五十三、渇愛
リーサは、先ほどのウィリデの話を思い出す。ロジュという存在が遠すぎるという話になっていたが、元々はウィリデがリーサに選択肢をあげたかったという話だった。ウィリデはリーサがかつてロジュに先入観から抱いていた嫌悪に近い気持ちに気がついており、それを薄めたかったのだろう。
「それで、兄上はロジュと私が話せば、感情が変わると思っていらしたのですか?」
「まあ、そうだね。実際リーサはロジュに惹かれただろう?」
「でも、私の場合は、ロジュに救われたときの景色が忘れられないからですわ」
「景色」
リーサの言葉を繰り返したウィリデだったが、リーサはウィリデを見ることなく、うっとりとした気分に浸る。
「ええ。目の前が炎で赤く染まったと思っていたら、あの火より美しい深紅と、それとは全く違う昏い藍色。その不釣り合いにも感じる二色が、あれほどまで調和を取れているところなんて、実際に見ないと信じられないでしょうね」
燃え盛る炎の中、リーサはロジュに見惚れた。そして、自分の中から湧き上がる声があった。
この、色が欲しい。
そんな本能ともいえる部分でロジュに惚れ込んだ。リーサ自身が知らなかったこの渇望。リーサはロジュを渇愛していた。
「ロジュの色に惚れたのか?」
そんなリーサの本心を見透かすようなウィリデの怪しむ表情を見て、リーサは不満に思う。兄であろうと自身の恋心を否定されたくない。
「その日のうちに婚約発表までする人に言われたくありませんわ」
「……」
「色だって、ロジュの一部でしょう? 始まりは一目惚れかもしれませんが、他の部分も含めて、私は私が今まで見てきたロジュの全てを愛していますわ」
ロジュの笑顔も。困ったような表情も。伏目がちな表情も。呆れたような顔も。そして彼が向ける不器用な優しさや配慮も。彼がたまにみせる素直な心情も。リーサはどれも好きだ。
「全て、ね。リーサは、ロジュの全てを、弱さを含めた全部を知っているのか?」
ウィリデの表情が影を帯びたのを見て、リーサはたじろぎ、戸惑いの色をウィリデに向ける。
「どういうことです?」
ウィリデは、深緑の髪をかき上げた後に、視線を下へと向けた。
「ロジュは、多分リーサが思っているよりも弱い」
そのウィリデの言葉は、リーサがロジュから聞かされたものと近かった。リーサは首を傾げる。ロジュが、人や物を上手く信じられないことは知っている。それでも当人を含め、そこまで念を押すようなものだろうか。
「それは御本人もおっしゃっていましたが、分かりません。あの御方が傷つくことや変化することを恐れているのは知っていますが、みんな一度は考える範囲じゃないですか?」
リーサの疑問をうけ、ウィリデは弱々しく笑って見せた。その瞳が何を映しているのか、リーサには分からない。
「ロジュは、優しいよ。自分だけではなく、他の人のことまで考える。だからこそ、自分で首を絞めているようなものだ」
「考えすぎってことですか?」
「まあ、一言で表せばそうかもね」
ウィリデの表情をじっと見ていたリーサだったが、次の質問をウィリデへと投げかける。
「それでは、兄上はロジュのことを全て知っていると?」
「いや、それはないだろう」
考える素振りもなく、ウィリデは当たり前のように首を振った。その様子を見て、リーサは驚く。
「あら、そうですの?」
そんなリーサの表情を見たウィリデは、苦笑する。
「それはそうだろう。相手の全てを理解しているだなんて、不可能だし、そう考えること自体が傲慢だ」
「それは確かにそうですが……」
「それに、私がロジュと近くで過ごしたのは、たった一年。全てを理解するには短すぎる。氷山の一角であることは百も承知だ。理解者になれても、全ての事柄においての理解までは及ばない」
ウィリデは視線を落としながらそう言った。それをきいたリーサには困惑する。人への理解の難しさを認識しているウィリデがなぜ出会って間もない人間と婚約に至ったのだろうか。
「それでは、兄上。アーテル殿下のことはどうなのですか? ほとんど知らないのでは?」
それをきいたウィリデは少し考え込んだ。顔を上げてリーサを見つめたウィリデの表情は不満げであった。
「アーテルのことも全ては理解しているとは思っていないよ。それにしても、本当に出会ってすぐに婚約すると思っているの?」
自分が初対面の人とすぐに婚約するような人と思われているのは解せない、とウィリデの顔は不服そうだ。
それをみて、リーサはすぐに自分の思い違いに気がついた。ウィリデについて、リーサが全てを把握しているわけではない。シルバ国内であれば記録があるかもしれないが、国外や、ウィリデが本気で隠蔽したことは知り得ないだろう。
「以前もお会いしたことが?」
「ああ。遠い昔に」
そう言ってどこかを見つめるウィリデは、リーサを見えていないようだった。その受け答えや視線は、見覚えがあった。ロジュと似ている。
『ああ。遠い昔に。多くの人間が、傷ついた』
そう言って目を閉じたロジュが脳裏に浮かぶ。あの罪悪感に苛まれた表情が、リーサの心を揺さぶるのだ。重りのように脳裏から離れない。
それに対し、ウィリデは苦しげでないことが二人の違いだろう。ウィリデは愛おしいものを懐かしむ表情だから。
「そうだったんですね」
「でも、アーテルのことは、今は知らなかったとしても、これから全てを理解したいと思う。私だけは、知っていたい」
その言葉に、リーサは息を呑む。また自分の勘違いに気がついた。ウィリデがアーテルに持つ感情は結構な重量を持つ。ウィリデが三十歳になっても結婚をしていなかったのは、アーテルを待っていたかのように感じるほどには。
「全て、ですか。すごい独占欲ですね」
「否定はしないよ」
ウィリデはそれ以上のことは言わず、笑みを浮かべるだけにとどめた。しかしその笑みは、リーサの知らないウィリデがいるというのを伝えるのに十分だった。ウィリデはリーサが知るよりも感情が重い人間らしい。兄のそういう部分を知るのは複雑な気分だ。リーサは気まずそうに目線を逸らした後で、ウィリデに質問を投げかける。
「それでは、ロジュに対しては?」
「そうだね……。むしろ逆かも」
考え込んだ末のウィリデの言葉を、リーサはよく分からずに聞き返す。
「逆、ですか?」
「ああ。ロジュには、知らないところがあってほしい。私の予想を超えてほしい」
そう答えたウィリデに、リーサは疑わしく思う。ウィリデは、自身の気持ちを正しく認識しているのだろうか。




