと仕事の説明をしに来ていた宰相のバイオレット公爵のみ。ロジュがチラリ、とバイオレット公爵に目を向けると、彼女は黙って頷く。それを見届けたロジュは、どうぞ、と声をかけた。
「お邪魔します。今は忙しいかな?」
「ウィリデ陛下!」
ロジュが驚いたように立ち上がる。その表情が先ほどから一変したことにバイオレット公爵は目が離せなくなった。バイオレット公爵はロジュが、こんなに無邪気に笑っているのを見るのは初めてのことだ。
バイオレット公爵の驚きを一切気にせず、ロジュはウィリデの方へと近づいて行く。
「ロジュ、この前から変わりはないか?」
「ああ。ウィリデ陛下は?」
「私も変わりはない」
ロジュの表情に魅入っていたバイオレット公爵は思い出したかのように言葉を発した。
「ウィリデ国王陛下、私はソリス国で宰相を務めております、バイオレット公爵家の当主、リリアン・バイオレットです。よろしくお願い致します」
「ああ。シルバ国王である、ウィリデ・シルバニアだ。よろしく頼む」
ロジュから視線をずらし、バイオレット公爵に挨拶のみをしたウィリデは、またロジュへと視線を戻す。
「ロジュに言っておかなければならないことがあるんだが……。今は忙しいか?」
「うーん……。どうだろう。バイオレット公爵、今日の分はここまででいいか?」
「ええ。必要な分は終わっております。それでは私は失礼します」
そう言ったバイオレット公爵はお辞儀をしてロジュの仕事場から出ていった。
「ウィリデ陛下、紅茶でいいか?」
ロジュが部屋の奥の方からティーポットとカップをトレイに乗せて運んできた。
「ああ、ありがとう」
ロジュが手慣れた仕草で紅茶を入れる。普段から、自分で入れているのが一目で分かる。十年前からロジュは自分で入れていた。だからこそ、ウィリデはそのことを不思議に感じることはない。
「ロジュは今も専属の使用人はいないの?」
ウィリデが気になっていたことを、何の気なしに尋ねると、ロジュは苦笑しながら頷いた。
「俺の専属になりたい奴なんか、いないだろう」
ボソリと呟いたロジュの声はウィリデには届いていない。しかしそのときの藍色がいつも以上に暗さを帯びていたため、ウィリデはロジュに思わず尋ねる。
「ごめん、ロジュ聞き取れなかった。もう一回言ってくれない?」
「いや、独り言だ。本題に入ろう」
ロジュを見つめながら尋ねたウィリデに向かって、ロジュが首を振る。
「それでウィリデ陛下はなんの用事でソリス国に?」
「主な用件はリーサについてだな」
「リーサについて? もしかしてソリス国に留学するのか?」
ロジュがウィリデの要件を難なく当ててしまったため、ウィリデは一瞬言葉を失った。
「……。何で分かった?」
「多忙なウィリデ陛下がこんなに急いでソリス国に来たということは、それなりの用事だろう?」
「まあ、そうだな。リーサの留学の許可をコーキノ陛下にとってきたよ」
王族が他国に留学する。それはしばしば行われることだ。実際、ウィリデもソリス国へ一年弱留学していた。それでも、リーサの留学は他と比べてできるだけ急ぐ必要があった。リーサがフェリチタの扱いを身につけられるように。だから、ウィリデはコーキノ国王に直接話をする必要があったのだ。
「主な用件って言ったけど、他には?」
ロジュの藍色の瞳が探るようにウィリデを見つめる。
「他か? そんなに大した話はしてないな」
ロジュの視線をウィリデは笑顔でかわす。コーキノ国王と話をしていたことはおくびにも出さない。
無表情で感情を隠すロジュとは違い、ウィリデは笑顔を浮かべることで表情を読み取らせない。
「そうか……」
ウィリデの笑顔からは嘘か本当か読み取れない。ロジュは探るのをやめた。ロジュにとって、ウィリデが大したことがない、というならそれはロジュの気にすべきことではない。
「ロジュ、リーサのこと頼んだよ」
「頼んだって、何をすればいい?」
ロジュが困った顔でウィリデの方を見る。ロジュは大学内で、話をするくらいの人はいるが、友人と呼べる関係の人はいない。だから、リーサを助ける、と言っても何もできる気はしない。
