ある波止場での物語
「私、もうすぐ死ぬんだ」
目の前の少女は海を眺めながらそう呟いた。
波止場に腰掛けながら宙に浮いた脚をぷらぷらと揺らしている。まるで太陽を初めて浴びたかのような細く、白い脚を。
白いワンピースの裾が潮風ではためく。
「別に深刻な病気だとか怪我があるわけじゃないし、命を狙われるような心当たりもないよ」
顔を少しだけこちらに向けるが頭に被った大きな麦わら帽子の鍔が彼女の表情を隠す。少しだけ口角の上った薄いピンク色の唇と形の整った高い鼻が覗いた。
それだけでも少女がかなりの美人、もしくは美人になるであろう顔立ちをしていることが伺える。
さらにノースリーブから伸びた細く、しかし適度な肉感は残している腕は脚同様この夏の太陽を反射するほど白く、美しい。
だがそれに対して恋愛感情だとか欲情だとかいった感情が一切浮かぶことはない。
彼女があまりにも少女然とした背格好をしているからなのか、それとも自分自身にはすでにそういった感情が残っていないのか。
ただ、ずっと彼女を眺めていたい。このまま永遠に、時間がなくなってしまうまで。
「どうしたの? さっきからずっとだんまりで」
ただ君に見惚れていた。
「まさか、私を好きになっちゃったかな?」
そうではない。
「なーんて、私を好きになる人なんていないわ」
それは
「どうしてかって? まあそれはわざわざ私から話すことでもないわ」
そう言うと彼女は体を後ろに傾け、仰向けになってしまった。
「あなたもどう? まだ地面も熱くなってないから寝転がっても大丈夫よ」
自分が横になっている場所の脇の地面を軽く叩いたいる。おそらく並んで横になれと促しているようだが、なんとなく少女と並ぶのは気が引けたのでその場で仰向けに寝転んだ。
遠慮しなくてもいいのにと少女はクスリを笑ったような気がした。
青い、蒼い、そのまま吸い込まれそうな空が視界に広がる。
「横になってリラックスするとごちゃごちゃ考えてたこととかどうでも良くなるの」
そうだ、確かここに来たのは何か考え事をしていたような気がする。
ずっと行き詰まって、出口のないような思考の袋小路に入っていたところでこの場所に来たのだ。
だがそれまで何を考えていたのか、何に悩んでいたのか全く思い出せない。
緩やかに押し寄せる波の音が鼓膜を撫で、海からの吐息のような潮風が耳元の生毛を揺らす。
時折遠くから聞こえて来る海鳥の鳴き声が適度な刺激となり頭の中の方をマッサージするようだ。
「死んじゃうのってどういうこのなのか考えてたの」
そこで頭の上の方から声が聞こえる。
「もちろん心臓が止まって、脳が機能しなくなる。そんな生物的に動かなくなることも死の一つだと思うのだけれど」
哲学的な話だろうか。
勉強とか教養とか言うものからは程遠い自分からすれば難しい話だが、彼女のその言葉は自然のBGMに溶け込むように耳の中にするりと入ってくる。
「他人から認識されなくなった存在っていうのも死と同義なんじゃないかしら」
相槌も返事もしない。
ただ淡々と流れてくる言葉を聞き流すように茫然と、流れる雲を眺めている。
「誰にも存在を知られない、誰にも見えない、誰にも触れない、誰にも聞こえない。特徴だけ挙げてみたら幽霊と何ら変わらないのよね」
先ほどと全く声の調子は変わらないが、なぜか悲しいような憂うような感情が含まれているような気がした。
まるで誰か特定の人を指しているかのような、そんな気がした。
「それにもしも知覚できる人がいたとしても記憶として残らなければ、会ったことさえ忘れられるような存在は生きていても死んでいるのと同じ」
でも忘れられる人の記憶には他の人と話した記憶は残るのだろうか。
透明人間のような自分を、一度でも認識した人の記憶は。
「さあどうかしらね。それは私にもわからない。もし過去に話したことがあったとしても私の記憶からはその人の事は抜け落ちているのだから」
もし忘れられたとしてもひと時でも人と接することができたのならばそれはその人にとっては救いなのではなしだろうか。
「そうね、救いかもしれないしそうじゃないかもしれない。でも私はあなたがそう思うのならそれでいいと思うわ」
頭の上の方で彼女が起き上がる気配がした。
「じゃあそろそろ時間だから私は行くわ」
そういえばこの少女が死ぬと言うのはどう言うことなのだろう。
初めに言った彼女の言葉を思い出し、体を起こそうとするが
「まだもう少し横になっていたほうがいいんじゃないかしら」
そんな言葉とともに体に力が入らないことに気づく。
「無理に起きなくてもしばらくすれば何もなかったように動けるわ」
真っ白な少女が顔を覗き込んでくる。穏やかに微笑んでいることはわかるが視界が白く霞んで彼女がどんな顔をしているのかはわからない。
「私がもし幽霊だったとしてもあなたとお話ししたこの時間は忘れないわ」
彼女の声が脳に届く頃には、視界は真っ白になり意識は完全に停止した。
目が覚めると太陽が天高く昇った波止場で大の字で倒れていた。
真夏の太陽に焼かれた体は汗でぐっしょりと濡れている。不快だ。
周りにはちらほらと釣りをしている人々がいるが、人が一人倒れていると言うのに目を繰れる人は誰一人いない。まるでそこには誰もいないかのように海に向けて釣り糸を垂らしている。
しばらくそのままボーッとしてみた。
波の音と海鳥の声が聞こえる。
先ほどまで話していた少女は何だったのか。夢だったのか幻だったのか。はたまた暑さにやられて自ら作り出した妄想か。
「まあどうでもいいか」
そう独り言をこぼし、その波止場から姿を消す。
まるでもともとそこに存在しなったかのように。