『ベルセルク』と『ギガントマキア』
漫画家を目指していた時期もあった私は、『ベルセルク』を読んで「こんな漫画が描けたら最高だな」と思っていました。では、ここに「三浦健太郎と入れ替わるボタン」があったとしたら・・・100%押しません。絶対に嫌です。有名な三浦先生の巻末コメントを読んでおきましょう。
1993年・14号 7月で27歳、ふり返ればマンガだらけの27年、これでいいのか?
2001年・10号 マンガ家暦13年、初めての一週間強のお休み。
久米島にダイビングの免許を とりにいく。
友達は忙しいし、彼女もいないので一人で行く。
2002年・7号 長い間、人に会わないと口がうまくまわらなくなる。
2002年・21号 2年間着信ゼロ。携帯解約しよ。
まずしい人間関係が私を机に向かわせる原動力。
2004年・23号 俺の休みは2か月に半日。
もう4年も2日続けて休んでない。 そろそろあちこちガタがきてる。
2005年・9号 過労でまた倒れた。グインの百の大典行きそこなった。うええん!
2006年・2号 30代もあとわずか。マンガ以外何もないイビツな人生だが
もうとりかえしがつかないのでこのままGO!
2006年・3号 今年もひきこもるぞ━━!
ほら、ボタン押せたもんじゃないでしょう?
「三浦先生にはアシスタントがいない」という噂をよく見かけます。「1話で千人の兵士を描かなきゃいけない」というインタビューを読んだことがあります。確かにアシスタントがいたらそんな雑兵に三浦先生が時間を割くことにはならないでしょう。さらに「仕事量が限界に達すると、同級生の技来先生にヘルプが出されて、『セスタス』が休載する」なんて噂もありました。
実際のところは分かりませんが、『ベルセルク』の落ち続ける連載ペースをみれば、真っ当な職場ではなかっただろうという想像はつきます。アシスタントがやるような仕事を三浦先生がこなしていたとしたら、罪深いものです。三浦先生自身も周囲の人間も「三浦健太郎の価値」を理解していなかったというのは本当に残念な話です。
手塚治虫先生は『火の鳥』『グリンゴ』『ネオファウスト』その他多くを未完として他界していきました。「僕に仕事をさせてくれ」が手塚先生の最後の言葉です。漫画を愛し、漫画に打ちのめされ、漫画へ人生を捧げた手塚先生を象徴しています。漫画へかける情熱、その熱量は圧倒的なものがありました。
三浦先生は漫画、というか『ベルセルク』をどれほどの熱量で描いていたのでしょうか。連載当初はそこまででもないですが、黄金時代編と断罪編には相当な熱さを感じます。しかし「剣の丘の再会」を過ぎた2001年あたりからは、一気に熱が冷めていった気がします。休載も増えていきました。とはいっても白泉社としては「終わらせられないコンテンツ」なのでズルズルと続いていきます。
そしてどうしても思い起こすのは『ギガントマキア』です。『ベルセルク』が長期休載中に三浦先生が短期集中連載したのがこの作品。当時は、そりゃ非難轟々でしたよ。「順番おかしいだろ!」って。内容は魔法使いの少女が主人公のハイファンタジーでした。コミック一冊で完結しています。当時の『ベルセルク』は年間一冊ペースだったので、一年無駄した感は私の中にありました。そもそも『ギガントマキア』は面白くはなかったですし。
しかし、三浦先生が描きたかったのは『ギガントマキア』だったのでしょう。『ベルセルク』で魔法使いの少女・シールケが仲間になった頃に「描きたいものを描いています。もう少し付き合ってください」みたいなコメントを残していました。やりたくない重労働、やりたいことは誰も求めていないという現実。それはこの頃からご自身で理解されているようでした。
振り返ってみれば、道半ばがふたつ。偉大な先生だけあって本当に残念です。