「特別なことは何もしなくていい。困っていたら助けてあげて」
「わかった」
それぐらいなら、とロジュは頷いた。
「うん。よろしくね」
ウィリデが嬉しそうな笑みを浮かべる。
「……。ウィリデ陛下」
ロジュが思い切ったように口を開く。彼は俯いたが、すぐに顔を上げてウィリデを見据えた。
「どうした、ロジュ」
「俺にリーサと婚約してほしい?」
ロジュがいつもの真っ直ぐな瞳で見つめるから、ウィリデは思わず苦笑してしまう。
「そうだな、私としてはどっちでもいいかな」
「そうなのか?」
「ああ、だって……」
ウィリデはロジュの藍色の瞳を見つめ返しながら口を開く。
「ロジュがリーサと婚約してもしなくても、ロジュが可愛い弟であることは変わらないから」
その言葉を聞いたロジュは花が綻ぶように笑う。その笑顔を引き出するのは自分だけと思うと、ウィリデは嬉しいような気持ちもあるが、他に自分のように自然体で話せる人間がいないのは寂しくも思う。
「そうか、そうだよな」
「ああ。だから、ロジュには、後悔しない相手と結婚してほしい」
政略結婚を行う場合もあるが、恋愛結婚を行う場合もある。王族だからと言って、結婚相手が細かく制限されることはない。貴族の爵位を持っている相手であれば結婚することはできる。貴族ではない、平民と結婚する場合は王族から抜ける必要があるが。
「うーん、そんなことを言われても、まだ分からないな」
「それでいいんじゃないか? 私もまだ相手を見つけていないわけだし。ロジュ、まだ結婚しなくていいよ」
そういうウィリデは、本当は結婚していないことを少し気にしているのかもしれない、とロジュは思った。
「まあ、人生は長いわけだしウィリデ陛下も焦らなくていいんじゃないか?」
「そうだな」
長生きする人は二百年近く生きるという。長生きが確約されているわけではない。しかし、フェリチタの加護が強ければ強いほど、長生きの可能性は高くなるのではないか、という説が今のところ有力だ。事故や他殺などは避けられない。それで若くして亡くなる人はいる。しかし、病死はしにくく、寿命は長いのが現状として出ているデータだ。
「愛って何だろうな……。ウィリデ陛下は知っているか?」
「うーん、そうだな。形があるものではないから難しいが……見返りを求めずに、守りたいとか力になりたいとかを思うことができれば、それは愛情なんじゃないか? もっとも、それが恋愛感情かは分からないが」
「見返りを求めずに、か。」
見返りを求めない。それは、相手のことを思いやる行動でありながらも、自分がやりたいからやるという自己満足の意味合いも持つ行動であろう。ある意味では相手のことを考えているが、ある意味では自分が中心となっている。その矛盾を「愛」とウィリデが表現するのは少し意外だった。
「ああ、でもこれは私の定義した愛だから、ロジュの思う愛情が同じとは限らないからね」
「ああ。分かってる」
「ロジュの思う愛も見つかるといいね」
ウィリデがロジュを見る目はどこまでも優しい。ウィリデがロジュのためにする行動は、果たして見返りを求めているのか、見返りを求めていないのか。
「……ああ」
その優しげなウィリデの眼差しに思わず目を奪われたロジュは、少し返事が遅れたが、思い出したように返事をした。
ふとロジュは自分の脳裏に何かがよぎった。
本当に、ウィリデには婚約者がいなかったか?
何か、違和感がある。自分は当然のようにウィリデが結婚していると考えていた。この前シルバ国に行った際に、ウィリデから否定はされているが。
彼の隣にいるべき人がいたはずではないか、と自分の中で声が聞こえる。何の話か、誰のことかロジュは思い当たらない。それでも、どこかで記憶にあるのは、銀色の長い髪の女性が、ウィリデの隣に立つ様が一番しっくりくる。
この人は、誰だ。
ロジュの中で混乱が渦巻くが、それに考え込もうとする直前、奇妙な違和感と混乱はいつのまにか消え去った。何も考えていなかったかのように。




